昼下がりの喫茶店。窓際の席で三人が向かい合っていた。
静かな店内に流れるクラシックピアノの旋律と、スプーンがガラスの器に触れる音だけが響いていた。
プリンは……ほろ苦かった。
「ねえ、聖斗。これ、どういうこと?」
声を上げたのは、葵だった。
長いまつげに縁取られた瞳が潤んでいる。だが、その奥には剣のような光が見え隠れしていた。
「……説明してよ」
葵の前に置かれたプリンに、スプーンが突き刺さっている。その跡は、怒りと悲しみの深さそのものだった。
聖斗は口を開けようとして、言葉を飲み込む。
その横で、かなはずっと俯いている。まるで、何かを懺悔する聖人のように。
「言って。聖斗。どうして、この子と“そういう関係”になったの?」
怒鳴り声ではない。けれど、それ以上に重い。
葵は、泣いていた。ただ泣くだけじゃなく、きちんと怒っていた。
かなは、ただ小さく口を開いた。
「ごめんなさい……」
「謝らないでよ」
葵が言葉を切る。テーブルの下で握られた拳が震えていた。
「そういう顔、ずるいよ。ねえ、“被害者面”するのやめて?」
その言葉に、かなの肩がびくりと揺れた。だが、目は上げない。
「私ね、知ってたよ。聖斗のスマホ、見たの。あなたの名前、何度も出てきた」
――かな。かな。かな。
LINEの通知が、彼のスマホに何度も表示されていた夜の記憶が、葵の頭にこびりついていた。
「どんな女かって思って、今日、こうして時間作った。でも……思ったより“いい子そう”で、ムカつく」
葵はそう言って笑った。その笑みは、どこか壊れかけたガラス細工のようだった。
「いい子に見えるでしょ? ふわっとして、口数少なくて、謝って、泣きそうで。でもさ――」
彼女のスプーンが、再びプリンに突き立てられる。
「あなた、“私の彼氏”を寝取ったんだよ? それで謝って終わりって、思ってる?」
ぐちゃり、と音がした。
グラスの中のプリンが、重力に負けて崩れる。
それはまるで、三人の関係を象徴しているようで、誰もが言葉を失った。
かなは、それでもただ謝るだけだった。
「……ごめんなさい、ほんとに……」
声は震えていた。でも、涙は出ない。なぜなら――彼女は感情をうまく出せない子だったから。
家庭で何を言っても無視され、あるいは怒鳴られ、罵倒された。
「おまえのせいだ」「産まなきゃよかった」
言葉という言葉が、心に鉄条網のように突き刺さっていった。
「黙ってれば許されると思ってるの? それ、仮面でしょ。ほんとは腹黒なんでしょ?」
葵がそう吐き捨てたとき、聖斗がようやく口を開いた。
「葵、もうやめろ」
「やめろって、何? 私、彼女なんだよ? 私のほうが、ちゃんと愛してたよ?」
葵の声が、ついに震えた。怒りが、悲しみと混じり合って崩壊していく。
「どうせ、いい子ぶってるこの子にころっと騙されたんでしょ……? あんたの好みって、“壊れかけの女”じゃん」
聖斗の目が大きく見開かれた。
「……俺は、そんなつもりじゃ……」
「嘘つき」
その一言で、場の空気が完全に凍りつく。
プリンの甘い香りだけが、どこか場違いに漂っていた。
「私はもう無理。聖斗とも、この子とも、二度と会いたくない」
葵はバッグを掴み、席を立つ。肩は震え、目元はぐしゃぐしゃだった。
出入り口のガラス戸が閉まる音が、誰よりも冷たく響いた。
取り残された二人の間に、沈黙が横たわる。
「……わたし、最低ですね」
ようやく、かながぽつりと呟いた。
「でも、葵ちゃんの言う通り……仮面だった。ずっと、こうやって黙ってれば、許されるって思ってた」
彼女の指が、グラスの器に触れる。スプーンを、そっと立てる。
プリンは、もう原型をとどめていない。ただの、潰れた塊だった。
「わたし、人間になれると思ったんです。あなたに甘えて、優しくされて……。でも、違った」
目を閉じたかなの横顔に、ひとしずく、涙が伝った。
それは、初めての“自分から流れた涙”だった。
「……ごめんなさい。全部、終わりにします」
そう言って席を立ったかなの背中は、小さくて、壊れそうで、だけど、どこか“人間らしさ”を帯びていた。
聖斗は動けなかった。目の前にある崩れたプリンの残骸だけが、今の彼を映していた。
「……俺、なにやってんだよ……」
小さく呟いたその声は、誰にも届かず、ただ空に溶けていった。