あの家には、もう綾乃はいない。湊もいない。静かだった家は、今ではまるで時間が止まったように静かだ。けれど不思議と、寂しさは胸を刺すほどではなかった。
あの頃の自分には、「正しさ」しかなかった気がする。
家の名を守ること。外聞を損なわぬこと。“夫”として“兄”として、ただ形を整えていた。
愛していたのかと問われれば、正直、答えは曖昧だ。ただ綾乃を手放したことを、いまの自分は責めていない。それは彼女のせいではなく、俺の“選び方”が欠けていたから。
仕事から帰って玄関を開けたとき、今でもあの朝食の匂いが幻のように蘇る。
湊の靴が並んでいた場所。綾乃のマグカップが置かれていたキッチン。
何もなくなった場所に立つと、心が妙に澄む。いま自分の部屋に置かれているものすべてが、「崇という男だけの人生」を映している。
――それは、ある意味で自由だった。
手放すことでしか得られなかった静けさ。そこに罪悪感がないと言えば嘘になる。けれど、後悔とも違う。
あの二人がどうなっていくかは知らない。知ろうともしなかった。ただ――。
(――綾乃が、自分の足でなにかを選んだのなら)
そのことだけが、微かな救いだった。
ある夜、久しぶりにあの家の近くを通った。まだ売りに出されてはいない。誰もいないその場所は薄暗く、記憶の重さだけを残していた。
扉の前に立って、ただ静かに佇む。忘れていた記憶が、遠くで波のように揺れる。
たとえば、あの朝食の光景。湊の声に、綾乃が少し笑った瞬間。あの笑顔が、俺の知らない温もりを宿していた。
自分はあの家の中で、いつもひとりだったのかもしれない。そしてその孤独に、誰よりも綾乃が気づいていた。けれど、もうその記憶を責める気にはなれなかった。
人は誰かをしあわせにすることもできるが、誰かのしあわせを“邪魔しない”ことも、またひとつの優しさかもしれない。
そんなことを、初めて思った。
この先、誰かを選ぶことがあるかもしれない。けれど、あのとき交わした言葉の“結末”は、胸に刻み続けるだろう。
綾乃。君があのとき“しあわせになりたい”と願ったことだけは、きっと嘘じゃなかったから。
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