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4 ソメイヨシノ ~羽柴明周~

 僕の名前は波柴はしば明周あきちか。生まれは山梨でそこで両親の元で育った。

 家庭事情は複雑で、僕には歳の離れた兄がいると聞かされたのは、父さんの死の間際だ。

 父さんはしばらく仕事で家にいなかったが、出張先で事故に遭い、救急搬送されるとそのまま死んだ。

 なぜか病院には警察官がうじゃうじゃいた。悲痛な叫び声をあげながら泣きじゃくる母さんの姿が心に強く残っている。葬式はひっそりと身内だけでやった。

 父さんが死んでからというもの、母さんは別人のように影のある人になってしまい、幾度となく僕に当たった。それは、僕のこの声が死んだ父さんの声に似ていたからだと思う。

 汚れた爪で服を破れるほど握りしめて、部屋の隅で震えながら僕を見ていた。きっと僕が話すと、父さんを思い出し辛かったんだろう。

 そんな荒んでいく母親から逃げるように上京した僕は、今この街で雑貨と喫茶の店を経営している。

 ここまでの道乗りは大変だったが人脈にだけは恵まれ、周りの大きなサポートのおかげで無事出店までこぎつけた。

 店の名前は『LoOp』。重なる波紋が一つのかたちを創り、訪れた人がこの店を気に入って何度でも戻ってきてくれるようにと付けた名前だった。

 ここには様々な人がやって来るが、残念なことに男性客は少ない。女性客だけでは、どうしても財布の紐が固くなかなか売上が伸びない。

 大変な仕事だけど、工夫次第で商品は売れていく。店の雰囲気や陳列、相応しい商品の見せ方を押さえるだけで結果は変わってくる。

 店ではオリジナルのアクセサリーなども販売した。昔やっていた彫金の経験を活かし、設備を店に入れ、時間は掛かるがコツコツと新作を作るたびに店に出している。

 今手掛けているのはメビウスの環をモチーフにしたペアリングで、女性用のリングが仕上がったばかりだった。その出来映えには自分でも満足している。

 男性用のリングにも取り掛かり、型は作り終えた。シルバーを型に流し込む作業に移る前に一息ついていると、珍しく男性客が来店し、辺りをキョロキョロと眺めながらカウンターへと腰掛けた。

「いらっしゃいませ」

「珈琲」

 仏頂面でそう一言だけ言った彼は、僕と目を合わせようともせず、貧乏揺すりをしながら店内を舐めるように見渡していた。

 見た目は歳の近そうな青年で、音楽をやっているような雰囲気の格好をしている。

 彼が羽織っていた黒のパーカーの胸には白字で洋物のバンド名がプリントされ、タイトなジーンズに足元は白いラバーソール。何より、すらっと伸びた細い指がベーシストのそれを感じさせた。

 男は出した珈琲を一気に飲み干すと、すぐさま立ち上がりレジにやって来る。

 確かに、この店の雰囲気は彼好みではなかったかもしれないと思いながらも会計を済ませていると、男はショーケースの中のアクセサリーに目を留め、仕上がったばかりのメビウスのリングを出すように言った。

 言われた通りにリングを差し出すと、それを手に取った彼は一目で気に入ったのだろう、わかりやすい笑顔を浮かべて、プレゼント用に包んでくれと言いつけた。

 一点物を製作するときは必ず大きめに仕上げる。小さめに作ってしまうとサイズ直しが困難になるからだ。これは十一号で作ってあった。

「プレゼントですか? サイズがおわかりになれば、すぐに直しができますが」

 しかし話を聞いているのかいないのか、彼はレジ台に手をつき指を上下させ台をコツコツと鳴らすだけ。

「実はこのリング、男性用も作っている最中なんです。良かったら一緒にどうですか?」

 男は痺れを切らしたのか、「なんでもいいから早く包んでくれ」と怒鳴り出したので、僕は慌ててリングを包装した。

 サイズ直しは必ず必要になると思い、箱の中に店の連絡先を記したカードを一緒に入れて渡す。商品を手に、嬉しそうに店を出ていく彼の後ろ姿はなんだか微笑ましかった。

 急にガランとした店内で、自分用に珈琲を淹れる。相方に取り残された男性用のリングを手に取りながら、僕はなんとなく寂しい気持ちを手の中の輪に重ねていた。


 彼女がリングを受け取って店にやって来たのはそれから二日後の日曜日だった。

 黒髪のすらっとした女性で、服装はシンプルなのだが着こなしが絶妙なのか、使うアイテムや色合いが秀逸なのか、とにかく普段来店する客とはまた違ったセンスの良いオーラを内側から放つ女性だった。

 彼女は店内を眺めながらカウンターに着くと珈琲を注文し、この店の雰囲気を褒めてくれた。このセンスの良い女性に褒められて、僕はとても嬉しかった。

 その彼女が例の彼の恋人だと知ったのは次の瞬間だった。カウンターに差し出されたあのメビウスのリングを僕は覚えていたからだ。

 しかし、運が悪いことに加工用バーナーのヘッドが二日前に破損してしまっていた。既に注文してあるが、納期は三日後。それが届くまではサイズ直しをすることができない。

 僕はリングを預かり名刺を渡すと、彼女は恥ずかしそうに紙ナプキンに自分の名前と携帯番号を書き記した。歪む紙をその細い指で押さえながらたどたどしくペンを走らせる。

 そこには卯月未依と書かれていた。そして一瞬悩むと、彼女はその横に柔らかい平仮名で『まい』と付け足した。

「えっと、これ『まい』って読むんです。よく訊かれるので」

 彼女に似合うかわいらしい名前だと思った。

 珈琲を飲んでいる間、彼女は嬉しそうに色々な話をする。混み始めた店内の客を捌いている間も、未依さんはカウンターから店内を眺め、その雰囲気を楽しんでくれていた。

「ボサノヴァが本当に似合うお店ですね」

 店内から客がいなくなり、僕がカウンターに戻ると未依さんが待ちかねたように言った。

 僕は少しびっくりした。その日かけていたのは曲調のぐっと落ち着いた、というよりはアンニュイを通り越して陰湿ともいえるアルバム、ナラ・レオンの《Dez Anos Depois》だったからだ。

 アストラッド・ジルベルトが歌う《イパネマの娘》はあまりにも有名だが、ナラ・レオンはそのアストラッドに歌を教えたというボサノヴァのミューズと呼ばれる女だ。

 多くの人は軽いボサにしか馴染みがない。それはそれで構わないが、この曲を聴いて、すぐにこれがボサノヴァだとわかることに僕は正直驚いていた。

 店で曲をかけていると、客からよく「これは何ですか?」と訊かれるが、ボサノヴァだと言うと不可思議な顔をされることもある。というより、このアルバムの一曲目は特に受けが悪いので、店では飛ばすこともあるくらいだ。

「これがボサノヴァだってわかるなんてすごいですね」

「私、この人好きなんです」

 未依さんは少し照れたような顔をして話を続けた。

「この『LoOp』のOが大きくなってるのはどうしてですか?」

 僕が店の由来を説明するのを、未依さんはとても真剣な面持ちで聞いてくれている。それから「実は……」と、自分の彼がお店を出したいのだと語り始めた。

 ライバル店が増えるのは困るけれど、同じ夢を持ち、そして実現することができた立場の人間として、僕は彼らの夢を応援したくなり彼女に起業セミナーの話をした。

 レジ台の上で指をコツコツしていた男の顔を思い出し、内心苦笑いする。あの落ち着きのなさそうな彼には少し苦痛かもしれないけど、自分が今どこにいて、この先どんな段階を踏んでいけば目指すゴールが見えてくるのか、そんなビジョンの可視化がしやすいセミナーはとても有益だ。

 彼女は嬉しそうにお礼を言うと店を後にした。


 翌日の午後も彼女は来店してくれた。どうやら『LoOp』のファンになってくれたようだ。

 未依さんは店の扉を開けると、まっすぐカフェカウンターに座って、僕の手が空いてそうなタイミングで話しかけてくれる。

 月曜のこの時間は客足は殆どない。いつもは仕入れや在庫管理、アクセサリー制作などに時間を費していた。

 出店して気づいたことだが、月曜と火曜は客の入る時間帯も遅く、人数も少ない。まあ『LoOp』は喫茶をメインでやってる店ではないので、それは仕方がないのだけれど。

「お腹空いているんではないですか? 何か作りますよ。大したものはないですけど」

 帳簿を引き出しに仕舞うとメニューを手渡す。未依さんは「じゃあ」とそれをパラパラめくり、

「フルーツパンケーキと……この、ざくろのスムージーをお願いします」

 とにっこりした。

 焼き上げたパンケーキに、僕が『LoOp』の焼き印を入れるのを彼女は面白そうに見ていた。ライムを絞った水のグラスを傾けながら、店内のボサの音色に心を揺らしてくれている。

 それがわかって嬉しくなった僕は、さりげなく、今かけているアルバムをそっと立てかけた。

「あの、これもボサノヴァなんですか?」

「ええ、ちょっと雰囲気が違うでしょう? 僕はあまり純粋なボサよりはこういうのが好きなんです」

 未依さんが僕が作ったざくろのスムージーを飲みながら嬉しそうに語り始める。

「実はさっそく彼にセミナーの話をしてみたんです。そしたら彼も興味を持ってくれて、明日の昼にセミナーに出席することになったんです」

「それは楽しみですね」

 一つの夢に向かい実現させていく。一体どんな素晴らしい店ができるのだろうかと、僕も自分のことのように楽しみだった。


 彼女が帰った後、僕はシルバーを流し込んででき上がったメビウスの男性用リングのバリ取りをしながら、ふと彼女のために何かできることはないだろうかと考えた。

 もし彼に経営の経験がないなら、アルバイトとしてここで経験を積んでもらうのはどうか? こういう仕事は仕入れ先などとのパイプも重要だし、実際に店に立てば様々なことが学べる。

 その日はリングのバリ取りを途中までやり、店を閉めたあと僕は街へ繰り出した。居酒屋で食事を済ますと帰宅した。

 翌日も仕事終わりに未依さんはやってきた。その表情がうずうずとしている。何か自分の考える素晴らしいアイデアを僕に伝えたくて堪らないといったような顔だった。

「お揃いのリングを作ってもらえませんか」

 ワクワクとした表情で突然話し始めた未依さんに僕は驚いてしまった。

「実は……」

 仕上げに掛かっている男性用のメビウスリングを目の前に差し出すと、未依さんは目を輝かせて、かわいらしい指でリングを手に取り眺めた。

「自分で言うのもなんだけど、心を込めて作った自信作なんです。このリングが二つ一緒にいられるなら僕も嬉しいですよ」

 相方を失って寂しそうにしていたリングの持ち主が突然決まり、僕はまるで親のような気持ちになっていた。

 バーナーの部品は明日午後に到着するはずだ。未依さんのリングのサイズ直しは明日か明後日の午前中までに終わらせよう。

「明後日には揃って渡せると思います」

 そう僕が言うと、未依さんは快く了承してくれた。


 彼女が帰った後もリングの仕上げに熱が入る。なんとかその日に磨きまで終え、完成したときには既に夜明け間近だった。

 達成感を感じながら帰路につく。そういえば、彼女に彼のバイトの話をするのを忘れていたなと、ひとり笑いながらその夜は眠りについた。

 水曜の朝、いつものように支度をし家を出ると外は薄曇りで、最近続いていた晴れ間が恋しくなる。

 当たり前のように目の前にあるときは何も思わないのに、ふと目の前からそれが奪われると、人は失くなったものを急に恋しくなるのだと感じながら店へと向かった。

 カウンターにリングを並べる。厚手の黒いクロスの上で輝く二つのメビウスの輪を眺めながら、僕はその出来映えにうっとりしていた。既に行き先の決まったリングたち。嬉しくもあり、少し寂しい気持ちにもなる。

 仕事を終えた未依さんが来店し、カウンターに並べてあるリングを目にすると「すごく楽しみです」と嬉しそうにしてくれた。

「ところで相談なんだけど」

 僕は昨日話し損ねたバイトの件を切り出した。未依さんの顔が一層赤みを帯び、みるみる笑顔になっていく。

 お礼にと未依さんは店を閉める手伝いをしてくれた。会社のエスプレッソメーカーと機種が同じだといって、面倒な抽出口の掃除を買って出てくれる。

「次からは未依さんに淹れてもらおうかな」と僕が笑うと、「そんなことでいいなら」と口元をほころばせた。彼女はこの店を気に入り足繁く通ってくれている。いつしか僕はそんな彼女に心を奪われている自分に気がついていた。


 施錠をして表へ出ると、脇に植えた木に咲く黄色の花を未依さんが見上げていた。

「どうした? ウコンが珍しい?」

「え? ウコン?」

「そう、それサトザクラなんだよ。黄色い花だし花弁も多いから桜とは思えないかもしれないけど、何か変わった木を植えたいと思って取り寄せたんだ」

「桜の木、好きなんです。でもこれは知りませんでした」

 今日の未依さんは、淡い白いリボンブラウスに、薄緑色のパンツ、薄い黄色の同系色のコンビで切り替えたオックスフォードを履いていた。全体的に淡い色合いだが、濃紅色のスムースレザーのベルトが映える。

 未依さんがやって来るたびに、僕は、彼女が『LoOp』のためにその日の服を選んでいるのではないかと感じていた。

 未依さんは店のどこに立っていようとも、一際目立って、常にその中心で空間を彩っている。

 僕の陳列する商品の中の何よりも、一番に美しく魅せたいのは未依さんだ。今こうしてウコンの下に立つ未依さんが、この桜に命を吹き込む精のように思えた。

「サトザクラはすべての桜の雑種といってもいいけど、僕なんかが雑種だとしたら、未依さんはさしづめオオシマザクラといったところだね」

 未依さんがとても驚いた顔をして僕を見る。

「どうしたの?」

「いえ、オオシマザクラだといわれたのはこれで二度目なので、少しびっくりして。詳しいんですね」

「こんな仕事をしているといろんなことに詳しくなるんだ。それを言ったのは彼? もしそうだとしたらすごく愛されているんだね」

 未依さんは黙っていた。あの冴えない男性がそんな気の利いたことを言うはずもない。

「知ってる? サトザクラやソメイヨシノの片親は全部オオシマザクラなんだよ。母体は変わらない。今ではすべての桜の基準はソメイヨシノのように思われているけど、ソメイヨシノだけでは子孫を残せないんだよね」

 隣でゆっくりと歩いている未依さんの瞳は、まっすぐ前を向いていて、とても綺麗だった。回り道をして、もっとずっと歩いていたい衝動に駆られる。

 何かもっと話そうとして、印字するイニシャルのことを持ち出した。

「印字はどうする? 未依さんは指が細いからあまり入れられないかもしれないけど、二人のイニシャルをペアで入れるのが人気があるよ。彼の名前はなんていうの?」

「名前……」未依さんは何か考え込んでいる風だった。

「実はずっと昔から、いつかって考えていた文字があって……『j&m's blossoms』とかって入れられますか? 長すぎます?」

「ああ、なんとかぎりぎり入るかもしれない。小さくはなるけど」

 mは未依さんのイニシャルだろう。

 しかしなぜ、blossom? 花を咲かせるという意味だろうか。桜に何か思い入れがあるのかもしれない。

 いつか未依さんに、僕の故郷の神代桜を見せてあげたい。樹齢二○○○年のあの捻れ桜を見たらきっと驚く――僕はそう思った。

「彼のイニシャルがjなんだね。明日、彫る文字の字体を相談しようか」

 僕が言うと、未依さんは嬉しそうに否定した。

「いえ、印字は本当に夢が叶ったときに改めてお願いしたいんです」

 なんだか早々に失恋を味わった気分だった。


 未依さんと別れ、いつもの居酒屋に向かう最中だった。突然後頭部を固い鈍器のようなもので殴られたが、その瞬間に僕の痛みは消し飛んでいた。

 何度も何度も殴られているんだろうが、まるで他人事のように痛みを感じない。不思議なほど、僕は冷静を保っていたのだ。そして、殺意を持って打ちのめす者の顔を僕ははっきりと見ていた。

 それは嫉妬に狂って僕に殺意を向ける未依さんの彼だった。その場から立ち去る彼の後に、声を聞きつけた男性が慌てて駆け寄る。

「大丈夫ですか⁉」

「父……さん……?」

 なぜそんなことを言ってしまったのかはわからない。ただその男性の声は死んだ父さんの声にすごく似ていた。その後意識を失くした僕が目を覚ましたのは、翌日の木曜日の午前中だった。顔や頭のあちこちが痛かったがまだ生きている。昨夜の記憶が鮮やかに思い出された。

 意識を取り戻した僕に医者やら警察が話を聞きにくる。

 そのとき、僕はひょっとしたらこれは彼女を自分のものにできる良いチャンスなのではと考えた。あれほど嫉妬に狂った男だ。僕が生きていると知れば、必ず止めを刺しに来る。

 正当防衛ならば相手を殺しても罪にはならない……どこかで聞いた知識が頭を駆け巡った。

 警察には何も覚えていないと話す。誰も疑うこともない。僕は実行するためのシュミレーションを繰り返した。

 どうやって彼をここに仕向け、返り討ちにし、彼女を自分のものにしようか……、僕を心配して泣き崩れるかわいらしい未依さんが目に見えるようだ。

 そんなことを考えていると、昨夜に僕を助けたと名乗る人物が見舞いに訪れた。この男は利用できる。僕は惨めな男の素振りをして、その川瀬という男に取り入った。

「食材は傷んでしまうので捨ててしまってください。ああ、でもそうだな、冷蔵庫に洋梨が残っているんです。病院の食事が味気ないので、申し訳ないんですが、明日持ってきていただけないでしょうか。果物ナイフは黄色いトレーにしまってあります」

 僕がさりげに食材の処分を頼むと、川瀬は快く了承し部屋を後にした。未依さんの彼は、僕の生死を確認できていないはずだ。自分の犯した罪を彼女に告白するタイプでもないだろう。

 これで明日にはナイフが手に入る。川瀬を店に立たせておけば未依さんはいつものようにやって来て、僕がいないとなれば心配するに違いない。僕の居所が彼女に伝われば、男の方もやがて……。頭の中で着々と作戦が組み上がっていった。


 金曜の夜、店を終えた川瀬が予想通り未依さんを連れて病室にやってくる。僕はナイフと果物を受け取ると、川瀬に彼女のリングのサイズ直しを頼んでから、もし僕を訪ねに男性が来たら、この病院に入院していることを伝えるよう頼んだ。

 川瀬は帰り、残った彼女と会話をする。未依さんは心配そうに僕を見つめ、目を赤く染めていた。自分を心配するそんな彼女が僕は愛おしくて堪らなかった。

 しかし今はまだ善人を装っていなくてはならない。それはすべて君を手に入れるために。

 これがすべて上手くいったら、君と二人であの『LoOp』を盛り上げていこう。そのとき、あのリングには僕と君のイニシャルを刻むから……。


     †


 真っ白な廊下が静寂に包まれるまで、密かに息を殺して潜んでいた獣は、今ゆっくりと立ち上がると、仕留め損ねた獲物の血の匂いを嗅ぎわけて進んでくる。

 物音ひとつ立てないように細心の注意を払いながらその扉を開き、中へと潜り込んできた。廊下の張りつめた空気が部屋の中に冷たく入り込む。

 まだ乾ききっていない血の染みた牙を剥き出して、その腕を高く振り上げた彼の耳に、動揺を誘うような携帯の着信音が鳴り響く。

 さぞかし慌てただろう。音は鳴らないようにしていたはずだから。男が携帯を探りあてようとした瞬間、ベッドの下に潜んでいた僕は、彼の喉元にナイフを突き立てた。

 ひゅーひゅーと喉元から息を漏らしながら、涙目の男が、なぜ? という表情で見る。

 まだ鳴り続けている自分の携帯の着信画面を、ぶらぶらと彼に見せつけながら僕は言った。

「残念だったな。女神の着信がおまえ宛てじゃなくて」

 まあ頭の悪い彼には何のことか理解できないだろう。彼が扉を開けるのを見計らって僕は未依さんにワンギリしていた。

 彼女の返信のタイミングはこれ以上ないほどに神がかっている。やはり運命だ。僕は口元がほころぶのを堪えきれない。

 僕は彼の握り締める刃物を奪うと、ゆっくりと彼の心臓に深く突き刺していった。そう、大樽にナイフを突き刺し、人形を飛ばして遊ぶあのゲームのように。

「彼女のことは心配しないでいい……」

 耳元で囁くと、男は細かく震えながら床へと沈んでいった。

 ナースコールを押し、至急部屋に来てくださいと叫ぶ。

 僕はカーテンを開け、夜空に浮かぶ真っ赤な月を見ながら微笑んだ。


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