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その日、“大人なドール”は心を知った
その日、“大人なドール”は心を知った
マカロー
恋愛夜の世界
2025年06月02日
公開日
2.2万字
完結済
ポーカーフェイスで感情を表に出さない高木かな。 彼女はいつも、深く関わらない“都合のいい関係”に身を置き、自分の心を守ってきた。 そんなか、ある出来事をきっかけに、関係を持っていた彼女持ちの男・早川聖斗に本気の感情を抱いてしまう。 「都合のいいままでよかったのに」 触れたくなかったはずの心が揺れる。 聖斗との関係の中で浮かび上がる、かなの心の傷と過去。 なぜ、かなは“男女関係”に依存するのか――? 心を持たないふりをしていた“大人なドール”が、初めて感情を持つ。 傷だらけの純情が交差する、大人のラブストーリー。

プロローグ 「仮面とプリンと、崩れたもの」

昼下がりの喫茶店。窓際の席で三人が向かい合っていた。

静かな店内に流れるクラシックピアノの旋律と、スプーンがガラスの器に触れる音だけが響いていた。

プリンは……ほろ苦かった。


「ねえ、聖斗。これ、どういうこと?」


声を上げたのは、葵だった。


長いまつげに縁取られた瞳が潤んでいる。だが、その奥には剣のような光が見え隠れしていた。


「……説明してよ」


葵の前に置かれたプリンに、スプーンが突き刺さっている。その跡は、怒りと悲しみの深さそのものだった。


聖斗は口を開けようとして、言葉を飲み込む。

その横で、かなはずっと俯いている。まるで、何かを懺悔する聖人のように。


「言って。聖斗。どうして、この子と“そういう関係”になったの?」


怒鳴り声ではない。けれど、それ以上に重い。

葵は、泣いていた。ただ泣くだけじゃなく、きちんと怒っていた。


かなは、ただ小さく口を開いた。


「ごめんなさい……」


「謝らないでよ」


葵が言葉を切る。テーブルの下で握られた拳が震えていた。


「そういう顔、ずるいよ。ねえ、“被害者面”するのやめて?」


その言葉に、かなの肩がびくりと揺れた。だが、目は上げない。


「私ね、知ってたよ。聖斗のスマホ、見たの。あなたの名前、何度も出てきた」


――かな。かな。かな。


LINEの通知が、彼のスマホに何度も表示されていた夜の記憶が、葵の頭にこびりついていた。


「どんな女かって思って、今日、こうして時間作った。でも……思ったより“いい子そう”で、ムカつく」


葵はそう言って笑った。その笑みは、どこか壊れかけたガラス細工のようだった。


「いい子に見えるでしょ? ふわっとして、口数少なくて、謝って、泣きそうで。でもさ――」


彼女のスプーンが、再びプリンに突き立てられる。


「あなた、“私の彼氏”を寝取ったんだよ? それで謝って終わりって、思ってる?」


ぐちゃり、と音がした。


グラスの中のプリンが、重力に負けて崩れる。

それはまるで、三人の関係を象徴しているようで、誰もが言葉を失った。


かなは、それでもただ謝るだけだった。


「……ごめんなさい、ほんとに……」


声は震えていた。でも、涙は出ない。なぜなら――彼女は感情をうまく出せない子だったから。


家庭で何を言っても無視され、あるいは怒鳴られ、罵倒された。

「おまえのせいだ」「産まなきゃよかった」

言葉という言葉が、心に鉄条網のように突き刺さっていった。


「黙ってれば許されると思ってるの? それ、仮面でしょ。ほんとは腹黒なんでしょ?」


葵がそう吐き捨てたとき、聖斗がようやく口を開いた。


「葵、もうやめろ」


「やめろって、何? 私、彼女なんだよ? 私のほうが、ちゃんと愛してたよ?」


葵の声が、ついに震えた。怒りが、悲しみと混じり合って崩壊していく。


「どうせ、いい子ぶってるこの子にころっと騙されたんでしょ……? あんたの好みって、“壊れかけの女”じゃん」


聖斗の目が大きく見開かれた。


「……俺は、そんなつもりじゃ……」


「嘘つき」


その一言で、場の空気が完全に凍りつく。

プリンの甘い香りだけが、どこか場違いに漂っていた。


「私はもう無理。聖斗とも、この子とも、二度と会いたくない」


葵はバッグを掴み、席を立つ。肩は震え、目元はぐしゃぐしゃだった。


出入り口のガラス戸が閉まる音が、誰よりも冷たく響いた。


取り残された二人の間に、沈黙が横たわる。


「……わたし、最低ですね」


ようやく、かながぽつりと呟いた。


「でも、葵ちゃんの言う通り……仮面だった。ずっと、こうやって黙ってれば、許されるって思ってた」


彼女の指が、グラスの器に触れる。スプーンを、そっと立てる。

プリンは、もう原型をとどめていない。ただの、潰れた塊だった。


「わたし、人間になれると思ったんです。あなたに甘えて、優しくされて……。でも、違った」


目を閉じたかなの横顔に、ひとしずく、涙が伝った。

それは、初めての“自分から流れた涙”だった。


「……ごめんなさい。全部、終わりにします」


そう言って席を立ったかなの背中は、小さくて、壊れそうで、だけど、どこか“人間らしさ”を帯びていた。


聖斗は動けなかった。目の前にある崩れたプリンの残骸だけが、今の彼を映していた。


「……俺、なにやってんだよ……」


小さく呟いたその声は、誰にも届かず、ただ空に溶けていった。

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