あれから、半年が経った。
春が終わり、街には夏の匂いが漂いはじめていた。冷房の効いた喫茶店で、かなはスプーンを手に、目の前のプリンを見つめている。表面にはカラメルが薄く光り、ほろ苦さを想像させる。
その苦さが、今の自分の心に重なる気がして、彼女はしばらくスプーンを動かせなかった。
「プリン、嫌いになった?」
ふいに隣の席から声がした。
顔を上げると、そこには——聖斗がいた。
やわらかく笑うその顔は、出会った頃とは少し違う。まるで彼自身も、いくつかの痛みを通り越して、大人になったような、そんな顔だった。
「……別に。好きだよ、プリン」
かなは視線を落とし、ようやくスプーンを手に取る。少しだけ、慎重にすくって口に運んだ。
甘くて、そして、やっぱり少しだけ、苦い。
あの日、葵が泣き崩れた喫茶店での修羅場のあと、聖斗は選んだ。
「終わりにしよう、葵」と。
ずるい選択だった。誰にとっても救いにならないような、半端な終わりだった。でも、聖斗にとって、かなにとって、それはようやく“始まり”でもあった。
ただし——
「結局、私たちは付き合ってないよね」
かながそう言うと、聖斗は少しだけ笑って、「だね」と短く応じた。
恋人じゃない。けれど、もう、セフレでもない。
一緒にプリンを食べに行くような、“曖昧で、名前のない関係”になった。
「好きって言わないの?」
「かなが、言わないなら、俺も言わないよ」
そんなやりとりを、何度か繰り返した。
聖斗は、あのあとしばらく恋人を作らなかった。かなも、誰とも関係を持たなかった。セックスをしない日々に、最初は落ち着かない自分がいたけれど、ある日ふと思った。
——あれ? 私、別に“しなきゃ”って、思ってない。
それが、自分のなかで起きていた小さな変化だった。
かなは、夜の静かなアパートで、ひとりソファに座ると、スマホを手に聖斗からのメッセージを何度も読み返した。
「今日、仕事疲れた。かなのプリン食べたい」
「ねえ、かなって、何考えてるの? 最近全然わかんないや」
「俺さ、たぶん、君のこと、けっこう好きなんだと思う」
その最後の一文に、かなは息をのんだ。
“好き”っていう言葉が、こんなに心臓を締めつけるなんて思ってなかった。
これまで、何人もの男に“好き”って言われてきた。でも、それは全部、行為の最中だった。彼らの“好き”は、たいていの場合、身体にしか向いていなかった。かなもそれでよかった。
——本音を言えば、少しでも心を向けてほしかったけれど。
でも、今。目の前にあるのは、“心”でつながる“好き”。
怖かった。怖いから、返信ができなかった。
でも、それでも、スマホを握ったまま、かなは、そっと涙をこぼした。
翌日。
喫茶店で、またふたりは向かい合っていた。
「この前のメッセージ、読んだ?」
聖斗が、じっとかなの目を見る。
かなはうなずく。でも、言葉は出てこない。
「……それって、本当なの?」
ようやく出てきたのは、その問いだった。
聖斗はスプーンを置いて、少しだけ、真剣な目をした。
「本当だよ。たぶんじゃなくて、ちゃんと、好き」
「……なんで?」
「なんでって……バカみたいな理由ばっかだよ。気づいたら目で追ってたとか、笑ったとき、ちょっとだけ安心するとか。かなのこと、守りたいと思っちゃったとか」
かなは、目を伏せる。喉がひりつくような、甘くて苦い感情が胸を満たす。
「私、わからないんだ。どうやって“好き”って返せばいいのか」
「無理に返さなくていい。……でも、少しずつ、知っていってくれたら嬉しい」
その言葉に、かなの胸が、じんわりと温かくなる。
気づけば、またプリンをすくっていた。今度は、ちゃんと味わって。
少し苦くて、でも、甘い。
これは、恋の味だと思った。
そして、その夜。
かなは、自分の部屋のベッドで、ノートを開いた。
真っ白なページに、ボールペンを走らせる。
《その日、“大人なドール”は、心を知った》
書いた瞬間、なぜか涙があふれた。
ようやく、自分が“人間”になれた気がしたから。
そして、その最初の一歩をくれた人が、今、そばにいるから。
——もう、“都合のいい関係”じゃない。
——これは、ちゃんと“わたし”の物語だ。
完