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13ramdaNEO
ホラー怪談
2025年06月01日
公開日
9,551字
完結済
急に羽振りがよくなって吉原に通う男がクシャミしたら祠が壊れて、祟りを恐れるが、金の出所を問い詰められ、 その場から去るも、クシャミしたら階段から落ちて死んだ。そんな落語テイスト怪談話っぽいもの。

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 一席の御付き合いを御願い申し上げます。

 季節の変わり目とは、実に、過ごしにくいものと思っております。冬から春にかけて、春から夏にかけて、日によっては暑くなったり、寒くなったり。お天道様の御機嫌もイマイチなものですから、過ごしにくいものです。

 なんてことないって過ごしておりますと、いきなり大きなクシャミをしちゃったりしてね。いきなり隣なんぞで、一発やられたんじゃ、たまったもんじゃありません。瞬間騒音公害ですよ、あれは……クシャミハラスメント! と言いたくもなります。

 なんでもかんでもハラスメントにすりゃいいってもんじゃありませんが。

 一に褒められ二に憎まれ三に惚れられ四に風邪ひく、なんてクシャミにまつわる言葉も思い出されます。三回もクシャミが出たんなら、誰か俺に惚れてんぞ? あらやだ困っちゃう。ところが四度目のクシャミは風邪だって。

 一回目の段階で風邪を引いてるんですよ。呑気なこと言ってる場合じゃない! と思うんですが。

 うちはなひ、はなをぞひつる、つるぎたち、みにそふいもし、おもひけらしも。なんてのも万葉集にございます。くしゃみを連発しちゃうのは、腰につけた刀剣のように、ぴたぁーと寄り添ってくれる妻が俺のことを思ってるから……みたいな内容で。

 何をのろけやがって……風邪だっての!

 何事も健康が一番でございます。無病息災、あるいは病気平癒の祈願をしに参拝することは、今も昔も変わらないものでございます。

 健康で、いろいろ余裕がありますと、御縁に御利益ある寺社仏閣にお参りすることができるんでございますが。病気平癒ともなりますと、到底、具合が悪くて神社まで参拝つかまつる真似はできやしない。いやいや、家内安全に商売繁盛、五穀豊穣と大量満足、大願成就で国家安泰……キリがないものでございます。

 お参りしたいけれども、遠いし、暇もない。そんなニーズにお応えしまして、登場いたしましたのが『祠』というものでございます。

 直接、行かなくとも、祠を通して参拝できる、まぁそんな感じでしょうか。遠くへ行かずに信心を済ませちまえるってなわけでして。

 そりゃそうですよ。勝敗繁盛を祈願しようって、毎回、遠征してたら、交通費と宿泊費で散財しまくっちまう。御賽銭を淹れようとしたら、手持ちの現金が一円玉、たった二枚になっちまったりして。

 クレカも使えねぇ、スマホ決済もできねぇなんて、時代遅れだなぁ……なんてバカなことも、そのうち現実になりそうな気配がするとか、しないとか。

 んなぁこたぁ、どうだっていいじゃねぇか!

 とっとと始めやがれぃっ!

 なんて大声が聞こえてきそうな気配で……そんな声が、よぉく似合う威勢の男が、いかり肩の左手を、脛毛丸出しの胡坐の膝に乗せまして、右手にもった塗盃でもって、酒をかっくらっております。

 三尺丈の帯は前結びの片締めでありまして、見るからに博徒風情な若者であります。一見しますと八九三者でございますが、身なりだけ。

 脇でお酌をしますは、吉原の遊女、シノ。

「五どん、今日はやけに飲みっぷりがいいもんだねぇ。何かあたしに内緒で、悪いことしてきたんじゃないのかい?」

「んなこたぁねぇよ」

 五どん、と呼ばれた男。名を五八郎と申します。いつの間にやら、五どんと呼ばれるようになってしまった。五どんと呼ばれる前は、それなりの器量があったもんですが、酒を覚え、女遊びを覚え、博打に手を出したあたりから、様子が変わっちまいまして。

 シノは盃をあおる男の横顔をしっとり見つめながら、しなやかでつややかな指先でもって、脛毛を逆撫ますと、

「どこでどんな稼ぎをしてきたんだか」

「何言ってやがる、俺だって、やるときゃやるんだっ!」

 いきなり空っぽの盃を放り投げ、目をぱちくりさせたシノも構わず、袂に手を入れますと、バラバラっと何か撒き散らした。

 鈍くも黄金色とわかる四角いものが、畳の上に何枚も落ちております。

 シノが驚いたのは、いきなり五どんが動いたからで、

「随分と勢いがいいのね?」

 転がった盃よりも、散らばった金を、畳にへばりつくようにして、丁寧に拾おうとする。

 一枚目の一分金、拾っては、

「あんたもたいしたもんだねぇ」

 二枚目は二分金、つまみ上げて、

「どうやってこしらえたんだか」

 三枚目には、こう言った。

「お金だけじゃないんだよ、あたしが惚れるのは」

 四枚目をつまんで持ち上げると、ちょっと眉を潜めて、鼻を動かした。それかから、ひとつ拾う度に、ちょいとかざしてブツブツ何か言っております。お金に謝っているようにも見えまして、

「なんだい、なんだい、放り投げちまうなんてさ。こんな、粗末に扱っちゃイヤだよ? 景気よくやるんだったら……」

「シノっ、俺が不機嫌な理由がわかるかい?」

 シノは聞こえた声に、尻を向けたまま、

「あらやだ、妬いてんのかい? そいつは嬉しいね、あたしゃ男のヤキモチって嫌いじゃないよ? あたしを一等に好いてくれる証じゃないかぁ。ねぇ、五どん」

 振り向きますと、両手の上には、拾い集めた金がある。

「はい、どうぞ。まだ、宵の口じゃないか。しまっといておくれよ、ね?」

「お、お前ぇが好いてんのは、俺じゃねぇだろ?」

「そっぽ向かないでおくれよ。他の御座敷もバタバタしてるところ、どうにか都合つけて、ようやく、あんたが待ってるとこに来たんじゃないかぁ。いっぱい待たせちまって悪かったねぇ、ほんと、悪かった、堪忍してよぉ? この通り、この通りだからさぁ」

「……何ぃ言ってやがる、お前ぇ、胸ん中の奥底から謝っちゃいねぇだろ! この口先だけのっ」

 言い終わる前に、シノのほうから男に抱き着いていきまして。五どんは、受け止める間もなく、へなへなと押し倒されちゃった。その胸に顔を埋めて、シノはけらけら笑っております。

「五どん、五どん五どん五どん! あんたって人は、ホントめんこいねぇ、めんこい、めんこい。もう、その横面、引っ叩いていいかい?」

「にゃぁ、にゃにおう言って、言ってやがぁ、あぁ」

 五どんの奴は実に、だらしない顔をしております。自分から誘えばいいものを、どうも自分から上手く誘えない。いきなり迫るわけにもいかないし、口説きの駆け引きもできやしない。

 いつも回りくどい、それをシノはは百も承知。

 ようやく、珠のような地肌にふれようってところ、

「あたしの話を聞いておくれよう」

 などと、シノがアバラ骨の上で言い出した。こんなとき、女の好きにさせとくしかありません。返事ひとつして、黙って聞くしかないんです。

 野暮な真似はできません。焦ってここでシノの機嫌を損ねちまったら、それっきり。

「おぅ、聞いてやっから、話しな」

「うふふんっ、ありがとねぇ。実はさぁ、こないだ来たばかりのコがいるんだけどさぁ……そうさぇね、三両か五両ばかりで売られちまったんじゃないか、って思ってたんだよ。ところがさぁ、もっとイイ値で買われたってウワサなんだよねぇ。どれだけ器量がいいんだか。人買ぃの相場なんて、あって無いようなもんさね。

 でも、噂通りの金子ってことなら、ちょいと用があった出先で、ちらっと見かけたんだよ。そのコときたら!

 一目見て、わかっちまったよ……あんなまだ小さいってのに、後光がさしてんじゃないかって思うくらい、かわいいコでさぁ。子猫みたいな目で、頬に髭を描いてあげたくなるっちゃうんだよぉ。

 そんでさぁ、あのコったら、お天道様を浴びて、きらきらって輝いてんだよ。聞いた話じゃ、出羽のほうから来たって話でさ。掃き溜めの鶴も逃げ出すってもんじゃないかぁ? そんなコなんて、意地悪されちまうもんだけどねぇ。

 なんていうか不思議でねぇ。遠くからだけど、ぎこちなんだけど、丁寧なお辞儀してる姿がさぁ。そんなもん見ちまったよ?

 あたしゃ胸の中が熱くなっちまって、なんでも許せちゃうよ。菓子でも簪でも、あのコが好きなものを好きなだけ買ってあげて、うふんっ、甘やかしたくなっちゃうんだよぉ」

 五どんは黙って聞いておりました。勝山髷の実蔓の匂いを嗅ぐことくらいしか、やることがありません。

「ちょっとした人気者なのよぉ。案外、早いところで身請されちまうんじゃないかねぇ。そんなんだから、太夫に気に入られちまって。たいそう大事に扱われてんのかもしれないねぇ」

 このあたりから、シノの口調が小悪魔っぽい含みを持ってきます。

 妬み嫉みがまったくないわけじゃない御様子で、

「でも、あのコは知らないんだよ……まだ、知らせちゃいけない。あのコのお父っつあんは、死んじまったんだよ。首をくるっちまった。誂え向きの松の樹でもって逝っちまったんだよ? 死んだ理由が何とも情けない話でねぇ……」

「情けねぇ? 娘を売った金ぇ、博打でスッちまったか?」

「そんなんじゃないよぉ。無くしちまったんだって。どっかに落としたんだか、すられたんだか。刺し子の巾着ごと、見えなくなっちゃって。それを気に病んで、首をくくっちまったって話なんだよ?」

 シノは、五ドンが『刺し子の巾着』と聞いたとき、身体が少しだけ痙攣したように思えましたが、

『ブェックシュンッ!』

 と、大きなクシャミをした。

 シノは彼から飛び退くと、

「やだよぉ、お前さん! なんだい、冷えたかい?」

 五どんのクシャミは止まらず、畳の上を右に左に転がりながら、何発も轟音が響く始末。

 シノのほうは袂で顔を覆いながら、

「あんたぁ、悪いけど。今夜はもう帰っとくれよ。御足はいいよ、ツケとくから」

 ようやく起き上がった五どんは、挨拶も愛想もなく、むしろ逃げるように、店を後にしたのでした。



 あくる日のことでございます。

 クシャミのおかげで、仕事どころか、食うにも寝るにも不便している五どん。よく眠れなかったついで、朝も早くから草深くも寂しい道をひとり、歩いております。

 街道筋を外れた、たいそう陰気な場所でありました。道すがら、おんぼろ小屋の農家が、ぽつん、ぽつんと見えますが、やけに人の気配が無い。

 大きなクシャミをしたあと立ち止まってしまう。

 こんな有様ですから、歩きにくいこと、この上ありません。つい、悪態も飛び出すわけでして、

「ちくしょうめっ! たまんねぇや。ネギでも鼻の穴につっこんどけって、なぁ……あぁ、疲れた。ここらだと思ったんだけどなぁ」

 袂で鼻をこすりながら、一寸辺りを見回しますと、松の樹が見えた。

「おっと、あれだあれだ! 通り越しちまうところだったよ、へへへっ、今度ばかりはクシャミで助かった」

 などと呑気なことをブツブツ言いながら、松の樹へ近づきますと、誰かいる。五どんが仲良くさせてもらってる大工の兄貴分でした。

 松の樹の近くに沼がありまして。そのほとりに、小さい祠がある。兄貴は、じっと険しい顔をして、祠を見下ろしていた。

「へへっ、兄貴! どうも」

 兄貴はゆっくり振り向きますと、顔は険しいまま、

「なんだ、五どんじゃねぇか。こんなところで会うなんざ、何用だい?」

「いやぁ、用ってほどのもんでもないで。どっかの村のほうへ行ったってんで。実は、ぜひとも聞きてぇことがありましてね。物知りで頼れる兄貴だから、ひとつ、知ってることがあったら教えてもらいてぇんです」

「何だ?」

「クシャミが止まらねぇ。何とかしてぇんで」

「医者、呼べ」

「あぁ! そいつはダメですよぉ。医者ったって、来る奴、来る奴、片っ端からヤブばっかりだ」

「薬くれぇ煎じてもらえ」

「あんな苦いもの、しんどい思いして飲むくらいだったら、クシャミする鼻を鉋で削ったほうがマシでさぁ!」

「そうか、兄貴分の俺に、直々に削って欲しいってことだな?」

「いやいやいや! そんな物騒な話じゃねぇ!」

「物騒も何も、利き腕をくじいちまって、それどころじゃねぇけどな……」

「医者も薬も勘弁願いてぇんですがね、どうです? ここらでひとつ、神頼みって寸法ですよ? ところが、どこにお参りしたらいいんだか、わかりゃしねぇ」

「どこにお参りしたってかまわないんだよ。イワシの頭も信心から、信じる者は救われる、稲荷でも寺でも何処だっていい。好きにしやがれ」

「へぇ? そんなもんですかい?」

「まぁ……お前ぇみてぇな不信心を絵に描いたような奴なら、賽銭はずんだところで、聞いちゃくれねぇだろう」

「そんなこと言わないでくださいよぉ!」

「だったら、此処で試してみるかい?」

「ここで?」

 すると、兄貴は、さっきまで見下ろしていた場所を指さします。そう、あの小さい小さい祠がある。

 そして兄貴は、

「昔、ここらも人通りあったんだが。不作だ何だと、年を追うごとに寂れちまってな。まぁ、俺の先代からの縁が続いてるもんで、今でも、ちょいと付き合いがある……。

 こないだ、先代が俺の夢枕に立ってなぁ。村外れの沼の側の祠を修繕してくれねぇかって頼むんだ。オタノミモウス! オタノミモウス! ってな。

 あいにく腕が利かないザマで修繕どころじゃねぇんだが。薄気味悪くていけねぇ。目覚め悪いまんま、こうして様子を見に来たところだ」

 祠はといいますと、長いこと風雪にさらされた様子で、今にも崩れ落ちそうなほど。祠と言われなければ、木くずのガラクタにしか見えません。

「こうもひどくっちゃ、修繕は無理ってもんだ。新しくこしらえなきゃいけねぇ。そっくりそのまま、建て替えてぇわけだが……難しい」

「へ? 兄貴の腕なら、何とかなりそうな」

「困ったことにな、古い話なもんだから、あらかた祠について知ってる人が死んじまってんだ。ひとりくれぇ生きてたんだか、どこで何してるんだか。

 おまけに沼の側ときた? 変なところに建てたもんだ、なぁ? 水っ気の近ぇところで祀ってるんだ、腐るのも早ぇんだろうよ。

 しかしまぁ、どこの何を祀ったんだか、わかりゃしねぇ。出羽のほうらしいんだが、それだけじゃ、何処に話を持ってきゃいいのか、とんとわからねぇ。

 祠ったってぇ、あちこち、いろいろあるんだ。こうも古くてボロボロじゃ、どっかの神主に見せたところで、首を傾げられちまうだろ。

 それでもよぉ、なぁんか手がかりはねぇかと、あちこち調べてぇんだが、難儀でな。迂闊にさわるわけにもいかねぇオンボロぶりってんだから、なぁ?」

「だから、困っちゃってんですか? 兄貴も大変っすね」

 と、五どんが祠をよく見ようと、屈んでみますと、

『ブブブッ、ブェックシュンッ!』

 大きな一発が出てしまいます。

 鼻をこすりながら、再び祠を見ますと、無い。無いんでございます。五どんの目の前にあるのは、もはや残骸でございます。

「あら、まぁ」

「何しやがってんだ、五どん。罰当たりなことしちまいやがったな? すっかりつぶれちまったじゃねぇか」

 兄貴の声が頭上から降ってきまして。慌てた五どんは四つん這いになって、さっきまで祠だった木片をかき集めます。ところが手の中で、ボロボロッ、ボロボロッと朽ちてゆくばかり。

「あ、兄貴、何とかしてくださいよぉ」

 情けない声を出しておりますが、兄貴は五どんに背を向けながら、

「善かれ悪かれ、こいつはオマエの縁だ。オマエのクシャミが因ってことだからな。オマエが何とかしなくちゃいけねぇよ?」

 と、立ち去ってしまいます。

 五どん、兄貴の足元にすがろうとしても、クシャミが出てしまう。もんどりうってクシャミをしている間に、兄貴の姿は見えなくなっておりました。

 どうにかクシャミも静まって起き上がってみますと、祠があった場所には、腐った木片の細かい端切れがあるばかり。じたばたしている間に、蹴ったり踏んだりしちまったのか、クシャミで吹き飛んじまったのか。

「お、俺のせいじゃねぇ、俺のせいじゃねぇよ? か、かかか、勝手に壊れちまったんだ。たまたま、俺がクシャミをしたときと、風かなんか吹いて、祠が倒れちまうときが一緒だったんだろ? な、そうだろ?」

 五どんは呻きながら、後ずさります。すると、背中が目印にしてた松の樹に当たった。それを見上げますと、何ともいえない枝ぶり、首をくくるに丁度いいのでございます。

「俺のせいじゃ無ぇんだぁっ!」

 と、叫び出しそうなところ、口から出たのは、

『ブェックシュンッ!』

 なのでございます。

 急に、手足がぶるぶる震えて、五どんの首筋から背中にかけて、涼しくなってきた。

 五どんは松の幹を叩きながら、

「クシャミのせいだ、風邪のせいだ。な、何を怖がるもんかいっ! 祠を壊したのは俺のせいじゃねぇよ? 勝手に壊れやがって。

 寒くなってきやがった。晴れてんのに、寒いよ? こりゃ風邪だ、へへっ、立派な風邪だ。

 こ、こんなときは百薬の長の出番ってわけだ。一杯ひっかけて、一晩おとなしく寝てりゃ、なんとかなるってもんだ。医者? 薬? 馬鹿言っちゃいけねぇよ? そんなもんに金を払うくらいなら、酒だっ!」

 と、どうにか自分を奮い立たせようしておりました。

 言うだけ言って、足早にその場を離れながら、何となく袂に手を突っ込みます。酒を買う金を確かめたくなった。

 指先で確かめて、なんとなく取り出してみると、自分の紙入れじゃない。

 手の中にあるのは、刺し子の巾着でした。

 中身は、空っぽ。

「お、俺は何も悪くねぇ。無くす奴が悪いんだ。そんなに大事なものだったら、落ちしまわねぇように、大事に扱いやがれってんだ。粗末に扱うから、金に逃げられるんだ」

 五どんは、来た道を振り返りますと、草むらに向かって刺し子の巾着を放り投げる。

「へっ、ざまぁみやがれ。俺は落とすようなヘマはしねぇよ」

 そして、五どんは一升の酒を買いに行き、長屋へ帰ります。帰るなり、すきっ腹に流し込むように酒を呑んだ。そのまま布団を頭から被って寝てしまった。



 何時ぶりか、五どんには見当もつきません。

 はっと目覚めてみると、鼻の通りが何とも清々しい。

 鼻の頭をさすりながら、つい、ニヤニヤしてしまう。

「こいつはいいねぇ。さては昨日の酒が効いたのかい? いつもより、ちょっと良い酒だったからねぇ。味わう暇もなかったのが残念だ」

 なんてことを言ったらば、急にシノの肌が恋しくなった。

 金はあるんですから、何も遠慮することもない。

 紙入れの中身を確認しますと、鼻歌まじりでもって、シノに会うために繰り出していきます。気持ちハレバレ、空もハレバレでありました。

 当人は浮かれているつもりはございませんでしょう。ハタからじゃ、どう見えたもんだか。本人様、知る由もございません。注意力散漫ではなかろうとかと。足元に御注意しなきゃいけませんな。

 さて、五どんが向かいますは吉原でございます。当時は、今でいう昼夜の二部制だったそうで。昼見世は正午から午後四時まで。夜見世は午後六時から、と伝わっております。

 いつも夜見世の五どんが昼見世のうちから、堂々と店に来たものですから、すぐに御二階へ御案内となりました。羽振りの良さが滲み出ております。金の匂いがプンプンしておりますから、そりゃ御丁寧な扱いになった。

 今日は少々お暇な御様子で、待たされることなくシノが部屋にやってきた。

「……五どんちゃん? 今日は早いのねぇ?」

「早ぇも遅ぇもあるかい。こないだは、クシャミで悪かったな。すっかり良くなったから、仕切り直しだ。そういうのは早いほうがいいっていうだろ?」

「あらやだ。気を利かしてくれて、ありがとうねぇ。だから好きよ、五どん」

 なんてこと言われますと、今にも飛び掛かってきそうな勢いでございます。鼻息の荒い五どんでありますが、シノは焦らすだけ焦らしたい。

「クシャミが治ったっていうのかい? ホントかい? 怪しいもんだよ、お前さん」

「何を言ってやがるんだよぉ。ガキ扱いしやがって」

「扱いたくもなるさぁ。こんなに、めんこいんだもの。抱っこしてヨシヨシしたくなっちまう」

「よしてくれ、なぁ! そうだ、こないだの続きだ」

 五どんのほうから、畳の上に大の字で寝っ転がりまして、

「さぁ、どっからでもかかってきやがれ」

 なんてことを言っております。

 障子の向こうの空は澄んでおりましたが、急に薄暗くなる。障子がカタカタと風で揺れますと、空にも薄闇色した雲が流れてきた。瞬く間に、雨が降りそうで降らないような空模様となりまして。

 部屋の中も急に薄暗くなった。

「暗くなってきやがったな」

「ねぇ、五どん。行灯を点けていいかい?」

「おぅよ」

「嫌だねぇ、嫌な空だよ。もしかして、あんたが雲を連れて来ちまったんじゃあ、無いのかい……」

「何言ってやがる! 俺のせいじゃねぇ」

「嫌だねぇ、行灯に火が点かないんだよぉ」

「ったく、不器用だな、お前は」

「この行灯も長いからねぇ。今にも壊れちまいそうで、扱いにくいんだよ」

 何度もごちゃごちゃやってる女の代わりに、火を点けてやろうと五どんは起き上がって、行灯の前。するとシノは火を灯しておりました。

「なんでぇ、点いたじゃねぇか。不器用だな、お前は」

「行灯が悪いんだよぉ、あたしゃ何も悪くない」

「へっ、どうだか」

「そういやね、昨日は親方が寄ってくれたよ。なんだか、あんたのこと、心配してたんだよぉ」

「クシャミの心配かい?」

「違うよぉ。あんた、何か、やらかしたのかい?」

「つ、つまんねぇこと言ってねぇで……」

 そのとき、今まで何ともなかった五どんの鼻が激しく痒くなった。

『ブェックシュンッ! ブェェェックシュンッ!』

 勢いのせいか、灯が小さくなってしまいました。

 やけに暗くなった部屋で、シノの声が響くのみ。

「あんたのせいだったんだろう?」

「な、何を言ってんだ、シノ? 俺は何も悪いことをしちゃいねぇんだよ」

「あんたのせいだったんだねぇ」

「ち、違う、違うんだ、俺は何も、何もしちゃいねぇ。クシャミが出ただけだ、そうだ、クシャミのせいだ!」

「今日、鼻の調子が良かったんだろう? クシャミが出ちまったじゃないか? 二回も出たよ? あんたぁ、何か憎まれたり恨まれるようなこと、したんじゃないのかい?」

「な、何も俺は悪いことしちゃいねぇ!」

「じゃあ、あの金の出所は、どこだっていうんだい?」

「……あ、あれは」

「ねぇ、五どん? 言えないのかい?」

「うるせぇ! てめぇなんざ、俺の金の心配なんかいらねぇんだ。払うもの払っておきゃ、そ、そそそ…それでいいじゃねぇか!」

「そうはいってもねぇ」

 五どん、シノを平手打ちしようと手を振り上げますが、シノはけらけら笑うばかり。

「あんたにぶてるもんかい」

 急に、行灯が火を取り戻して、バチバチッと燃えた。

 灯が戻って、ぼぉっとシノの顔が闇に浮かんだ途端、

『ブェックシュンッ! ブェェェックシュンッ!』

 と、バツが悪くなった五どんは、捨て台詞もなく、部屋を出ていってしまいます。

「俺は何も悪くねぇ、俺は何も悪くねぇ。祠は勝手に壊れたんだ、金だって、無くす奴が悪いんだ、クシャミだって勝手に出ちまうんだ、俺は何ひとつ、悪いことなんて無ぇんだ、無えんだよぉっ!」

 手探りで出た二階の部屋の先、鼻がむず痒くなって、クシャミ一発放ちますと、勢い余って頭の先からぐらぐらぐらっと、前のめりに倒れ込んだ。

 そのまんま、階段を真っ逆さまに落ちてった。

 いつ聞いても、首の骨の砕ける音ってのは、厭なものですな。



 しばらくしまして。

 どうにか兄貴は、あの祠を何とかしようと、松の樹を目印に沼の側へ来たわけですが。跡形もなくなってしまったので、どうしようもありません。

 肩をすくめて帰る道、ふいに歩みを止めた草履の先に違和感。地べたを見ますと、何か落ちてる。何気なく拾い上げますと、薄汚れておりますが刺し子の巾着だ。

 中を見ますと、空っぽ。でも何か縫い込んである。そんな手触りがいたします。

 そのとき、兄貴は、巾着持ったまま、

『へ、へ、へぇ、へっくしょん!』

 何の弾みか、巾着が破れて何かが勢いよく飛び出して、そのまんま転げてった。

 転げた先を追いかけようと目をこらしますと、かつて祠があった場所と目が合った。

 何が転がっていったのか、確かめるような野暮な真似は、しないんでございます。


(了

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