23歳になった朝、目が覚めると白粉でも振ったかのような真っ白な腕に真っ赤な花の印が浮いていた。
ろくに見えない目でもハッキリと映るその赤い花の痣は、〝選ばれた〟シルシだ。そっと花のシルシを隠すように細い手首に手を重ねて、わかっていたことだと自分に言い聞かせる。
シンシンと雪が降り積もる、寒い朝の事だった。
白い髪にうっすらと白くなった青い瞳のその人に
誰もが村長の屋敷に駆け込み、印花を遠くから見て「やはり」だとか、「これで安泰じゃ」などと、勝手な事を言う。
決してこの手に触れようとしないくせに。
ここから出たら、決してこの花の話を誰にもしないくせに。
この村では、赤いものは忌むべきものだ。
いつからか誰もはっきりとは知らないが、少なくとも祖母の代からは「赤は災いの色」とされ、村のあらゆる場所から赤い色が取り除かれていた。
服にも、祭具にも、食卓にも。真っ赤な花など咲いてはいけない。
だというのに印花の赤は鮮烈で、ハッキリとしていて。そして今日――白い腕に浮かんだ、あまりに鮮やかな「赤」は、村人たちの恐れを鮮やかに染め直すのだった。
胸の奥ではモヤモヤとしたものが浮かぶけれど、火傷のように浮かび上がった印花の感触に、白い髪で顔を隠して、ただ受け入れる他ないと覚悟が決まった。
わかっていたのだ。
10年前、あの祠が壊された時から、【さかさまさま】は自分を求めているのだと、知っていた。
あのよく晴れた日――壊された祠に近付いたあの日から、運命は決まったようなものだったのだ。
この帰刻村には、【さかさまさま】を封じる祠が存在していた。森の奥の奥。人里離れたその場所には、【さかさまさま】の花嫁にしか近づけない社がある。
なのにあの日は、偶然にも小さな子供が道に迷って祠に近付いてしまったのだ。祠を壊してしまったのは、偶然だろう。いや、必然であったのかもしれない。
一体何をしたのかはわからないが、結果的に【さかさまさま】は解き放たれ、子供を探して歩いていた自分の黒かった髪は「さかさま」の白になり、視力の良かった瞳もろくに見えない
だが、あの子を逃がす事が出来たのは幸いだったと、今でも思っている。
例えこの手に【さかさまさま】に選ばれたシルシが浮かんでしまったとしても。この目の光を失ってしまったとしても。
あぁ、あぁ素晴らしい
さかさまさまもお悦びじゃ
酒を出せ
鐘を打て
あぁこの村も安泰じゃ
村の老爺たちが嬉しそうに嬉しそうに、小躍りしながら女たちに酒宴の席を整えさせる。
今日は元々誕生日なのだ。村長の家に誕生日を迎える子供があれば、村人には酒を振る舞われ大事にとっておいた豚や鶏を潰して盛大に焼く。家のものが餅をつき、黒と白に色づけたそれを村人は好き好き千切って持ち帰るのだ。
残念ながらこの冬の最中に誕生日を迎えるせいで外で肉を焼く事は出来ないが、それでも肉は山のように皿に盛られる。
この村に肉を好む若者なんてもうそうは居ないし、老人たちだって絶対に途中で飽きてしまうのじゃないかと思うのだけれど、毎年必ず老人たちは肉に齧り付いた。
「
「……はい」
この家では、23を迎えた〝花嫁〟より下の者は、7つ下の弟の綜真だけだ。
この子が次の村長になると決まったのは、この髪が徐々に元の色を失い始めた頃だった。最初は酷く抵抗したものだ。次の村長になるのだからと厳しい家庭教師をつけられ、外で遊ぶことも出来なかったというのに、その努力が全て弟に奪われるだなんて我慢ならなかった。
父の愛が弟に奪われるのではという不安でも、胸がいっぱいになった。
ただでさえ身体が強くなく、頭で挽回をしようと思っていた所だったのに、まだ物心のついたばかりの弟に全てが奪われてしまうなんて、我慢が出来なかったのだ。
しかし、祖父母から【さかさまさま】についてを聞いたら、全ての諦めがついた。
きっとお前は【さかさまさま】に選ばれたのだろうと。だから、普通の人間とは違う姿になったのだろうと、誇らしげに言う祖父母に、涙を流して頷く事しか出来なかった。
綜真は、素晴らしい若者だ。背が高く、肩幅は広く、面立ちも母に似て整っている。キリリと整った眉は都会に出てもモテるだろう。
けれどこの子は、自分が村長候補になったと知った瞬間から子供らしさを無くしてしまった。
あの日、祠を壊してしまったあの子の家族が逃げるように村から逃げてしまってからは、笑顔すらも。
「おぉ、おぉ! 迎え灯籠じゃ! 迎え灯籠が出とる!」
「なんと!」
「ありがたやありがたや……」
宴は夜にまで続き、宴の間中広間から出る事を許されなかった足が痺れ始めた、その頃。
屋敷の外で雪の中呑めや歌えやをしていた村人が、驚愕の声を上げて屋敷に駆け込んできた。雪の中踊っていたせいで足元はびしょびしょ、泥でぐちゃぐちゃ。
汚れた三和土を見て思わず溜め息を吐く音がした。すぐ隣の、綜真のものだ。明らかに感情を乱されたその呼吸を宥めるように、そっと、綜真の手に手を重ねる。
迎え灯籠は、この村の人間たちが10年間待ち望んでいたものだろう。印花だけでなく迎え灯籠まで同じ日に出現したとあれば、浮かれてしまっても仕方がない。
しかし綜真は、俯いて正座をした膝の上でぎゅうと拳を握り込んでいた。
迎え灯籠は、印花の出た〝花嫁〟を迎えるための道標なのだ。つまりは、【さかさまさま】はきっと、今年、間違いなく自分を連れていく。
印花をそっと撫でて、痺れる足を誤魔化しながら立ち上がる。
「何色ですか」
「へぇ、白色であります!
「白……」
白い迎え灯籠は、まだ迎えの刻ではないものの、その準備をせよという意味のある色だ。人間である身を清め、【さかさまさま】に身入りする準備をせよという兆し。
やがてこの灯籠は時間を変え、色を変え、迎えの時期を示すのだろう。
今年23の歳を迎えるのは一人だけ。
そもそも、今日この日までに23を迎えた人間のうち誰にも印花は出ず、迎え灯籠も現れなかった。
つまりこれは、ただ一人だけを求めたものであるという証左。
ただ一人――印花がこの細腕に出るのを【さかさまさま】もまた待っていた、という事。
「今年の夏の逆さ暦は、特によくよく確認をするように」
「へぇ。皆に連絡を回しておきます」
「裏盆の神楽は、今年で最後になるんですなぁ」
「十燈様の舞は実にお美しかった。残念ですなぁ」
「ほんにほんに。今年で最後とは、惜しいものですわい」
「あぁでも、ほんによかった。あの顔石が表になってから、村にはよぉない事が繰り返されとりましたからなぁ」
「あぁよかった。あぁよかった」
安堵し、酒を煽る男ども。
安堵し、甘味を食らう女ども。
そのどちらもを眺めてから、綜真は白い細腕を掴んで立ち上がった。そのままゆっくりと、廊下へ出る弟の後ろをのんびりと歩く。
印花に触れてはいけないよ。お前まで【さかさまさま】に見つかってしまうからね。
ひんやりと冷える廊下を歩きながらそう言えば、弟は歯ぎしりの音をハッキリさせて口を閉じた。
優しい子。この村では数少ない子供だからぞ、小さな頃から一緒に遊んでいたのに、それも10年前が最後になってしまった。
もっとたくさん遊んであげたかった。
欲を言うなら、もう少しだけ――
いや、欲をかいてはいけない。ただでさえもう、23年も生きたのだから。
「今日は一緒に寝ようか、綜真」
「…………火鉢を持ってくる」
「じゃあ、印花に布を重ねておくね」
部屋に戻ると、火鉢がひとつでは足りない程の寒さに綜真が台所へ足先を戻した。
パチパチと仄かな明るさで部屋を必死に温めようとする火鉢の墨を僅かにかいて、布団の上で足を投げ出す。
夏に、全ては終わるだろう。
そう思うと、今の寒さすらも愛おしかった。
この村には、昔から伝わっている伝承がある。【さかさまさま】の伝承。
人気のない山の奥の祠に御神体を持つ「さかさま」の神様。その神様のために村人は暦も、葬儀も、祝い事も、その全てを「さかさま」に行う。
【さかさまさま】の花嫁に選ばれた者は、生贄とは「逆」に生きたまま【さかさまさま】のものになる。
それがどういう意味なのかは、誰も知らない。今までの花嫁がどうなったかも、どこへ行ったのかも、誰も彼も、知らないままだ。
勿論【さかさまさま】に逆らったらどうなるのかも、みな口を噤んで話そうとはしなかった。