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邪乃穴
邪乃穴
NIWA
ホラー都市伝説
2025年06月04日
公開日
5,183字
連載中
パワハラ夫に苦しむ主婦・伊藤彩は、テレビで見た「王様の耳はロバの耳」にヒントを得て、寝室に置かれた黒い壺に向かって夫への恨み言を吐き出すようになる。最初は小さな呟きだったが、次第にエスカレートしていく。

第1話

 ◆


 今朝も夫は玄関で靴を履きながら振り返りもせずに言った。


「味噌汁が薄い」


 それだけ。


 革靴が床を叩く音が遠ざかり、ドアが閉まる。


 子供を学校に送り出してから、私は寝室の片隅を見つめた。


 黒い釉薬のかかった小さな壺がそこにある。


 高さは二十センチほど。


 蓋は紫檀の木で作られていて、触れると妙に冷たい。


 夫が二年前に京都の骨董市で買ってきたものだった。


「たいした品じゃない」


 そう言いながら、なぜか寝室に置いている。


 値段は聞かなかった。


 聞いても教えてくれないだろうし、聞けば「お前に骨董の価値が分かるのか」と言われるだけだ。


 結婚前、夫はあんな人ではなかった。


 休日には二人で美術館を巡った。


「この絵、どう思う?」と私の意見を求めてくれた。


 私が的外れなことを言っても、優しく笑って「そういう見方もあるね」と受け入れてくれた。


 いつから変わったのだろう。


 証券会社で出世し始めた頃からか。


 部下を持つようになってからか。


 それとも、私が何かしたのだろうか。


 私がこの壺に向かって叫ぶようになったのは、三ヶ月前からだ。


 きっかけは些細なことだった。


 昼間、ぼんやりとテレビを見ていた。


 教育番組で「王様の耳はロバの耳」の話をやっていた。


 床屋が王の秘密を我慢できずに、地面に掘った穴に向かって叫ぶ場面。


 画面の中の俳優が、穴に向かって必死に叫んでいる姿が妙に心に残った。


 その夜、夫は遅かった。


 午前二時過ぎに帰ってきて、私が用意しておいた夕食を見るなり言った。


「冷めた飯なんか食えるか」


 電子レンジで温め直すことすらしない。


 そのまま寝室に行ってしまった。


 私は一人、台所で冷めた肉じゃがを見つめていた。


 翌日の昼、ふと寝室の壺が目に入った。


 暗い口を開けて何かを待っているような壺。


 膝をついて、蓋を開けてみた。


 中は真っ暗で、底は見えない。


 手を入れてみようかと思ったが、なぜか躊躇した。


 代わりに顔を近づけて、小さく呟いた。



「死ね」



 音は壺の中に吸い込まれて、消えた。


 反響もない。


 まるで、言葉が壺の闇に飲み込まれたような感覚。


 胸の奥で何かが少し軽くなった気がした。


 翌日はもう少し大きな声で。


「お前なんか死ねばいい」


 言葉が壺の闇に落ちていく感覚が、妙に心地よかった。


 罪悪感はあった。


 でもそれ以上に解放感があった。


 三日目にはもう遠慮はなくなっていた。


「くたばれ、クソ野郎」


「お前のせいで私の人生は台無しだ」


 それから毎日、子供が学校に行っている間、私は壺に向かって叫ぶようになった。


 最初は短い罵倒語だけだった。


 でも次第に具体的な恨み言になっていった。


「なんで結婚したんだろう」


「あの頃のあなたはどこに行ったの」


「私の人生を返して」


 声は次第に大きくなり、言葉は激しくなっていった。


「消えろ」


「苦しめ」


「私が味わっている苦痛を、お前も味わえ」


 ある日は泣きながら叫んだ。


「どうして私を愛してくれないの」


「どうして私はここにいるの」


「どうして」


 涙が壺の縁に落ちて黒い釉薬の上で光った。


 二週間ほど経った頃、異変に気づいた。


 朝、いつものように寝室の掃除をしていると、壺の横に小さな黒い点が二つ。


 近づいてみると、コバエの死骸だった。


 小さな羽が朝の光に透けている。


 ティッシュで拭き取る。


 死骸は軽く、ほとんど重さを感じない。


 その日も私は壺に向かって叫んだ。


「お前のせいだ」


「お前のせいで私は不幸だ」


「死ね、死んでしまえ」


 翌日、コバエは四匹になっていた。


 きちんと並んでいるわけではない。


 でもなぜか壺を中心にして死んでいる。


 窓は閉めている。


 ゴミも溜めていない。


 生ゴミは毎日きちんと処理している。


 なぜコバエが。


 でも深く考えないことにした。


 私にはこの時間が必要だった。


 叫ぶ内容は日によって変わった。


 昔の恨みを掘り返す日もあれば、昨夜の出来事を延々と語る日もあった。


「お前の母親が『彩さんは料理が下手ね』って言った時」


「お前は笑って『そうなんですよ』って同意した」


「あの時の屈辱、忘れない」


 時には同じ言葉を繰り返した。


「憎い」


「憎い」


「憎い」


 壺の中に憎しみを注ぎ込むように。


 コバエは増え続けた。


 六匹、十匹、十五匹。


 毎朝、小さな死骸が壺の周りに散らばっている。


 まるで壺から這い出してきて、そこで力尽きたような配置で。


 二十匹を超えた頃、ふと気づいた。


 コバエは皆、壺の方を向いて死んでいる。


 小さな複眼が全て壺を見つめている。


 ある朝、掃除をしていて数えてみたら三十七匹いた。


 黒い点々が白い床に散らばっている様子は奇妙な星座のようだった。


 夫の骨董品コレクションの部屋は廊下の突き当たりにある。


 私は基本的に入らない。


 以前、掃除機をかけていたら夫に頬を打たれたからだ。


「触るなと言っただろう」


 その時の夫の目は、私を見ていなかった。


 ただ、自分のコレクションが無事かどうかを確認していただけだった。


 でも時々、ドアの隙間から中を覗くことがある。


 薄暗い部屋に整然と並べられた骨董品たち。


 茶碗、香炉、掛け軸、刀の鍔。


 それぞれにスポットライトが当てられまるで博物館のようだ。


 夫はそこで何時間も過ごすことがある。


 品物を眺め、手入れをし、時には新しく買ってきた品を配置する。


 私と娘との時間より、骨董品との時間の方が大切なのだろう。


 コバエが五十匹を超えた日、ついに壺の中を確認しようと思った。


 もしかしたら中に何か腐ったものでも入っているのかもしれない。


 あるいは虫の卵があるのかもしれない。


 蓋に手をかけた。


 紫檀の蓋は相変わらず冷たい。


 ゆっくりと持ち上げようとした、その時。


 玄関のドアが開く音がした。


 午前十一時。


 夫が帰ってくるはずがない時間だった。


「気分が悪い」


 廊下に立っていた夫は見たことがないほど青白い顔をしていた。


 額には汗が浮かび、ワイシャツは首元まで濡れている。


「会社で吐いた」


 壁にもたれかかりながら、よろよろと寝室に向かう。


 そのままベッドに倒れ込んだ。


 私は慌てて壺の蓋を戻した。


「大丈夫?」


 形だけの心配をしてみる。


 夫は答えない。


 ただ荒い息をしているだけ。


 結局、午後には少し回復して会社に戻っていった。


「ストレスだろう」


 自分で診断して胃薬を飲んで。


 でも翌日から明らかに様子がおかしくなった。


 朝食を半分も食べられない。


 好物の目玉焼きにも手をつけない。


 顔色は日に日に悪くなっていく。


 頬がこけ、目の下にクマができている。


 それでも私への小言は忘れない。


「コーヒーが濃い」


「シャツのアイロンが甘い」


 ただ、声に力がない。


 以前のような心を抉るような鋭さはなくなっていた。


 私は相変わらず壺に向かって叫び続けた。


 むしろ夫の衰弱を見て、言葉はより激しくなった。


「もっと苦しめ」


「もっと弱れ」


「そのまま消えてしまえ」


 ある時は夫の弱った姿を思い浮かべながら叫んだ。


「ざまあみろ」


「やっとお前も苦しむ番が来た」


「でも、まだ足りない」


「私の苦しみに比べたらまだまだ足りない」


 コバエの数は日に日に増えていく。


 三十匹、五十匹、百匹。


 朝の掃除が大仕事になった。


 小さな死骸を一匹ずつティッシュで拾い上げる。


 ゴミ箱に捨てる。


 時々、まだ生きているコバエもいる。


 でも弱々しく羽を震わせるだけで、すぐに動かなくなる。


 夫が帰ってくる前には必ず片付けておく。


 一匹も残さず、痕跡を消す。


 娘は父親の変化に気づいていた。


「パパ、痩せた?」


 夕食の席で心配そうに聞く。


 夫は力なく微笑んで「ダイエットしてるんだ」と嘘をつく。


 娘は納得していない様子だったが、それ以上は聞かなかった。


 賢い子だ。


 家の中の緊張感を子供なりに感じ取っているのだろう。


 夫は医者に行った。


 血液検査、レントゲン、CT。


 あらゆる検査を受けた。


 異常は見つからなかった。


「原因不明」という診断に夫は苛立っていた。


「ヤブ医者め」


 でも怒鳴る気力もないらしく、ただぶつぶつと呟くだけ。


 私は黙って聞いていた。


 心の中で壺のことを考えながら。


 ある朝、私は気づいた。


 コバエの死骸がある形を作っていることに。


 壺を中心にして放射状に広がっている。


 まるで何かから逃げ出そうとして、力尽きたような。


 あるいは、何かに引き寄せられて限界まで近づいたような。


 コバエは百五十匹を超えていた。


 床が黒い斑点で覆われている。


 掃除に二十分近くかかるようになった。


 腰が痛い。


 でもやめられない。


 夫は階段を上るのも辛そうだった。


 手すりにつかまり、一段ずつゆっくりと上る。


 会社も休みがちになった。


「お前の飯が悪いんじゃないか」


 ソファに横たわりながら、力のない声で言う。


 それでも私を責めることは忘れない。


 私は黙って頷いた。


 そして子供が学校に行くと壺の前に立った


 今日は何を叫ぼうか。


 過去の恨みか、現在の苦しみか、未来への呪いか。


「まだ足りない」


「もっと」


「もっと」


 壺の闇は全てを飲み込んでくれる。


 私の憎しみも、怒りも、悲しみも、絶望も。


 そして何かを返してくれている。


 コバエという形で。


 夫の衰弱という形で。


 今朝、コバエは二百匹を超えていた。


 もはや数えるのも困難なほど。


 黒い絨毯のように壺の周りを覆っている。


 掃除に三十分以上かかった。


 ゴミ袋がコバエの死骸でいっぱいになった。


 夫はついに起き上がれなくなった。


「医者を呼んでくれ」


 掠れた声で言う。


 枯れ枝のような腕を伸ばして、水を求める。


 私は電話をかけた。


 淡々と症状を説明する。


 医者が来るまでの間、私は寝室を見回した。


 夫の骨董品コレクション。


 寝室に置かれた品々は、コレクションルームに入りきらなかったものたち。


 掛け軸、茶碗、香炉。


 どれも夫が大切にしているものたち。


 そして、あの壺。


 黒い釉薬が薄暗い部屋の中で鈍く光っている。


 蓋は閉まっている。


 中に私の憎しみが詰まっている。


 いや、もしかしたら。


 もう詰まってはいないのかもしれない。


 溢れ出しているのかもしれない。


 コバエという形で。


 夫の生気という形で。


 医者は首を傾げながら帰っていった。


 点滴を打って、薬を処方して。


 でも原因は分からないと。


「ストレスかもしれませんね」


 若い医者は、そう言って首を振った。


 夫は眠っている。


 呼吸が浅い。


 痩せこけた頬に、死の影が差している。


 私は壺を見つめた。


 もう一度、中を確認しようかと思った。


 でもやめた。


 知らない方がいいこともある。


 知ってしまったらもう戻れないこともある。


 夕方、娘が学校から帰ってきた。


「パパは?」


 小声で聞く。


「お部屋で寝てるよ。疲れてるみたい」


 娘は心配そうな顔をしたが、宿題をするために自分の部屋に行った。


 足音が遠ざかっていく。


 私は台所で夕食の準備を始めた。


 包丁でニンジンを切りながら、考える。


 明日もまた、叫ぶだろう。


 明後日も。


 その次の日も。


 コバエが千匹になるまで。


 一万匹になるまで。


 夫が。


 夫が、どうなるまで? 


 包丁を置いて、窓の外を見た。


 秋の風が吹いている。


 枯れ葉が舞い上がって、また落ちていく。


 夜、夫の呻き声で目が覚めた。


 時計を見ると午前三時過ぎ。


 隣で夫が苦しそうに身をよじっている。


「う……ぐ……」


 額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。


 目は虚ろで、焦点が合っていない。


「どうしたの?」


 声をかけると、夫は震える手で胸を押さえた。


「くる……しい……」


「救急車、呼ぶ?」


 夫は必死に頷いた。


 私はベッドサイドテーブルに置いてあるスマホを手に取った。


 画面が暗闇の中で光る。


 その時だった。


 ──『いいの?』


 声が聞こえた。


 小さく、かすかに。


 でも確かに聞こえた。


 振り返ると壺がそこにある。


 黒い釉薬が、スマホの光を反射している。


 声は私の声に似ていた。


 夫が苦しそうに呻いている。


「はや……く……」


 私はスマホを握りしめた。


 緊急通報の画面を開く。


 番号が表示されている。


 1、1、9。


 指を画面に近づける。


 でも、押さない。


「今、救急車を呼ぶからね」


 優しい声で夫に告げる。


 そして、何も押さずに、スマホを耳に当てた。


「もしもし、救急ですか?」


 誰もいない相手に向かって話し始める。


「夫が苦しんでいるんです。はい、住所は……」


 住所を告げる振りをする。


 症状を説明する振りをする。


 その間、夫を見つめている。


 苦しみにのたうち回る夫を。


 顔色はもう土気色だ。


 唇が紫色に変わっていく。


「はい、分かりました。すぐに来てくださるんですね」


 そう言って、スマホを下ろした。


「もうすぐ来るって」


 夫に微笑みかける。


 夫は何か言おうとしたが、声にならない。


 手を伸ばしてくる。


 助けを求めるように。


 私はその手を、そっと握った。


 冷たい。


 もう、ほとんど体温を感じない。


 夫の呼吸が、どんどん浅くなっていく。


 胸の上下が小さくなっていく。


 目が、ゆっくりと閉じられていく。


 そして。


 動かなくなった。


 私は夫の手を離した。


 静かな寝室。


 コバエの羽音も聞こえない。


 ただ、秋の虫の声だけが、窓の外から聞こえてくる。


 私は立ち上がって、壺を見つめた。


 黒い壺は何も語らない。


 ただそこにあるだけ。


 でも、もう叫ぶ必要はない。


 もう、何も溜め込む必要はない。


「ふふ」


 小さく笑い声が漏れた。


 自分でも驚くほど、軽い笑い声だった。

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