目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報
燈花会の夜に
燈花会の夜に
いなば海羽丸
BL現代BL
2025年06月04日
公開日
9,657字
完結済
奈良公園で行われる燈花会祭りで、デートをする五十過ぎのメンズふたりのお話。 酸いも甘いも乗り越えてきた、ベテランカップルのワンシーンを切り取りました。 すき間時間に読める、ほっこりストーリーです。

燈花会の夜に

 八月の盆。とっぷりと日が沈んだ頃。アスファルトにはまだ太陽の熱が残っている。息をするのも億劫おっくうになるほどの蒸し暑さの中、僕は彼とふたりでホテルを出た。通りには人が大勢歩き、みんなが、同じ方向へ向かっている。彼らの目的は僕らと同じ。奈良公園で行われる、燈花会とうかえという祭りを観にいくのだ。


『あー、もうすっかりくたびれちゃった。分刻み行動なんだもん。こんな旅行じゃ全然リフレッシュなんかできやしない』

『だって、なるべくたくさん観て回りたいじゃないか』

『またそのうち来ればいいのに。言っとくけど、僕はもううんざりなんだよ』


 そんな会話が、ふと頭の中に浮かんだ。隣を見ると、彼が無言で困ったように笑みをこぼす。それから「ごめん、またあっちこっち連れ回して……。疲れちゃった?」とたずねる。僕は頷き、そしてこたえる。


「もう慣れた」


 嫌味たっぷりに言ったのに、また、隣で彼は笑う。その笑顔は昔と変わらない。柔らかく、優しげ。どこか困ったように眉尻まゆじりを下げて目を細くする。だが、以前より目尻や口元にはしわが増え、茶色い髪には白髪が混じっている。年老いた彼の横顔を見つめながら、思い出す。自分もまた、同じだけ歳を取ったのだ――と。


 同性愛のパートナーとして結ばれ、二十年。僕らは互いに歳を取った。友人や家族はたいていが、それぞれ異性のパートナーと結婚し、家庭を築き、新しい命を授かり、育て、命と血と縁を繋いでいる。家を買って、車を買って、また家族が増えて、毎年幸せいっぱいの年賀状を親戚や大事な友人に送る。だが、僕らは変わらない。ずっとふたりで、ふたりだけの世界で生きて、歳を重ねてきた。


 ただし、ふたりだけだから不幸とか、子どもができないことに悲観しているのでもない。僕らはただ、ふたりだった。たまたま子どもを作れない条件を持つ相手を好きになって、ふたりで歩く人生をたまたま選んだ。それだけだ。


「初めてここへ来たときは、まだ二十代だったんだなぁ。いやぁ、すっかり歳を取ったもんだね」

「それなのに、どうして旅行のスケジュールだけはこうせわしないままなんだろうね。僕は不思議だよ」

「それはもう何度も話したじゃないか。たくさん回れば、それだけ君との思い出を増やせるだろ」

「ふん」


 それを聞きたくて、僕はいつもわざと愚痴を言う。彼の旅行のスケジュールの組み方はおかしい。これは出会った頃から変わらない、彼のクセのようなものだった。


 彼は早朝から僕を叩き起こして、まだゆっくり寝ていたいと文句を言う僕を引きずるかのように観光へ出かけ、腕時計を常に気にしながら、できるだけ効率を重視して、多くの観光地を回ろうとする。昼ご飯は手っ取り早く食べられるところがいいと言い張るので、選択肢はどうしても狭まり、せっかくの旅行だというのに、ファストフードで胃袋を満たすことも珍しくなかった。それには何度も苛立いらだって、旅先で喧嘩になったこともある。


 何十年経っても、彼の旅行の仕方は若いときと変わらない。本当ならいいホテルでゆっくりして、どこか出かける予定を作っても、時間には余裕を持って観て回りたい。僕はそう思うのに、彼ときたら、効率を重視して回りたがる。まるで営業マンの外回りのような観光スケジュールを組むのだ。彼のせいで、僕はいつだってくたくただった。


「お昼だって、もっとちゃんとしたお店で食べたかったのに。結局ハンバーガーだけでさ」

「でも、その代わりお寺を多く回れたし、限定のバーガーを食べられたじゃない。食べたいって言ってなかった?」

「言ったけど……。でも、もっとお洒落なカフェとか、お土産屋さんも行きたかったよ」

「じゃあ、明日行こう。ちょうど、すき間時間が一時間半――くらいあるから。フライトを夕方にしてよかった」


 僕は笑みを引きつらせる。どうして彼はこうも効率ばかり重視するのか。若いときには彼の気持ちがわからず、僕はただ苛立いらだって、彼に感情をぶつけるばかりだった。話しても話しても平行線。曖昧あいまいな関係のままで言葉もくれない。もう別れてやろうと思ったこともある。けれどあるとき、それが彼のクセと、不器用な愛情の証だと知ったのだ。


「あっ、ここアングルがいい。ヒカル、ここ立って」

「えぇ、さっきホテルの前で撮ったじゃん……」

「いいから。ほら」

「もう……」


 ここはまだ公園の外。見渡しても、どの辺りのアングルが彼のお気に召したのか、僕はよくわからなかった。だが、首から下げた一眼レフカメラを構えて、彼は「そこ、そこで止まって」と言って片目をつぶる。僕は不貞腐ふてくされ顔でカメラを見つめる。彼はその後、すぐにシャッターを切った。


「OK! とてもいい顔してたよ」

「どこが。ふくれっ面だったはずだけどな」

「それがいいんだ。怒ってる顔は今日はまだ撮れていなかった」


 そう言うとわかっていても、不服そうに鼻を鳴らして見せる。すると彼は「ごめん、ごめん」と言いながら、また困ったように笑った。


 彼は写真家だ。名はクリストファー・レーン・コックス。アメリカ人である。彼には、日本での永住権を得た恩師がいるのだが、その人に会うために、若い頃からたびたび、日本を訪れていたらしい。かつて僕らが出会ったのも、そのタイミングだった。たまたま一人で奈良へ旅行へ来ていた僕が、同じく観光中で、迷子になっていた彼を道案内したことがきっかけで知り合ったのだ。


 僕らは、互いに一人だということがわかって一緒に食事をし、お酒を飲んで、連絡先を交換した。翌日の観光は一緒に、という話になり、その後、二日ほど行動をともにした。当時、僕も彼も、すでに同性愛者だという自覚があったので、互いに惹かれ合っていると気付くまではさほど時間はかからなかった。


 抹茶のソフトクリーム欲しさに群がる鹿をそっちのけにして、僕にキスをした彼の照れくさそうな表情は今もよく覚えている。あれが僕の、ファーストキスだった。


 ただし、大変だったのはそれからだ。当時の僕らにはたくさんの障害があった。文化や価値観の違い、言葉の壁、そして同性愛者であるがゆえに向けられる、偏見の眼差し。いや、偏見の眼差しよりも、むしろ僕らを苦しめたのは、言葉の壁や価値観の違いの方であったかもしれない。


 彼が写真家だと知ったのは、出会って、結ばれて、数年経ってからのこと。その頃、僕は好きな人と気持ちが通じたのだと浮かれていたが、数ヶ月もすると次第に不満を抱くようになった。数週間――いや、数ヶ月間、連絡が途絶える――ということが、彼にはよくあったからだ。


 もちろん、仕事で連絡が取れなくなるということを、事前に彼はしらせてくれる。けれど、なんの仕事をしているのか、少しも教えてくれず、たずねてもはぐらかされてしまって、僕はいつも不安や不満と闘っていた。そもそも彼と僕は「付き合おう」とか「恋人になろう」とか、明確に言葉を伝え合ったわけでもなかったのだ。それに気が付いたときには絶望すら感じた。これは恋人という関係ではない。ただのセックスフレンドに過ぎないのではないか――と。


 だが、そんな付き合いが数年続いたある夏の日、彼は突然、僕を旅行に誘った。奈良へ行こうというのだ。数ヵ月ぶりの連絡だったが、僕は溜まりに溜まっていた不満をぶちまけて、旅行の初夜は大変な口論になった。


『もう疲れた! 僕はうんざりだよ!』


 何度、彼にそう言っただろうか。とにかく僕は怒っていた。ふたりで旅行するのに、場所はあらかじめ決められている。どうしてその場所なのか満足のいく理由も教えてくれない。旅先では分刻みのスケジュールでの観光をいられる。僕は彼の身勝手さのすべてに矛先を向けた。


 しかし、その数時間後、彼はすべてを話すと約束して、ホテルの近くで行われている祭りへ僕を誘った。そこで真実を知ったのだ。彼が写真家であり、世界中――それもアラスカや、寒さの厳しいロシア北部を主に飛び回り、そこに暮らす人々や動物たち、大自然をレンズ越しに追っていたこと。そして、日本に滞在できる限られた時間の中で、彼が僕との思い出を必死に、できるだけ多く、作ろうとしていたことも。


『すまなかった。写真家だという仕事を隠したかったわけじゃないし、君を信頼していなかったわけじゃないんだ。でも、怖かった。私の仕事を話したら君には反対されそうで、もしかしたら振られてしまうんじゃないかって……』

『はあ? それが信頼してないって言ってんだよ』

『本当にごめん……。でも、信じて。君を誰よりも愛してるんだ』


 彼はそう言って、奈良公園の小道で僕に口づけた。足下にともる無数の蠟燭ろうそくの火が、彼の申し訳なさそうな顔を揺らめきながら照らしていた。薄茶色く透き通った、まるでシトリンのような瞳が真っすぐ僕を見つめて、少しだけ潤んでいた。


 僕はとても怒っていたのに、彼の瞳に釘付けになって、ただ彼を見つめることしかできなかった。しばらく互いに無言でそうしていたが、そのうち、不意に彼はポケットから銀色に光る指輪を取り出し、僕の薬指にめた。指輪はぴったりだった。


『私はいつも不安だったよ。離れている間は、君が知らない誰かのものになって、私を忘れてしまっているんじゃないか、会っているときには、これが最後になってしまうんじゃないかって……』

『それはこっちのセリフだよ。だいたい、海外へ行ってたなんて全然知らなかったし、会うのだっていつも外か、僕の家だったろ。あんたはちっとも自分のことを話さないし』

『本当にごめん……。私は君を失うのが怖くてたまらないのに、なにもかもうまく話せなかった。でも、君だけを、こんなに愛してる。それをわかってほしくて、今回、私は君に会うために日本へ来た。君をどうしても、私だけのものにしたかったから……』


 僕が彼のプロポーズを受けなかったはずがない。当時、僕はぼろぼろと涙を流して頷き、彼にしがみついた。あのとき、たぶん――彼も泣いていた。


 あれから、二十年――。そう、もう二十年も経つのだ。今回、僕と彼は久しぶりに日本へ帰ってきた。今はアメリカ合衆国アラスカ州、中央部に位置するノースポールという町に住んでいる。標高147メートル、人口2000人ほどの小さな町だ。今回の旅行は彼とパートナーになって二十周年記念旅行だった。日本へ行こうと言ったのも、思い出の地、奈良で行われる燈花会とうかえを観たいと言ったのも彼だった。

 おそれ多いが、彼はかつての燈花会とうかえの夜の一件を「私たちのキャンドルナイト」と呼んでいる。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?