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 やがて奈良公園が見えてきて、僕らは人混みの流れに乗って、吸い込まれるように敷地内へ入った。昼間、整えられた芝の絨毯じゅうたんが広がっていたそこは今、だだっ広い闇の空間と化し、無数の蝋燭ろうそくが置かれ、火を灯されて揺らめいている。どこかこの世ではないような、幻想的な風景に、思わず立ち止まる人も少なくない。


「昔と同じだ。変わっていない。ここは本当に美しいよ」


 そう言って、彼は再び一眼レフカメラを構え、シャッターを切る。僕は、彼が美しいというそれが、この風景のことと、昔から変わらずに存在し続ける日本の文化、そして蝋燭ろうそくの灯される意味、すべてを差しているのだということを知っている。かつて、ここをふたりで歩いたとき、日本では、蝋燭ろうそくが人の命に例えられていることを教えると、彼は感動したのか「それは素晴らしいね」と言って瞳を潤ませ、何度も何度もシャッターを切っていた。


「懐かしいね。覚えてる? 私たちはここで昔、大喧嘩をした」

「そうだよ」

「ヒカルはものすごく怒っていたよね。この関係はなんなんだ――とか、もう付き合いきれない、うんざりだ――って」


 僕は、闇の中に蝋燭ろうそくが並んで揺らめく幻想的な風景を眺めながら、当時を思い出している。そして少しだけ笑みをこぼした。


「クリスはずっと泣きそうだったけどね」

「そうだよ。だって君ときたら、もう金輪際こんりんざい僕に会わないってかんしゃくを起こして――取り付く島もなかったんだから」


 これは僕が彼とパートナーになってから知ったことだが、外国では、カップルが成立する際、日本のように言葉を交わすことはあまりないらしい。好きな相手の性格を知って、デートを重ね、体の相性を知って、同じ時間を過ごす中で、だんだんとカップルになっていく。つまり、境界線を引かないのだ。この日が記念日、この日以降は恋人、それまでは友人――というはっきりしたラインを引かないのが主流なのだそうで、なにも知らずに外国人と付き合った日本人は、ほとんどの場合、まずその価値観や文化の違いを理解できるようになるまで、かなり苦労するらしい。この僕も、もちろんその一人だった。


 だから今回、僕らがニ十周年と言っているのも、たぶんニ十周年記念――なのである。


 ちなみに僕は日本人だ。日本で生まれて日本で育って、当然ながら日本の価値観と文化をベースに生きていた。そのおかげで彼と結ばれた後、幸せを感じたのも束の間、数ヶ月もすれば不安に駆られる毎日が続いた。彼は時々、連絡をくれなくなるし、なんの仕事をしているのかもわからない。


 もっと密にコミュニケーションを取ろうとしても、まだその頃の僕は英語を思ったようには話せなくて、想いを伝えるのにも、彼の言葉を受け取るにも、メールを読むにも、ひどく苦労していた。 


「でも、あの日は運命の日だった。私たちの終わりで、始まりの日だった」

「うん」


 不意に、彼がそっと手を取って握ってくれて、僕はまた微笑ほほえむ。僕らにとって、この奈良はいつも特別で、とても大切な場所だった。出会ったのも、すれ違いや苦しみを乗り越えたのも、そして新たな始まりを迎えたのも奈良だったのだ。


 数々の障害に悩み、彼が何者なのか知らずに体を重ねていた当時は、本当に苦しかった。けれど、僕はいつだって彼だけを見つめ、求めていた。彼が大好きだった。


 シトリンのように薄い茶色の瞳や、色白の肌。それから、優しくて柔らかな彼の笑顔が大好きだった。僕が英語をうまく話せないばっかりに、カタコトの日本語を使って「ええと、ええと」と、言葉に詰まりながらも、一所懸命に話そうとしてくれるところも、夜、ベッドで愛し合うとき、名前を呼んで、甘い言葉をささやいてくれるところも、朝は僕よりも必ず先に起きて、コーヒーを入れてくれるところも、カフェでコーヒーを何杯もお代わりしながら、僕の話を穏やかに聞いてくれるところも、全部、全部愛おしかった。


 会えない日々の中で、ちょっとでもいいことがあると、僕はすぐに彼に話したくなったし、夜、眠る前には必ず恋しくなって、彼を思い出していた。


 時折、僕が感情的になって、「別れる」とわめいても、彼は必ず引き留めてくれ、絶対に僕を離してはくれない。恥ずかしい話だが、僕はとても子ども染みた大人だったから、彼の優しさにとことんまで甘えていたのだと思う。


 とにかく、怒っても、笑っても、泣いても、僕は彼と会っているときは、必ず幸せだった。必ず、だ。だからこそ、なぜ彼が言葉をくれないのかとても不安だったし、うまくコミュニケーションが取れないことや、時々、連絡が途絶えてしまうことにあせっていた。しかし、今やそれらはすべて大切な思い出の一部である。彼の情熱的なプロポーズで、僕らは真に一つになった。


 僕らがアラスカへ移住したのは、それから数年後の事だ。ノースポールの町はこじんまりとしていて、僕らが静かに、ひっそりと暮らすのには最適だった。


 僕は近所のマーケットで働き、月に一度、それなりに見合った給料をもらう。クリスはそこに暮らす人々や、動物たち、大自然を写真に撮り、時には物語を書いた。とても純粋でいて、透き通った氷のようにはかなく――だが美しい、そんな物語を。


 彼は時に、こう話した。「地球温暖化の影響で、すでに海にまれた村がある。ここもいつかはなくなってしまうのかもしれない。悲しいことだけれど、そのはかなさはどこか僕らに似ているよ」――と。


 彼は、移り変わる時代の中で失われていくアラスカの大地と、遺すものもなく、ただ今ある命を燃やし続ける僕らの存在を、似通にかよったものとして見ているようだった。そして、彼がなぜ、パートナー二十周年記念の旅行にこの奈良の燈花会とうかえを選んだのか。なぜ、ここ奈良公園だったのか。今の僕はそれを聞かずして、理解することができる。いや、知っていると言ってもいい。


「ヒカル、彼らはきっと私たちと同じだ」

「うん」


 クリスが今、「彼ら」と言ったのは、ここにある無数の蝋燭ろうそくのことだ。彼はそれらを僕らと同じだと思っている。限りある命を燃やして、輝き、いつかは消えてしまう、僕らと同じなのだ、と。


「とても愛おしいよ」

「うん……」

「それから、すごく綺麗だ」

「綺麗だね……」

「――あ、そうだ、いけない。忘れるところだった」

「ん?」


 彼がふと思い出したようにポケットを探る。当時の風景と重なって、僕はほんの少しだけ緊張し、胸を高鳴らせる。それがときめきだとわかったのは、彼が銀色のネックレスを僕につけてくれたとき。彼の指がほんのわずかに肌に触れた瞬間だった。


 目を細めた彼と視線がぶつかって、とくん――と胸が震える。


「クリス――? これ……」


 胸元に光るのは、羽の形をしたチャームだ。羽の付け根には無色透明の光る石がめこまれている。


「ヒカル、今までありがとう。そしてこれから先もよろしく。私はこの先も永遠にヒカルだけを見つめて、ヒカルのそばにいる。そう誓うよ」

「え――ちょっと……」

「愛してる……」


 甘くささやくと、彼は突然、僕の手を取り、ひざまずいて手の甲へキスを落とした。その光景を見てか、周囲にはたちまち人だかりができ始める。五十を過ぎた初老らしき男が連れの――それも、同じく初老の男の手を取って、ひざまずいたのだから無理もない。


「クリス……! なに、これ……、どういう――」

「今日、私はここで君に二度目のプロポーズをしたかった。昔はここで君をずいぶん泣かせてしまっただろ。でも、僕は本当はあのとき、君を泣かせたかったんじゃない。笑わせたかったんだ」

「笑わせて――いや、ちょっと待てって……」

「返事を聞かせて、ヒカル」


 彼が優しく言うので、僕は戸惑いながらもこたえるしかなくなった。


「も、もちろんだよ、クリス。僕だって君と――」


 そう言った瞬間、彼は僕に飛びついて抱きしめて、唇をふさいだ。周囲からは拍手が起こる。「おめでとう」と声が上がり、僕は慌てて彼の体を離して、ぺこぺこと頭を下げる。二十年前の記憶と現実が目の前で重なっている。僕は彼を引きずって、ひとまず人だかりを抜け出した。



***


「あんな所で突然……、恥ずかしいじゃないか……」

「ごめん、ごめん」


 彼がまたそう言って、困ったように笑うので、僕は釣られて笑った。僕が笑うと、彼は無邪気に嬉しそうな顔を見せ、僕の手を引いた。


 さて、クリスの突飛な二度目のプロポーズの後、僕らはボートに乗った。奈良公園内の池のボートに乗るのは、燈花会とうかえへ来たカップルにとっては定番のデートだった。


 ボート乗り場には長い行列ができていたが、やがて順番が回ってきて、クリスは張りきって先に乗り込んでいく。このボートへ乗るのは初めてだったから、彼は少しはしゃいでいる。


「橋の下をくぐろうか。その先で一枚撮りたい」


 彼はオールを漕ぎながら、声をはずませた。池に掛けられた大きな橋の上にもずらりと蝋燭ろうそくが並べられて、それはゆらゆらと波打つ水面に映っている。まるで、その先が黄泉よみの国へ続いているように感じられて、少しだけ恐ろしくなる。だが、目の前にいるクリスがやはりはしゃいでいるのを見れば、彼と一緒ならそれも悪くないかもしれない――と思い直すことができて、自然と笑みがこぼれた。


「ねぇ、クリスも写ればいいのに」

「そうだね。あとでお願いしてもいい?」

「そうじゃなくて……」

「そうじゃなくて?」

「たまには一緒に撮ろうってこと」

「……あぁ!」


 そうか、と言わんばかりに、彼は目を輝かせる。写真家で、ちょっと出かけるときにもカメラを持ち歩くのに、彼自身が写った写真は少ない。彼はいつでも風景と僕ばかり追って、カメラを構えるからだ。


「あとで、誰かに一緒に撮ってもらおう」


 そう言って、彼はまたカメラを構える。そして、散々僕や無数の蝋燭ろうそくたちを被写体にしたあと、「あぁ……」と満足そうにため息をいた。


「どうしたの?」

「日本は美しい国だね」

「奈良だけが日本じゃないけどね、僕もそう思うよ」

「ヒカル。私は君に、寂しい思いをさせていないかな?」


 どうして今さらになって、そんなことをたずねるのだろう。もう二十年も一緒にいるというのに。僕は思わず噴き出してしまった。


「なんなの、急に。今さらになってそれをかれても困っちゃうなぁ。でも――」


 君と暮らすアラスカのノースポールも、僕は好きなんだよ。そう言いかけて、口をつぐんだ。彼の、うっとりと僕を見つめる表情に不意に、見惚れたのだ。


「――でも?」

「あぁ……、なんだっけ。忘れちゃった」

「えぇ? 忘れちゃったの?」


 けらけらと笑う彼に、僕はまた見惚れる。信じられないかもしれないが、僕らはこうして歳を重ねてきた。長年ともに暮らしていても、変わらず、互いに恋をしている。それは二十年前、この燈花会とうかえで誓い合った気持ちとなんら変わりない。やはり過去に感じた僕の直感は間違っていなかったのだ。僕は彼と一緒にいれば必ず、幸せだった。


 ボートを降りた後、僕らは再び公園の小道を散歩した。彼は歩きながら、たかが池のボートに乗っただけなのに、大航海から戻ったような口ぶりで「素晴らしい船だったね」とはしゃぐので、僕は思わず噴き出して笑ってしまった。だが、ちょうどその時だった。


「写真、撮ってもらえますか?」


 若い女性二人に声をかけられた。手にはケータイを持っている。


「……もちろんです」

「ありがとうございます!」

「あの、できればあとで僕ら二人も撮ってほしいんですが……」

「ええ、いいですよ!」


 久しぶりの日本語で話しかけられて、僕は少しだけ緊張する。昔より、少し日本語が下手になったのを彼に気付かれるのも、笑われるのもしゃくなので、ぼんやりしていた頭を無理やり働かせ、僕は日本語脳に切り替え、言葉を交わした。


「撮りますね! はい、チーズ!」


 女性二人に手渡されたケータイで写真を撮り、確認をしてもらい、代わりに僕らの写真を撮ってもらう。彼に写真を撮られることには慣れていても、こうして彼と二人で並んで撮られるのには慣れていなくて、少しだけ照れくさい。


 そうして、ひと通りやり取りが終わると、僕はほっとして彼女たちの背中を見送ったが、彼はやはり笑った。


「君、今は英語の方が上手だ」


「日本語が下手になった」とは言わず、「英語の方が上手だ」と言ってくれる彼の優しさに、愛おしさを感じる。だが悔しい。


「君のせいじゃないか」

「そうだね、僕のせいだ」

「次に来るときには、慣らしておかなくちゃ」

「そうだね。二十年経ったら、私たちは七十歳か……。――大変だ。もうおじいちゃんだ」


 そう言って、彼は笑う。いつか来る四十周年記念の旅行の話をするクリスを見つめながら、僕の胸の内側はじんわりと温かくなる。二十年後、彼のそばには、僕が当たり前にいるのだ。その幸せを、僕は噛みしめるように感じていた。


 クリス、ありがとう……。君のせいで、僕はこんなに幸せだよ。


 この公園に灯されたたくさんの蝋燭ろうそくは明日の朝には消えてしまう。僕らも同じだ。ひっそりと、なにをのこすこともなくいつかは消えてしまう。けれど、燃えているときにはきっと、隣に置かれた蝋燭ろうそくを照らしてあげられるだろう。その隣の蝋燭ろうそくに、少しだが、温かさを感じさせてやれるだろう。もしかしたら、気が付かずに誰かの足下を照らすことだって、できているのかもしれない。きっとそんなふうに、僕らは命を燃やしているのだ。


 揺らめく無数の蝋燭ろうそくのそばを歩きながら、僕はふと、そんなことを思った。そして恋人の横顔を見つめ、再び思う。彼といれば、やはり僕は必ず幸せだった。

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