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雨の音が、やけに近くに感じられる朝だった。
薄明かりの寝室。綾乃はダブルベッドの上でゆっくりとまぶたを開け、天井を見上げる。隣には誰もいない。――その事実に、もはやなんの感情も湧かなくなって久しかった。
最後に夫の
隣の部屋から、目覚まし時計のけたたましい電子音が聞こえた。
綾乃は静かに身を起こし、冷えた足をスリッパに滑り込ませる。伸びをひとつしてから、寝間着のままキッチンへ向かった。コーヒーメーカーが低く唸りながら、朝の支度を告げている。漂いはじめた芳醇なコーヒーの香りが、無言の室内にかすかな温度をもたらした。
ダイニングでは
「おはようございます」
綾乃が声をかけると、
「ああ」
たったそれだけ。会話の
この家に流れる空気は、いつからか冷たく、ひどく乾いている。感情は置き去りにされたまま、ただ役割を果たすだけの日々。
政略結婚――その言葉がすべてを物語っていた。
そんな空気の中、不意に彼が口を開いた。
「今日、
綾乃の手がぴたりと止まる。持っていたマグカップの取っ手を、思わず持ち替えた。
「……
「ああ。東京で撮影があるらしくて、しばらくこっちに滞在する。悪いが、客間の準備を頼む」
「わかりました……」
努めて笑みを作ったつもりだった。しかし、内心はひどくざわついていた。
崇の弟、
――あのまなざしが、どこか胸に引っかかっていた。
今、彼はどんな姿になって戻ってくるのだろう。記憶の中の
淹れたてのコーヒーの香りに、微かに混じる雨の匂い。それは音もなく、日常を塗り替えていく前触れのようだった。