私はあれから、あの代物のことが頭から離れなかった。
学者としての健全な本能、つまり「解き明かしたい」という衝動が日常を侵食していく。
調査のため、私は連日、渋谷区の図書館に通い詰めた。
民俗宗教、神道史、近世の土着信仰に関する古典的文献から、都市伝説やオカルトを扱う現代資料まで、ありとあらゆる手に取れる資料を渉猟した。
無数の頁の海に潜り込みながらも、渋谷の地下で目撃した赤い祠と完全に符合するものは、一向に見つからなかった。
似たような異形の祠や土着信仰の記述が散見されるものの、あの祠のように鮮烈な“血の色”を帯びた石造物の痕跡は、どの資料にも見当たらなかった。
例えば、地方の古い伝承には、「石祠(いしぼこ)」と呼ばれる、地元の神を封じ込めるために埋められた小さな石の祠の話が散見される。
また呪術的な役割を持つ“結界杭”や石塔に関する記述もあり、これらは対象を隔離し、異界からの侵入を防ぐとされていた。
だがどれも、都市の地下で発見されたという性質や、あの赤い石の色彩とは合致しなかった。
調査を始めて一週間が過ぎた頃のことだった。
研究に行き詰まりを感じ始めたその日、上田がそっとやや黄ばんだクリアファイルを私の机の上に置いた。
「先生、これ……もしかしたら」
上田の声は少し震えていた。
「郷土研究会の古い記録資料に紛れていたものです。学生が残した個人的な記録らしいのですが……内容が、あまりに一致していて」
私はその紙を慎重に取り上げ、静かな手つきで広げた。
手紙は古いタイプライターで打たれており、文末に細い筆致の手書き署名が添えられている。
『昭和五十年十月十日。
渋谷再開発工事の過程で、地下深くから奇妙な祠が発見された。
その大きさはおおよそ一辺一メートル四方で、石造りであるが、表面は深紅色に染まっていた。
表面には複雑かつ判読不能な文様が刻まれている。
当初、工事関係者はこれを何らかの遺跡や宗教施設の一部と見なし、考古学的な調査を始めたが、その調査は異例の速さで中断された。
中断の理由は「調査関係者の相次ぐ体調不良」である。
実際に私の知人であり工事現場に関わっていたアルバイトも、原因不明の体調不良を訴え、今回の事件を知る契機となった。
以降、現場は立ち入り禁止となり、詳細な調査報告はすべて封印。
最終的に祠はコンクリートで埋め戻されたと伝えられている。
私はこの祠のことが気になり、個人的な調査を進めていた。
その結果、戦国末期の甲斐国に存在したとされる「黒染明神(くろぞめみょうじん)」の祠である可能性が極めて高いという結論に至った。
この知見は、親戚の倉庫に保管されていた古文献に類似の記述があったことに基づく。昨年の夏休み、倉庫の掃除を手伝った際に見かけた。
黒染明神の信仰について。
確か黒染明神とは、その名をほとんどの歴史文献に残さない“消された信仰”である可能性が高い。
武田家の滅亡に伴い領地を失った武士や修験者、祈祷師、農民らが甲斐の大菩薩峠奥地に集い、外界から隔絶された集落を形成したと記憶する。
彼らは血液を聖なるものとみなし、流すことによって世界の因果律を更新できると信じていた。
特定の神仏への崇拝ではなく、怨念や復讐の念を神格化した存在が黒染明神であった。
彼らの儀式は特異であった。
年に数回、「選ばれし者」を互いに刃物で傷つけ合い、魂の循環を促すというものであった。
傷つけられ、傷つけることで魂の連鎖を生み、死者の思念を現世に留めることができると考えられていた。
時代が江戸に移ると、彼らの一部は武田家を滅ぼした徳川政権への怨念を胸に、都市部へ潜伏した。
そこで祠を呪術的に都市の骨格の一部として組み込み、未来に向けて滅びの因果を密かに織り込んでいったと書いてあったと思う。
今回発見された祠は、そうした“呪われた遺構”の一つである可能性が高いかもしれない。
祠の撤去や破壊は、信者の信念によれば「因果の再構成」をもたらし、都市に不吉な影響を及ぼすとされていた。
つまり、この祠は単なる過去の遺物ではなく、現在進行形で世界の因果に干渉する“構造物”であるという見方もできる。
やはり記憶が怪しいな。しっかりまた確認しないと。
私はこの祠の正体を解明するため、今後も親戚宅にある古文書を精査し、さらなる調査を続けるつもりだ。動きがあれば、また報告する』
私は無意識のうちに息を止めていた。
その手紙の筆致は、単なる学生の好奇心を超えて、切迫した“警告”の響きを含んでいたからだ。
「……書いたのは?」
上田は少し言葉を詰まらせ、慎重に答えた。
「日野昭一。都内の大学に通っていた学生のようです。ただ、実は――」
彼女は言葉を切った。
「この手紙が記録された直後、彼は突然大学を辞めて、それ以降、行方不明になっているんです」
「行方不明……?」
「転居届も出さず、住所も不明。大学の研究室では“帰郷”したと伝えられていましたが、地元にも戻っていないようです。五十年も前の失踪です」
私は静かに手紙を見つめたまま、椅子に深く腰掛けた。
祠の正体が、霧の中から少しずつ輪郭を現し始めているようだった。
これは、偶然の出土などではない。
都市の発展の影に紛れ、厳重に封印された“触れてはならない過去”の断片。
その断片が、今、再び地上に姿を現したのだ。
まるで、何かに呼ばれるかのように。
まるで、この都市そのものが――血を、求めているかのように。