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離れてはいけない距離
離れてはいけない距離
相沢蒼依
恋愛結婚生活
2025年06月03日
公開日
3.2万字
完結済
家のために結ばれた契約夫婦。 埋まらない心の空白に差し込んだのは、義弟の優しさだった。 触れてはいけない距離――それは家族という名の鎖。 許されぬ想いが、静かに誰かを壊していく。

雨音が触れた朝

***


 雨の音が、やけに近くに感じられる朝だった。


 薄明かりの寝室。綾乃はダブルベッドの上でゆっくりとまぶたを開け、天井を見上げる。隣には誰もいない。――その事実に、もはやなんの感情も湧かなくなって久しかった。


 最後に夫のたかしとこのベッドで眠ったのは、いつだっただろう。思い出そうとしても、指の隙間から水がこぼれるように、記憶は曖昧に滲んでいく。


 隣の部屋から、目覚まし時計のけたたましい電子音が聞こえた。たかしの起床時間。けれどその音すら他人の生活音のように遠く、乾いた響きで耳に届いた。


 綾乃は静かに身を起こし、冷えた足をスリッパに滑り込ませる。伸びをひとつしてから、寝間着のままキッチンへ向かった。コーヒーメーカーが低く唸りながら、朝の支度を告げている。漂いはじめた芳醇なコーヒーの香りが、無言の室内にかすかな温度をもたらした。


 ダイニングではたかしがすでにスーツ姿で椅子に腰掛け、スマートフォンの画面をにらむように見つめて、こちらには一瞥いちべつもくれない。これもいつもの朝の風景。


「おはようございます」


 綾乃が声をかけると、たかしは画面から目を離さないまま答えた。


「ああ」


 たったそれだけ。会話のていをなしていないやりとりにも、今では慣れてしまった。


 この家に流れる空気は、いつからか冷たく、ひどく乾いている。感情は置き去りにされたまま、ただ役割を果たすだけの日々。


 政略結婚――その言葉がすべてを物語っていた。間宮まみや家と父の会社を結ぶ、都合のいい接着剤。それが、綾乃という女の現在地だった。たかしはそれを否定もしないし、なぐさめもしない。ただ無言で受け入れ、機械的に綾乃を“妻”として扱っている。


 そんな空気の中、不意に彼が口を開いた。


「今日、みなとが来る」


 綾乃の手がぴたりと止まる。持っていたマグカップの取っ手を、思わず持ち替えた。


「……みなとさん?」

「ああ。東京で撮影があるらしくて、しばらくこっちに滞在する。悪いが、客間の準備を頼む」

「わかりました……」


 努めて笑みを作ったつもりだった。しかし、内心はひどくざわついていた。


 崇の弟、間宮まみやみなと。最後に会ったのは三年前。まだ大学を卒業したばかりの彼は少年の面影を残したまま、自由な瞳で世界を見つめていた。


 ――あのまなざしが、どこか胸に引っかかっていた。


 今、彼はどんな姿になって戻ってくるのだろう。記憶の中のみなとが“弟”ではなく、“ひとりの男”として現れる気がして――綾乃は無意識にマグカップを握りしめる指先に力を込めた。


 淹れたてのコーヒーの香りに、微かに混じる雨の匂い。それは音もなく、日常を塗り替えていく前触れのようだった。

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