梅雨の重たい空気が街を包む六月の午後、香織は10年ぶりに故郷の駅に降り立った
東京での結婚生活に終止符を打ち、35歳にして再び独身となった彼女は、心の整理をつけるために実家へと足を向けたのだ
駅のホームに立つと、潮の香りが微かに漂ってきた、海辺の小さな街
ここで生まれ、高校卒業まで過ごした場所
東京での華やかな生活とは対照的な、時間がゆっくりと流れる街だった
香織はスーツケースを引きながら、改札を出た・・・駅前のロータリーは昔と変わらない
タクシー乗り場、小さな売店、そして古びたベンチ
高校時代、俊介とよく待ち合わせをした場所だった
駅前の商店街は昔とほとんど変わっていなかった
古びた看板、錆びたシャッター、そして懐かしい匂い
香織は深呼吸をしながら、ゆっくりと歩みを進めた
離婚の手続きで疲れ果てていた心が、故郷の空気に触れて少しずつ癒されていくのを感じた
「あら、香織ちゃん?」
振り返ると、近所の八百屋のおばさんが立っていた
「お久しぶりです、田中さん」
「まあ、本当に香織ちゃんね・・・東京から帰ってきたの?」
「ええ、ちょっと実家に」
香織は曖昧に微笑んだ・・・
離婚のことは、まだ誰にも言いたくなかった
商店街を抜けると、懐かしい風景が広がっていた
古い木造の家々、狭い路地、そして遠くに見える海
何も変わっていない・・・いや、変わったのは自分の方だった
「香織?」
今度は男性の声だった
振り返ると、そこには見覚えのある顔があった
高校時代の同級生、修二だった・・・
彼は地元の建設会社を継いでいると風の便りで聞いていた
「修二君・・・お久しぶり」
香織は微笑んだ・・・修二の顔には昔の面影が残っていたが、額には深い皺が刻まれ、髪には白いものが混じっていた
作業着姿の彼は、すっかり地元の男という風貌だった
「本当に久しぶりだな。10年ぶりか?」
「そうね、高校の同窓会以来かしら」
「東京にいるんじゃなかったのか?」
「ちょっと・・・色々あって」
香織は曖昧に答えた
修二は察したように頷き、それ以上は聞かなかった
その優しさが、香織の心に染みた
「今、仕事帰りなんだ、良かったらお茶でも飲まないか?」
香織は一瞬迷ったが、頷いた
1人で実家に帰るのも気が重かった
2人は近くの喫茶店に入った
「珈琲館」という看板の店は、高校時代からある老舗だった
店内は薄暗く、古いジャズが流れていた
ビロードの赤いソファー、年季の入ったテーブル、そして壁に飾られた古い映画のポスター時間が止まったような空間だった
「マスター、お久しぶりです」
香織が声をかけると、カウンターの奥から白髪の老人が顔を出した
「おや、香織ちゃんじゃないか、帰ってきたのかい」
「ええ、久しぶりに」
香織はアイスコーヒーを、修二はブレンドを注文した
「ここも変わらないな」
修二が店内を見回しながら言った
「覚えてる?高校の時、テスト勉強でよく来たよな」
「そうね、俊介君もよく一緒だった」
俊介の名前を出した瞬間、修二の表情が少し曇った
「そういえば、修二君は結婚したんでしょう?」
香織が話題を変えた
「ああ・・・実は俺も、去年離婚したんだ」
修二が苦笑いを浮かべながら切り出した
香織は驚いて顔を上げた。
「そうだったの・・・」
「まあ、色々とね・・・価値観の違いってやつかな、仕事ばかりで、家庭を顧みなかった俺も悪かった」
修二はコーヒーを一口飲んだ
「相手は東京の女性でね、この田舎の生活に馴染めなかったみたいだ」
その表情には、香織と同じような疲れが滲んでいた
お互いに失敗した結婚生活
その共通点が、2人の距離を縮めた
「香織は?どうして離婚を?」
「私の場合は・・・相手の浮気」
香織は淡々と答えた
もう涙も出ない
ただ、虚しさだけが残っていた
「七年も一緒にいたのに、最後は秘書と・・・ベタな話でしょう?」
「そんなことはない、辛かっただろう」
修二の優しい声に、香織は唇を噛んだ
同情されたくないと思いながらも、その優しさが心に染みた
2人は高校時代の思い出話に花を咲かせた
文化祭で修二がバンドでギターを弾いたこと、修学旅行で京都に行ったこと、卒業式の日の涙・・・
「あの頃は、みんな輝いていたな」
修二が遠い目をした
「特に香織は、学年一の美人だった」
「そんなことない」
「いや、本当だよ、実は・・・」
修二は一瞬言葉を切った
そして、意を決したように続けた
「あの頃、俺、香織のこと好きだったんだ」
突然の告白に、香織は息を呑んだ
「でも、香織は俊介と付き合ってたから」
俊介・・・香織の初恋の相手であり、修二の親友だった男
成績優秀で、スポーツ万能
誰もが認めるパーフェクトな男子生徒だった
大学進学を機に東京へ行き、そのまま音信不通になってしまった
「俊介君、今どうしてるのかしら」
「さあな。あいつも東京で成功してるんじゃないか?・・・IT企業を立ち上げたって噂は聞いたけど」
修二の声には微かな苦味が混じっていた
「でも、今は昔の話だ、それより香織、しばらくこっちにいるのか?」
「ええ、当分は実家に」
「じゃあ、また会えるな、今度は昔のメンバーでも集めて飲み会でもやろう」
修二の笑顔は、高校時代と変わらない温かさを持っていた
でも、その奥には、大人になって背負った重荷が見え隠れしていた