「パパー!おかえりーっ!」
玄関の扉を開けた瞬間、小さな体が突進してきた。鞄を置く間もなく抱きつかれ、思わずよろめきながらもその柔らかな抱擁に腕を回す。
「ただいま、ひなた。今日も元気だな」
「うん!すっごく元気だよ!だってパパが帰ってきたんだもん!」
にぱっと咲いたような笑顔。ほっぺがもちもちしていて、口元は少しご飯粒がついている。
「ごはん食べたのか?」
「うん!ママが作ったカレー。でもね、ママのカレーもおいしかったけど、やっぱりひなちゃんはパパと食べたかったなぁ〜」
そう言って、名残惜しそうにお腹をさする娘に、俺――秋山悠真(あきやま ゆうま)は小さく苦笑いを返す。
「仕事が長引いて、遅くなっちゃってごめんな。明日は定時で帰れるようにするよ」
「ほんと?ほんとに?パパ、約束して!」
小さな手がぎゅっと俺の指を握る。
「よし、ゆびきりだ。……指切りげんまん、うそついたら……」
「はりせんぼん飲ーますっ!ぜったいね!」
ふたりで声を合わせて笑った。
和やかで、温かな夕暮れ。これが、俺の一番幸せな時間。
***
「パパのこと、ひなちゃんぜったい、ぜーったい、ぜーっっっっったい、だいすきなんだからっ!」
風呂あがり、バスタオルに包まったままの娘が、ベッドの上で宣言する。ふにゃっとしたぬいぐるみを抱きしめながら、ほっぺたを赤くして目を輝かせていた。
「パパもひなたが一番大好きだよ」
「ほんとに?ママより?」
「う……そ、それは……」
「あ〜、いま迷ったでしょ!ママのこと、好きなんだ……」
娘はぷぅっと頬を膨らませ、横になって寝返りを打つ。ツン、とそっぽを向いたその様子はまるで小さな恋人のようだった。
「なあ、ひなた。ママのことも大事にしような。ふたりとも、パパの大事な家族だから」
「……でも、ママはパパをいじめるときあるもん」
「それは……まぁ、たまには、あるかもな」
俺は頭をかく。確かに最近、由紀恵と喧嘩が増えた。些細なことがきっかけで、つい口調がきつくなってしまう。
「だから、ひなちゃんが大きくなったら、パパを守ってあげる!」
「え?」
「パパがいじめられても、ひなちゃんがぜったい守るの。でね、パパとけっこんするの!」
無邪気な顔で、ひなたが言った。
そのあまりの可愛さと真剣な瞳に、一瞬返す言葉を失った俺は、笑ってごまかすしかなかった。
「ありがとな。ひなたがそう言ってくれるなら、パパはもう無敵だな」
「えへへ。だからね、ほかのだれともけっこんしちゃだめだよ。パパのおよめさんは、ひなちゃんだけだからね?」
そう言って、ひなたは俺の腕にぎゅっとしがみついてきた。布団の中で温もりを分け合うように、くっついて眠る娘。愛しくて、幸せで――でもどこか、不思議な違和感が胸に残る。
……娘が、母親のことを「邪魔」と言ったことがある。
それがたった一度きりの、子供のわがままだと信じたかった。
だけど、あのときの瞳は、妙に冷たかった。
その記憶が、今夜のやわらかな寝息の奥に、うっすらと影を落としていた。
***
翌朝。
「パパー!ひなちゃん、今日ね、おともだちに言ったんだよ!」
「何を?」
「『ひなちゃん、パパとけっこんするんだよ〜♡』って!」
「ええっ!? ちょっ……それは、言わないほうが……」
「なんで?ほんとのことだもんっ」
「……そ、そうだけどな」
こんなにも真っ直ぐに信じてくれるのは、たぶん今だけだろう。もう少し大きくなれば、自然と父親離れして、友達と遊び、恋をして、いずれ俺の元を離れていく……。
そんな当たり前の未来が、なぜか少し寂しく感じられた。
「なあ、ひなた。パパはな、いつかひなたが好きな人と結婚して、幸せになるのを、いちばん応援してるよ」
「やだよ」
「え?」
「そんなの、やだ。パパ以外、だれもいらないもん」
ひなたはスプーンを握りしめたまま、きっぱりとそう言った。
その目には――一切の迷いがなかった。