冬の寒さが東京を包み込み、マンションの窓は厚いカーテンで閉ざされていた。悠真とひなたの家は、まるで外界から隔絶された小さな王国のように静まり返っていた。ひなたの異常な執着は、悠真を完全に彼女の世界に閉じ込め、彼の心と体は娘の作り上げた幻想に飲み込まれつつあった。悠真は会社を辞め、学校や近隣との連絡も絶ち、ひなたと二人きりの生活に沈み込んでいた。ひなたにとって、これは彼女が夢見た「幸せな結婚生活」の始まりだった。
ひなたは、まるで本物の妻のように振る舞っていた。朝は早く起きて、悠真のために朝食を用意する。トーストにベーコン、完璧に焼き上げた目玉焼き、そして丁寧に淹れたコーヒー。彼女はエプロンを身にまとい、小さな体でキッチンを動き回った。悠真がリビングに降りてくると、ひなたは満面の笑みで出迎えた。
「パパ、おはよう! 今日の朝ごはん、ひなた特製だよ! いっぱい食べて、元気出してね♡」
悠真はぼんやりと笑い、テーブルに着いた。彼の目は虚ろで、かつての活力は影を潜めていた。
「ひなた、いつもありがとうな。ほんと、助かるよ…」
彼の声は弱々しく、ひなたの笑顔に依存するように響いた。ひなたは悠真の隣に座り、彼の手を握った。
「だって、ひなたはパパの奥さんだもん! パパのこと、ずーっと幸せにするよ!」
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ひなたの家事は完璧だった。彼女は洗濯物を丁寧に畳み、部屋の隅々まで掃除し、夕食には手の込んだ料理を並べた。ハンバーグ、シチュー、彩り豊かなサラダ。彼女はネットでレシピを検索し、学校の家庭科で学んだ技術を駆使して、悠真を喜ばせようと努力した。悠真はそんなひなたの姿に、最初は感心していた。だが、日が経つにつれ、彼の感覚は麻痺していった。ひなたの愛は、まるで甘い霧のように彼を包み込み、抵抗する力を奪っていった。
ある夜、ひなたはリビングのテーブルに手料理をずらりと並べた。ローストチキン、マッシュポテト、温かいスープ。キャンドルの灯りがテーブルを照らし、まるで小さなディナーパーティーのようだった。ひなたは白いワンピースを着て、ティッシュで作ったベールを頭に被り、微笑んだ。
「パパ、今日から毎日、ひなたが奥さんだよ。こんな風に、ずーっと一緒にご飯食べるんだから!」
彼女の声は弾むように明るく、瞳は期待に輝いていた。悠真はフォークを手に持ち、ひなたの笑顔を見つめた。彼の心は、ひなたの言葉に逆らえないほど弱っていた。
「ハハ、ひなた、ほんとすごいな。パパ、こんな美味しいご飯、幸せだよ…」
その言葉に、ひなたの顔がパッと輝いた。彼女は悠真の手を握り、まるで永遠の約束を確認するように言った。
「ほんと? じゃあ、パパ、ひなたのこと、ずーっと愛してくれるよね? 誰もいらないよね?」
悠真は一瞬、由紀恵の顔を思い出した。別居してから、彼女との連絡は完全に途絶えていた。ひなたが悠真のスマホを壊し、由紀恵からのメッセージをブロックしていたことも、彼は知らない。悠真はひなたの真剣な瞳に押され、曖昧に頷いた。
「ああ、ひなたはパパの宝物だ。ずっと一緒だよ…」
ひなたは満足げに微笑み、悠真の頬にそっとキスをした。
「やった! パパ、ひなた、幸せだよ! これで、ふたりだけの世界だね!」
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ひなたの支配は、ますます強固になっていった。彼女は悠真の外出を禁じ、買い物も自分で済ませた。宅配便の受け取りもひなたが担当し、近隣住民との接触を完全に遮断した。マンションのポストには、由紀恵からの手紙や学校からの通知が溜まっていたが、ひなたはそれらを全てシュレッダーにかけ、燃えるゴミに出した。彼女は悠真に、まるで何事もなかったかのように笑いかけた。
「パパ、外、寒いから、家にいようね。ひなたが全部やるから、安心して!」
悠真はソファに沈み込み、ひなたの言葉に頷くだけだった。彼の心は、ひなたの作った小さな世界に閉じ込められ、抵抗する気力を失っていた。
ひなたは、悠真の全てを管理した。彼女は彼の服を選び、食事の時間を決め、寝る前の絵本の読み聞かせまで行った。彼女の声は優しく、まるで母が子に語るように温かかった。だが、その裏には、悠真を完全に自分のものにする執念が隠れていた。
「パパ、ひなたがいるから、誰とも話さなくていいよね。ひなただけで、十分だよね?」
悠真はひなたの瞳を見つめ、ただ頷いた。彼の心は、ひなたの愛に縛られ、逆らう術を知らなかった。
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ある夜、ひなたは悠真の隣に座り、彼の手を握りながら絵本を読み聞かせた。彼女が自分で書き換えた物語は、まるで二人の未来を予言するようだった。
「王子様とお姫様は、誰もいないお城で幸せに暮らした。誰にも邪魔されず、ふたりだけで…ずーっと、ずーっとね」
悠真は眠そうに目を細め、ひなたの声に耳を傾けた。
「ひなた…いい話だな…」
彼の声は弱々しく、ひなたの言葉に飲み込まれていた。ひなたは微笑み、悠真の額にそっとキスをした。
「パパ、ひなたがずーっとそばにいるよ。夢の中でも、ふたりだけだからね」
その瞬間、ひなたの心は満たされていた。彼女は悠真を完全に自分のものにした。母も、友達も、誰も彼らの世界に踏み込むことはできない。ひなたは、ふたりだけの家を永遠のものにするために、すべての扉を閉ざした。
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カーテンの閉ざされたリビングで、ひなたは悠真の手を握り、満足げに微笑んだ。彼女の声が、静かな部屋に響く。
「わたしは、パパのお嫁さんになった。ずっと一緒にいられる。これが、ほんとの幸せなんだよ。」
カメラがゆっくりと引いていく。マンションの窓は厚いカーテンで覆われ、外の光は一切入らない。リビングには、ひなたの手料理が並び、ぬいぐるみたちが静かに見守っている。悠真はソファに座り、ひなたの笑顔を見つめる。彼の目は虚ろで、まるで魂が抜けたようだった。ひなたは彼の手を離さず、まるで永遠の誓いを守るように握り続けた。
外の世界は、二人を忘れ去っていた。由紀恵からの連絡は途絶え、学校からの捜索も打ち切られた。近隣住民は、悠真とひなたが引っ越したと信じ、誰も彼らの家を訪れなかった。マンションは、ひなたの作り上げた小さな王国となり、ふたりだけの生活が静かに続いていた。
ひなたの笑顔は、無垢で天使のようだった。だが、その裏には、父を縛る異常な愛が潜んでいた。彼女は悠真を完全に自分のものにし、ふたりだけの世界を永遠に守り続けた。それは、ひなたにとっての「幸せな結末」だった。