やがて奈良公園が見えてきて、僕らは人混みの流れに乗って、吸い込まれるように敷地内へ入った。昼間、整えられた芝の
「昔と同じだ。変わっていない。ここは本当に美しいよ」
そう言って、彼は再び一眼レフカメラを構え、シャッターを切る。僕は、彼が美しいというそれが、この風景のことと、昔から変わらずに存在し続ける日本の文化、そして
「懐かしいね。覚えてる? 私たちはここで昔、大喧嘩をした」
「そうだよ」
「ヒカルはものすごく怒っていたよね。この関係はなんなんだ――とか、もう付き合いきれない、うんざりだ――って」
僕は、闇の中に
「クリスはずっと泣きそうだったけどね」
「そうだよ。だって君ときたら、もう
これは僕が彼とパートナーになってから知ったことだが、外国では、カップルが成立する際、日本のように言葉を交わすことはあまりないらしい。好きな相手の性格を知って、デートを重ね、体の相性を知って、同じ時間を過ごす中で、だんだんとカップルになっていく。つまり、境界線を引かないのだ。この日が記念日、この日以降は恋人、それまでは友人――というはっきりしたラインを引かないのが主流なのだそうで、なにも知らずに外国人と付き合った日本人は、ほとんどの場合、まずその価値観や文化の違いを理解できるようになるまで、かなり苦労するらしい。この僕も、もちろんその一人だった。
だから今回、僕らがニ十周年と言っているのも、たぶんニ十周年記念――なのである。
ちなみに僕は日本人だ。日本で生まれて日本で育って、当然ながら日本の価値観と文化をベースに生きていた。そのおかげで彼と結ばれた後、幸せを感じたのも束の間、数ヶ月もすれば不安に駆られる毎日が続いた。彼は時々、連絡をくれなくなるし、なんの仕事をしているのかもわからない。
もっと密にコミュニケーションを取ろうとしても、まだその頃の僕は英語を思ったようには話せなくて、想いを伝えるのにも、彼の言葉を受け取るにも、メールを読むにも、ひどく苦労していた。
「でも、あの日は運命の日だった。私たちの終わりで、始まりの日だった」
「うん」
不意に、彼がそっと手を取って握ってくれて、僕はまた
数々の障害に悩み、彼が何者なのか知らずに体を重ねていた当時は、本当に苦しかった。けれど、僕はいつだって彼だけを見つめ、求めていた。彼が大好きだった。
シトリンのように薄い茶色の瞳や、色白の肌。それから、優しくて柔らかな彼の笑顔が大好きだった。僕が英語をうまく話せないばっかりに、カタコトの日本語を使って「ええと、ええと」と、言葉に詰まりながらも、一所懸命に話そうとしてくれるところも、夜、ベッドで愛し合うとき、名前を呼んで、甘い言葉を
会えない日々の中で、ちょっとでもいいことがあると、僕はすぐに彼に話したくなったし、夜、眠る前には必ず恋しくなって、彼を思い出していた。
時折、僕が感情的になって、「別れる」と
とにかく、怒っても、笑っても、泣いても、僕は彼と会っているときは、必ず幸せだった。必ず、だ。だからこそ、なぜ彼が言葉をくれないのかとても不安だったし、うまくコミュニケーションが取れないことや、時々、連絡が途絶えてしまうことに
僕らがアラスカへ移住したのは、それから数年後の事だ。ノースポールの町はこじんまりとしていて、僕らが静かに、ひっそりと暮らすのには最適だった。
僕は近所のマーケットで働き、月に一度、それなりに見合った給料をもらう。クリスはそこに暮らす人々や、動物たち、大自然を写真に撮り、時には物語を書いた。とても純粋でいて、透き通った氷のように
彼は時に、こう話した。「地球温暖化の影響で、すでに海に
彼は、移り変わる時代の中で失われていくアラスカの大地と、遺すものもなく、ただ今ある命を燃やし続ける僕らの存在を、
「ヒカル、彼らはきっと私たちと同じだ」
「うん」
クリスが今、「彼ら」と言ったのは、ここにある無数の
「とても愛おしいよ」
「うん……」
「それから、すごく綺麗だ」
「綺麗だね……」
「――あ、そうだ、いけない。忘れるところだった」
「ん?」
彼がふと思い出したようにポケットを探る。当時の風景と重なって、僕はほんの少しだけ緊張し、胸を高鳴らせる。それがときめきだとわかったのは、彼が銀色のネックレスを僕につけてくれたとき。彼の指がほんのわずかに肌に触れた瞬間だった。
目を細めた彼と視線がぶつかって、とくん――と胸が震える。
「クリス――? これ……」
胸元に光るのは、羽の形をしたチャームだ。羽の付け根には無色透明の光る石が
「ヒカル、今までありがとう。そしてこれから先もよろしく。私はこの先も永遠にヒカルだけを見つめて、ヒカルのそばにいる。そう誓うよ」
「え――ちょっと……」
「愛してる……」
甘く
「クリス……! なに、これ……、どういう――」
「今日、私はここで君に二度目のプロポーズをしたかった。昔はここで君をずいぶん泣かせてしまっただろ。でも、僕は本当はあのとき、君を泣かせたかったんじゃない。笑わせたかったんだ」
「笑わせて――いや、ちょっと待てって……」
「返事を聞かせて、ヒカル」
彼が優しく言うので、僕は戸惑いながらも
「も、もちろんだよ、クリス。僕だって君と――」
そう言った瞬間、彼は僕に飛びついて抱きしめて、唇をふさいだ。周囲からは拍手が起こる。「おめでとう」と声が上がり、僕は慌てて彼の体を離して、ぺこぺこと頭を下げる。二十年前の記憶と現実が目の前で重なっている。僕は彼を引きずって、ひとまず人だかりを抜け出した。
***
「あんな所で突然……、恥ずかしいじゃないか……」
「ごめん、ごめん」
彼がまたそう言って、困ったように笑うので、僕は釣られて笑った。僕が笑うと、彼は無邪気に嬉しそうな顔を見せ、僕の手を引いた。
さて、クリスの突飛な二度目のプロポーズの後、僕らはボートに乗った。奈良公園内の池のボートに乗るのは、
ボート乗り場には長い行列ができていたが、やがて順番が回ってきて、クリスは張りきって先に乗り込んでいく。このボートへ乗るのは初めてだったから、彼は少しはしゃいでいる。
「橋の下をくぐろうか。その先で一枚撮りたい」
彼はオールを漕ぎながら、声を
「ねぇ、クリスも写ればいいのに」
「そうだね。あとでお願いしてもいい?」
「そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「たまには一緒に撮ろうってこと」
「……あぁ!」
そうか、と言わんばかりに、彼は目を輝かせる。写真家で、ちょっと出かけるときにもカメラを持ち歩くのに、彼自身が写った写真は少ない。彼はいつでも風景と僕ばかり追って、カメラを構えるからだ。
「あとで、誰かに一緒に撮ってもらおう」
そう言って、彼はまたカメラを構える。そして、散々僕や無数の
「どうしたの?」
「日本は美しい国だね」
「奈良だけが日本じゃないけどね、僕もそう思うよ」
「ヒカル。私は君に、寂しい思いをさせていないかな?」
どうして今さらになって、そんなことを
「なんなの、急に。今さらになってそれを
君と暮らすアラスカのノースポールも、僕は好きなんだよ。そう言いかけて、口を
「――でも?」
「あぁ……、なんだっけ。忘れちゃった」
「えぇ? 忘れちゃったの?」
けらけらと笑う彼に、僕はまた見惚れる。信じられないかもしれないが、僕らはこうして歳を重ねてきた。長年ともに暮らしていても、変わらず、互いに恋をしている。それは二十年前、この
ボートを降りた後、僕らは再び公園の小道を散歩した。彼は歩きながら、たかが池のボートに乗っただけなのに、大航海から戻ったような口ぶりで「素晴らしい船だったね」とはしゃぐので、僕は思わず噴き出して笑ってしまった。だが、ちょうどその時だった。
「写真、撮ってもらえますか?」
若い女性二人に声をかけられた。手にはケータイを持っている。
「……もちろんです」
「ありがとうございます!」
「あの、できればあとで僕ら二人も撮ってほしいんですが……」
「ええ、いいですよ!」
久しぶりの日本語で話しかけられて、僕は少しだけ緊張する。昔より、少し日本語が下手になったのを彼に気付かれるのも、笑われるのも
「撮りますね! はい、チーズ!」
女性二人に手渡されたケータイで写真を撮り、確認をしてもらい、代わりに僕らの写真を撮ってもらう。彼に写真を撮られることには慣れていても、こうして彼と二人で並んで撮られるのには慣れていなくて、少しだけ照れくさい。
そうして、ひと通りやり取りが終わると、僕はほっとして彼女たちの背中を見送ったが、彼はやはり笑った。
「君、今は英語の方が上手だ」
「日本語が下手になった」とは言わず、「英語の方が上手だ」と言ってくれる彼の優しさに、愛おしさを感じる。だが悔しい。
「君のせいじゃないか」
「そうだね、僕のせいだ」
「次に来るときには、慣らしておかなくちゃ」
「そうだね。二十年経ったら、私たちは七十歳か……。――大変だ。もうおじいちゃんだ」
そう言って、彼は笑う。いつか来る四十周年記念の旅行の話をするクリスを見つめながら、僕の胸の内側はじんわりと温かくなる。二十年後、彼のそばには、僕が当たり前にいるのだ。その幸せを、僕は噛みしめるように感じていた。
クリス、ありがとう……。君のせいで、僕はこんなに幸せだよ。
この公園に灯されたたくさんの
揺らめく無数の