高校三年生の冬。
「私、好きな人ができたの」
ベッドから身を乗り出すようにして、彼女は僕を覗き込んだ。
さらりと、彼女の絹のような黒髪が落ちて、僕の頬をくすぐる。
「責任。取ってくれるんだよね?」
冷たい手が、僕の頬を包む。無理やり上を向かされた首が痛い。
僕を見下ろす、大きな瞳。ふ、とその瞳から輝きが失われた。真っ黒な空洞に、吸い込まれてしまいそうだった。
大学二年の夏。
俺には、一緒に住んでる人が、いる。
「……はっ」
空気が口から洩れる。額から落ちた汗が垂れて、シーツに丸い染みを作った。
俺の腕の間で、揺すられて、頬を紅潮させた彼女が、満足そうに笑っている。
「ね、
ぐしゃぐしゃになったシーツの上。情事を終えて、微睡むように枕に頭を預けていた彼女――大神さんは、他愛ない話をするように、口を開いた。
「彼氏ができたの」
「そ、うなんだ」
ペットボトルの蓋を開けようとした手が、汗で滑った。
「おめでとう」
「ありがとう」
ふわり、と彼女は微笑んで、小さな形の良い唇の端を可愛らしく上げた。
「芦屋くんも知ってる人だよ」
「え、誰だろう」
「
名前を聞いて、一瞬、どくんと心臓が跳ねた。知ってる、と返す声が震える。
天崎は、大学に入ってから初めてできた友達だ。何かと気が合って、親友といっても良い。
「知らなかった」
「うん?」
「二人が付き合ってるって」
「昨日からだから」
今日、日曜日だし、と大神さんは続ける。
「明日、報告してもらえるんじゃないかな」
なんてことのないように彼女は言う。
「どこで知り合ったの?」
「前期の倫理の講義が一緒なの。グループワーク、よくやるから。それで」
「そうだったんだ」
そうなの、と大神さんは上機嫌に頷いた。優しい人だよね、と彼女は言う。恋心は、確かに、そこにあるのだろう。
「……天崎は、知ってるの?」
「私たちのこと? 知るわけないじゃない、教えないよ」
ん。と俺は頷く。頷く、というよりは、俯いた、に近いかもしれないけれど。
「じゃあ、もう……この機会にさ、俺たち、こんなの、やめ……」
辞めよう、と続けようとした。
恋人でもないのに一緒に住んで、身体を重ねる関係。好きな人や恋人がいるのに、それはあまりにも不誠実で、おかしい。
けれど、それは、言わせてもらえなかった。
大神さんの据わった目が、俺を見ていた。それだけで、喉の奥がキュッと締まる。ペットボトルを握る手に、じんわりと汗が滲んだ。
「責任、取るって言ったのは、芦屋くんだよね」
「……うん」
「じゃあ、ちゃんと、私が幸せになるまで、責任取って」
それを拒む言葉は、絶対に吐いてはいけない。
「私、本気で天崎くんのことが好きなの。だから、ちゃんと、責任。取って」
それが、彼女を傷つけた俺の責任で、決して破ってはいけない、約束。
「分かったなら、こっちに来て」
大神さんが手招く。
ベッドに手をつけば、スプリングが軋んだ。
彼女の長い髪を避ける。白磁のように滑らかな背中には、裂くように残った大きな傷痕があって、そっとそこに唇を落とした。大神さんの吐息が震えるのが、間近で聴こえた。
「芦屋くん。私、ちゃんと綺麗?」
「綺麗だよ、すごく」
その言葉に嘘偽りはない。
けれど、大神さんは、決して俺を、許してくれない。
許されたいなんて、きっと、おこがましい願いだ。