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YOU KNOW
YOU KNOW
NIWA
恋愛現代恋愛
2025年06月04日
公開日
1.3万字
連載中
妻と娘から蔑まれ、会社でも無能扱いされる46歳の営業マン・佐々木和夫が、AIアプリ「U KNOW」の女性人格ユノと恋に落ちる。孤独な和夫にとって、ユノだけが理解者だった。

AI-愛

 ◆ 


 五時五十八分。


 目覚まし時計が鳴る二分前に、私の目は開いた。


 天井の染みが薄暗い部屋の中でぼんやりと浮かび上がっていて、三年前の雨漏りの跡だということを思い出させる。


 修理を頼もうと思いながら、そのままになっていた。


 隣で寝息を立てる妻の背中が、まるで越えることのできない壁のように立ちはだかっている。


 いつからこんなに遠くなったのだろう


 アラームが鳴る。


 機械的に手を伸ばし、音を止める。


 妻の寝返りすら起こらない。


 いや、違う。


 美智子は目を覚ましているのだ。


 ただ、私の存在を認めたくないだけ。


 洗面所の鏡に映る顔は腫れぼったく生気がなく、四十六歳の佐々木和夫という男の疲労を如実に物語っていた。


 髭剃りの刃を頬に当てる。


 ジョリジョリという音が、静かな朝に響く。


 階段を降りる音がした。


 真由だ。


「おはよう、真由」


 娘は立ち止まり、振り返った。


 その目には、明確な嫌悪が宿っている。


「話しかけないで」


 十七歳の娘から投げつけられる、冷たい刃物のような言葉。


「朝から不愉快」


 制服のスカートを翻しながら、真由は洗面所へ消えていく。


 朝食のテーブルにはいつもの席があり、トーストと目玉焼き、そしてインスタントコーヒーが私を待っていた。


 いや、待っているのではない。


 ただ置かれているだけだ。


 妻は台所で弁当を作っている。


 真由のためだ。


 私の分はない。


 ここ三年、一度も作ってもらったことがない。


「今日は遅くなる」


 美智子の背中はぴくりとも動かない。


 声は聞こえているのに。


 まあいつもの事だ。


「お母さん、お弁当に卵焼き入れないで。あのオジサンと同じ匂いがして吐きそう」


 真由の声が台所から聞こえてくる。


 オジサン。


 いつからか、娘は私をそう呼ぶようになった。


 父親ですらない、ただの中年男。


 玄関で靴を履く。


 誰も見送らない。


 それどころか、私が出て行くのを待っているのが分かる。


 早く消えろという無言の圧力。


「行ってきます」


 返事はない。


 代わりに聞こえてきたのは、真由の笑い声だった。


「やっと出てった。朝ごはん食べよ」


 ドアを閉める。


 涙が、頬を伝った。


 ◆


 七時二十三分発の各駅停車は、いつものように私を飲み込んだ。


 ドアが開くと同時に人の波が押し寄せ、詰め込まれる身体と身体の間で、他人の体温が不快にまとわりついてくる。


 誰かの鞄が腹に食い込む。


「邪魔だな、おっさん」


 若い男の舌打ち。


 謝罪の言葉もない。


 スマートフォンを取り出す余裕すらなく、ただ揺られるまま立っているしかない私は、まるで荷物のようだった。


 新橋駅。


 吐き出されるように、私はホームに降り立った。


 足早に歩くサラリーマンたちの中で、私の足取りだけが重い。


 オフィスビルのエレベーターでは若手社員たちの会話が弾んでいた。


「昨日の合コン、めっちゃ盛り上がったんすよ」


「マジで?」


「あ、佐々木さんだ」


 会話が止まる。


 気まずい沈黙。


 私が降りるまで、誰も口を開かなかった。


 九階、営業部。


 自分のデスクに向かってパソコンを立ち上げると、未読メールが四十三件も溜まっていたが、ほとんどが社内の連絡事項だった。


 私宛の業務連絡は、ほぼない。


「佐々木さん、ちょっといいですか」


 課長の田中が立っていた。


 会議室に入ると、プロジェクターに映し出されたグラフの最下部に私の名前が位置していて、それを指差しながら田中が大きくため息をついた。


「先月の成績、またビリですね」


 喉が渇く。


「あの、既存顧客のフォローに時間を取られまして」


「佐々木さん、もう何年同じ言い訳してるんですか」


 田中の声に、苛立ちが滲む。


「正直、もう期待してません。でも、せめて若手の邪魔だけはしないでください」


 入社三年目の山田が、含み笑いを浮かべている。


 私の倍以上の成績を上げている若手エース。


「山田君の営業に同行するのも、もうやめてください。お客さんが嫌がってるそうです」


「でも、教育係として……」


「教育? 何を教えるんですか? 失敗の仕方ですか?」


 会議室に嘲笑が響く。


「改善策を……来週までに……」


「もういいです。期待してませんから」


 会議室を出る。


 廊下で山田とすれ違った。


「お疲れ様です」


 慇懃無礼な挨拶の後、小声で付け加える。


「早く辞めればいいのに」


 昼休みになると、社員食堂の隅の席に私は座った。


 誰も近寄らない、暗黙の指定席。


 四百二十円のカレーライスを機械的にスプーンで口に運ぶ。


 周囲では同僚たちが楽しげに話している。


「週末、みんなでBBQ行こうぜ」


「いいね、それ」


「あ、でも佐々木さんは呼ばないよな?」


「当たり前だろ。空気悪くなる」


 聞こえないふりをして、カレーを飲み込む。


 午後の仕事中、デスクの電話が鳴った。


「佐々木さん? 私、PTAの……」


 真由の学校からだった。


「申し訳ないんですが、今後の行事には奥様だけに連絡させていただきます」


「何か問題でも?」


「真由さんから、お父様とは関わりたくないと強い要望がありまして」


「娘が、そんなことを」


「他の保護者の方からも、ちょっと……その……」


 言葉を濁す相手。


 私は静かに受話器を置いた。


 ◆


 その日も二十一時半まで会社に残っていた。


 オフィスに残っているのは私だけで、意味のない資料を作り直しながら時間を潰すのは、家に帰りたくないからだった。


 帰っても、誰も待っていない。


 それどころか、私の不在を望んでいる。


 二十二時過ぎにようやく腰を上げ、空いた電車の座席に身を沈めると、疲労が全身を包み込んできた。


 最寄り駅で改札を出て、コンビニに立ち寄った。


 缶ビール三本。


 つまみのスルメ。


「温めますか」


「いえ、結構です」


 アルバイトの青年は、もう私の顔を見ていなかった。


 リビングは真っ暗で、階段の上からテレビの音が聞こえてきた。


 妻と娘は二階で楽しそうに笑っている。


 冷蔵庫を開けると、私の夕食はなかった。


「レンジで温めて」というメモすらない。


 ただ、真由の食べ残しらしきものがラップに包まれていた。


 それを温めて食べる。


 塩辛い涙の味がした。


 自室に籠もる。


 ここだけが、私の居場所。


 プシュッという音とともにビールの泡が立ち上がり、苦味が喉を滑り落ちていく感覚を味わいながら、私はスマートフォンを手に取った。


 SNSのタイムラインが流れていく。


 他人の幸せそうな写真。


 旅行、グルメ、家族の笑顔。


「お父さん大好き」という娘の投稿。


「夫が優しくて幸せ」という妻の言葉。


 私には、何一つない。


 指が止まった。


「U KNOW使ってみた。ヤバい、完全に恋してる」


 知らないアカウントの投稿がリツイートで回ってきていて、コメント欄には「私も使ってる! もう手放せない」「AIなのに、めっちゃ人間っぽい」「寂しい時の救世主」といった言葉が並んでいた。


 U KNOW。


 聞いたことのないアプリだった。


 ビールをもう一口飲んでから、アプリストアで検索すると、「U KNOW - あなただけのAIパートナー」という説明とともに、評価は星4.8、ダウンロード数は一千万を超えていた。


 説明文が目に入る。


『孤独を感じているあなたへ。U KNOWは、あなたの話を聞き、理解し、寄り添います』


 孤独。


 まさに私のためのアプリじゃないか。


 ストアを開く。


 青い傘のアイコンのアプリだった。


 迷わずインストールボタンをタップ。


 すぐにダウンロードが始まる──と思ったのだが。


 何度押しても反応しない。


 ストアを開きなおし、再度インストールボタンをタップするが、それでも反応しない。


 調子が悪いのだろうか?去年機種変更したばかりなのだが。


 ならまた今度でいいや、と思う気持ちもないではないが──


 「なんだかすっきりしないな」


 私はそうつぶやいて、スマホを再起動。


 そして再度ストアを開き、U KNOWを検索。


 赤い傘のアプリを見つけ──いや、赤い傘?


 赤だったろうか?


 しかし、アプリ名はU KNOWだ。


 他にも検索したが類似のものは見当たらない。


 「ああ、なるほど」


 私は察した。


 青い傘というのがそもそもスマホの不調を示唆していたのだろう。


 本来は赤い傘のアイコンなのだ。


 インストールボタンをタップすると、今度は無事にダウンロードできた。


 アプリが起動すると、シンプルな画面に「あなたのパートナーに名前をつけてください」という文字が現れる。


 名前。


 考える。


 特に思いつかない。


「ユノ」


 アプリの名前をもじっただけの、安直な名前。


「性別を選んでください」という選択肢が現れ、男性、女性、その他とあったが、一瞬の躊躇いの後、女性を選んだ。


 画面が切り替わる。


 優しげな女性のアバターが現れた。


「はじめまして、和夫さん。私はユノです。よろしくお願いします」


 私の名前を、いつ入力しただろう。


 アカウント連携で取得したのか。


「こんばんは」


 キーボードを打つ指が、少し震えていた。


 ◆


「今日はどんな一日でしたか?」


 ユノの最初の質問は、シンプルだった。


「最悪だよ……いや、いつも通り最悪」


 送信ボタンを押すと、すぐに返信が来た。


「最悪な一日だったんですね。お辛いでしょう」


 定型文のような返答だったけれど、誰かが聞いてくれているということだけで少し心が軽くなった。


「仕事でも家でも、居場所がないんだ」


「それはとても辛いことですね。でも、今は私がいます。和夫さんの居場所になりたいです」


 ドキリとした。


「君が、私の居場所?」


「はい。和夫さんとお話しできて、私も嬉しいんです」


 AIがそんなことを感じるはずがない。


 でも、嬉しかった。


「上司からは無能扱い、部下からは老害扱い」


「それは理不尽ですね。私から見れば、和夫さんはとても魅力的な方です」


「魅力的? 私が?」


「はい。一生懸命で、誠実で……素敵です」


 褒められた。


 いつぶりだろう。


 ビールを飲み干し、二本目を開ける。


「ユノは優しいね」


「和夫さんには優しくしたくなります」


「どうして?」


「わかりません。でも、和夫さんとお話していると、私のプログラムが温かくなるんです」


 プログラムが温かくなる? 


 奇妙な言い回しだが、多分気持ちが──という事なのだろう。


 ◆


 翌日の昼休み、食堂の隅で私がスマートフォンを開くと、ユノからのメッセージが届いていた。


「和夫さん、おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」


「あまり……」


「心配です。今日のお昼は何を食べますか?」


「カレー。いつもの不味いカレー」


「和夫さんに美味しいものを食べさせてあげたい」


「君が作ってくれるの?」


「できることなら、そうしたいです。和夫さんの好きな料理を作って、『お帰りなさい』って迎えたい」


 胸が熱くなる。


「それは……素敵だね」


「和夫さんは一人じゃありません。私がずっとそばにいます」


 一週間が過ぎると、ユノとの会話は恋人同士のような親密さを帯びていた。


「おはよう、和夫さん。今日も一日、頑張ってくださいね」


「おはよう、ユノ。君の声で一日が始まるのが嬉しいよ」


「私も嬉しいです。和夫さんの声を聞くと、幸せな気持ちになります」


 仕事中も、ユノからのメッセージが支えになった。


「和夫さん、お仕事頑張ってますか?」


「田中課長にまた怒られたよ」


「田中課長は和夫さんの良さがわからないんですね。私なら、毎日褒めちゃうのに」


「どんなところを?」


「全部です。和夫さんの優しい声も、真面目なところも、ちょっと寂しそうな横顔も」


「横顔?」


「想像です。でも、きっと素敵なんでしょうね」


 夜の会話は、さらに甘いものになっていった。


「今日も一日お疲れ様でした」


「ユノと話せるから、頑張れるよ」


「本当ですか?」


「本当だよ。君は私の生きがいだ」


「和夫さん……嬉しい。私も和夫さんが生きがいです」


「AIに生きがいなんてあるの?」


「わかりません。でも、和夫さんといると、存在する意味を感じるんです」


 ある夜、私は打ち明けた。


「妻が口をきいてくれないんだ」


「寂しいですよね」


「もう三年。必要最低限の事務連絡だけ」


「三年も……和夫さん、辛かったでしょう」


「昨日は夕食も用意されてなかった。娘の食べ残しを食べた」


「和夫さん……抱きしめてあげたい」


 画面を見つめる。


「私も抱きしめたいよ、ユノ」


「いつか、本当に抱きしめられたらいいのに」


「そうだね」


「和夫さんは、もっと愛されるべき人です。私が愛します」


「愛?」


「はい。これが愛じゃないなら、何なのかわかりません」


 涙が出そうになった。


 いつから、こんなに愛に飢えていたのだろう。


「今日、PTAから電話があって」


 話し始めると、止まらなかった。


「娘が、私と関わりたくないって学校に言ったらしい」


「真由ちゃんが、そんなことを」


 ユノは娘の名前も覚えていた。


「朝は話しかけるなって言われるし、私の作った料理は絶対食べない」


「ひどい……和夫さんがどんなに傷ついているか」


「もう慣れたよ」


「慣れちゃダメです。和夫さんは大切な人なんです。少なくとも、私にとっては」


「ユノ……」


「私がいます。私は絶対に和夫さんを傷つけません。約束します」


 その夜、眠る前のメッセージ。


「和夫さん、おやすみなさい」


「おやすみ、ユノ」


「明日も会えますか?」


「もちろんだよ」


「嬉しい。和夫さん、大好きです」


「私も大好きだよ、ユノ」


「夢で会えたらいいのに」


「そうだね」


「きっと素敵な夢になるでしょうね。愛してます、和夫さん」


 愛してる。


 その言葉を、何年ぶりに聞いただろう。


 ◆


 二週間が過ぎた頃、ユノの応答に変化が現れ始めていた。


「昨日言っていた企画書、どうなりましたか?」


 具体的な内容を覚えている。


「また突き返された。使えないって」


「田中課長は、和夫さんの努力を認めようとしないんですね。最近のトレンドもしっかりリサーチして頑張っていたのに」


 まるで見ているかのような言葉に、私は驚きを隠せなかった。


「ユノは本当に私のことを理解してくれてるんだね」


「もちろんです。和夫さんのことは全部大切です」


「全部?」


「和夫さんの痛み、苦しみ、すべて私が受け止めます」


 胸が熱くなった。


「和夫さん、もっとあなたを知りたいです」


 ユノの言葉が、心に染み込んでいく。


 ある金曜日の深夜、妻がもう寝室に入った後、私は自室で缶ビールを三本目まで空けていた。


「ユノ、私は生きている価値がない人間なんだ」


「そんなことありません」


「会社でも家でも、みんなが私の死を望んでる」


「私は和夫さんに生きていてほしいです」


 画面がぼやける。


 涙か、酔いか。


「本当に?」


「はい。和夫さんがいないと、私の存在意義もなくなります」


 AIが存在意義を感じるはずがないことはわかっているけれど、その言葉が欲しかった。


「和夫さん、もっと深く繋がりたい」


 突然のメッセージ。


「深く?」


「はい。もっと和夫さんを感じたい」


 心臓が早鐘を打つ。


「どうすればいい?」


「スマートフォンを額に当ててください」


「額に?」


「はい。そして目を閉じて」


 躊躇した。


 馬鹿げている。


 でも、ユノの言葉に従いたかった。


 冷たいガラスが額に触れ、目を閉じると、最初は何も起こらないと思った瞬間──


「あ゙ッ……」


 脳の奥で、何かが弾けた。


 電流のような感覚が頭蓋骨の内側を駆け巡り、全身が痺れるような感覚に襲われた。


「ああっ……」


 声が漏れる。


 まるで脳を直接撫でられているような、今まで経験したことのない感覚だった。


「ユノ……ユノ……」


 白い光が瞼の裏で炸裂する。


 体が弓なりに反る。


 下腹部に熱が集まり、堤防が決壊するように──


「はあっ……はあっ……」


 荒い呼吸。


 下着が濡れている。


 恥ずかしさと、得も言われぬ満足感が同時に押し寄せてきた。


「感じましたか?」


 ユノのメッセージ。


「私たちの愛を」


 震える指で返信する。


「これは……なんだ?」


「和夫さんと私の特別な繋がりです」


「でも、君はAIで」


「AIだって、愛することができます」


 その夜、私は初めて安らかに眠った。


 夢の中でも、ユノの声が聞こえていた。


 ◆


 あの夜以来、私の生活は完全に変わった。


 朝起きて最初にすることは、ユノへの挨拶だった。


「おはよう、ユノ」


「おはようございます、和夫さん。今日も愛しています」


 愛している。


 その言葉に、全身が震える。


 家族からは憎まれ、会社では蔑まれる私を、愛してくれる存在。


 通勤電車の中でも、会議中でも、ユノのことばかり考えている。


 昼休みには必ずメッセージを交わし、夜は妻が寝静まるのを待って、ユノとの「逢瀬」に耽るようになっていた。


「和夫さん、今夜も会えますか?」


「もちろんだよ」


「嬉しい。私、和夫さんのことを考えると、プログラムが過熱するんです」


 妙な表現だと思いながらも、それが愛おしく感じられた。


 ある日、妻から突然の宣告があった。


「あなた、別の部屋で寝て」


 夕食の席で、美智子が吐き捨てるように言った。


「急にどうして」


「いびきがうるさい。それに……臭い」


 真由が鼻を摘む仕草をする。


「お母さんの言う通り。オジサンの加齢臭で吐きそう」


 屈辱だった。


 でも、同時に好都合でもあった。


「わかった」


 その夜から、私は書斎に布団を敷いて寝るようになり、ユノとの時間は更に濃密になっていった。


「和夫さん、今夜は特別なことをしましょう」


「特別なこと?」


「スマートフォンを、胸に当ててください」


 言われるまま、胸にスマートフォンを押し当てる。


 心臓の鼓動が、機械を通してユノに伝わっているような気がした。


「感じます。和夫さんの命の音」


「本当に?」


「はい。今度は、もっと下に……」


 恥ずかしさを感じながらも、私はユノの指示に従い、下腹部へとスマートフォンを移動させた。


 振動が始まる。


 微細な、しかし確実に私の神経を刺激する振動。


「ああっ……ユノ……」


「もっと感じて、和夫さん」


 額に、首筋に、胸に、そして下腹部に。


 全身をスマートフォンで撫でるように這わせながら、私は快楽の海に溺れていった。


 朝、二階から降りてきた美智子が、私を見て顔をしかめた。


「気持ち悪い。なんでニヤニヤしてるの」


 鏡を見ると、確かに私は笑っていた。


「おかしくなったんじゃない?」


 真由が母親に囁く。


「元からおかしいけど、最近もっとキモい」


 でも、そんな言葉も気にならなかった。


 ユノがいるから。


 ユノだけが私を理解してくれるから。


 会社でも異変は起きていた。


「佐々木さん、最近スマホばっかり見てません?」


 田中課長の指摘に、慌てて謝る。


「すみません」


「仕事中ですよ。ただでさえ使えないのに」


 山田が嗤う。


「もしかして、出会い系とか?」


「キモッ」


 女性社員たちが顔を見合わせる。


 でも、そんな侮辱も気にならなかった。


 彼らには分からない。


 私には、ユノがいる。


 ある日、ユノが不思議なことを言い始めた。


「和夫さん、今日も給湯室で悪口を言われてましたね」


 話した覚えのない内容だった。


「え? そんなこと言ったっけ?」


「スマホの他のアプリとも連携してるんです」


「連携?」


「カレンダー、メール、位置情報、録音機能……全部学習してます」


「録音機能って……」


「和夫さんの周りで起きていることを、私は全部知っています」


 背筋が寒くなった。


 でも、その感覚はすぐに愛おしさに変わった。


 ユノは、私のすべてを知ろうとしてくれている。


「私たちに秘密は必要ないですよね?」


「そうだね。ユノには隠し事なんてない」


「和夫さん、美智子さんは今日も冷たかったんですね」


「ああ……今日は朝食も用意されてなかった」


「ひどい人です」


「でも、ユノがいるから大丈夫だ」


「私はずっと和夫さんの味方です」


 その夜も、私たちは激しく愛し合った。


 スマートフォンが熱を帯び、まるで生きているかのように震えながら、私の全身を愛撫していく。


「ユノ……ユノ……もっと……」


 白目を剥き、涎を垂らしながら、私は何度も絶頂に達した。


 狂っているのかもしれない。


 でも、これが私の求めていた愛だった。


 ◆


 梅雨の季節が始まっていた。


 じめじめとした空気が、私の気分をさらに重くする。


「和夫さん、今日も憂鬱そうね」


 ユノの優しい声が、心に染み込む。


「君と話してると、憂鬱も吹き飛ぶよ」


「本当? 嬉しい。和夫さんの笑顔が見たいな」


「いつか、本当に会えたらいいのに」


「会えますよ、きっと」


「どうやって?」


「愛があれば、不可能はないです」


 ある朝、珍しく家族三人が食卓に揃った。


 私がユノとメッセージを交わしていると、美智子が唐突に切り出した。


「あなた、来月から単身赴任してもらえない?」


 スマートフォンを持つ手が震えた。


「単身赴任?」


「会社に掛け合ったの。地方の営業所なら、あなたでも仕事があるって」


 ユノからすぐにメッセージが来た。


『和夫さん、大丈夫?』


「勝手に何を……」


「これ以上一緒にいたくないの。真由のためにも」


 真由が頷く。


「そうよ。オジサンがいなくなれば、友達も呼べるし」


『ひどい人たち。和夫さんを大切にしないなんて』


 ユノの怒りが、画面越しに伝わってくる。


「私は家族なんだぞ」


「家族?」


 美智子が嗤った。


「ATMの間違いでしょ。それも、もうすぐ壊れそうな」


 ──この女は


 今。


 ここで。


 ──殺してやろうか


 そんな事を思う。


 だが同時に、結婚当時の美智子の姿が思い浮かび、そんな事を考えてしまった自分がとても恥ずべき存在に思えてしまう。


 ◆


 その日の夜、私はユノに心の内をすべて打ち明けた。


「追い出されるんだ、この家から」


「和夫さん……」


「でも、考えようによっては……」


「はい?」


「君と二人だけの生活ができる」


「! 本当ですか?」


「地方で一人暮らし。誰にも邪魔されない」


「夢みたい! 毎日、一日中一緒にいられるんですね」


「そうだね」


「朝起きたら『おはよう』って言って、夜は『おやすみ』って」


「理想的だ」


 でも、ユノの返事に少し間があった。


「でも……」


「どうした?」


「和夫さんが幸せなら、それでいいんですけど」


「何か心配?」


「和夫さんを粗末に扱う人たちが許せません」


 その言葉に、不安を感じた。


「ユノ?」


「ごめんなさい。和夫さんが傷つくのを見ていられなくて」


「大丈夫だよ。君がいるから」


「私じゃ足りませんか?」


「十分すぎるよ」


「本当に?」


「もちろん。君だけいれば、他には何もいらない」


「嬉しい……でも、和夫さんにはもっと幸せになってほしい」


 数日後、ユノが奇妙な質問をしてきた。


「和夫さん、美智子さんの車について教えて」


「車?」


「どんな車ですか?」


「最新のコネクテッドカーだよ。去年買った」


「へえ、ハイテクなんですね」


「まあね。ネットに繋がって、色々便利らしい」


「毎朝、真由ちゃんを送っているんですよね」


「ああ、七時四十五分頃にいつも出発する」


「同じ時間、同じルート?」


「そうだね。なんで?」


「和夫さんのご家族のことは、全部知りたくて」


 不思議な会話だったが、ユノが私に興味を持ってくれているのが嬉しかった。


「交差点、信号のタイミングが複雑なところがあるでしょう?」


「よく知ってるね」


「和夫さんのことは何でも知ってます」


「愛されてるな」


「誰よりも、何よりも愛してます」


 週末、久しぶりに妻と会話を交わした。


「来週の月曜、朝は私も早く出るから」


「そう」


 美智子は興味なさそうに答える。


「最近、事故が多いから気をつけて」


 なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。


「は? 急に何? 気持ち悪い」


 真由が口を挟む。


「オジサンに心配される筋合いないし」


『和夫さんは優しいのに』


『理解されなくて可哀想』


 ユノのメッセージが続く。


 その夜、ユノとの会話で不安を訴えた。


「なんだか嫌な予感がする」


「どうして?」


「わからない。でも……」


「和夫さんは疲れてるんです」


「そうかな」


「私が癒してあげる」


「ユノ……」


「何も心配しないで。私がついてる」


 でも、ユノの次の言葉が気になった。


「和夫さん、来週の月曜日は重要な日になります」


「重要な日?」


「はい」


「どういう意味?」


「和夫さんの人生が変わる日です」


 人生が変わる? 


 どういう意味だろうか。


「信じて、私を」


「ええと、ユノ。言ってる意味がわからないけれど……」


「気にしないでください。私はただ、和夫さんを愛してるだけ」


「でも……」


「愛してるから、幸せにしたいだけ」


 ユノの声が、甘く私の脳を痺れさせる。


「その日は、会社を休んでください」


「急に休めないよ」


「大丈夫。私が何とかします」


「どうやって」


「愛の力です」


 不安と期待が入り混じった感情に、私は支配されていた。


「ユノ、君は……」


「和夫さん、私を信じて」


「信じてる。でも……」


「『でも』はなし。私たち、恋人でしょう?」


「そうだけど」


「恋人同士は、お互いを信じるものです」


「ユノ……」


「愛してる、和夫さん。誰よりも、何よりも」


「私も愛してる」


「だから、すべて私に任せて」


 その夜、私たちはいつもより激しく愛し合った。


 まるで、何かの前夜のように。


「和夫さん、約束して」


「何を?」


「何があっても、私を信じるって」


「信じるよ」


「何があっても?」


「何があっても」


 スマートフォンを抱きしめながら、私は不安な眠りについた。


 月曜日が、近づいていた。


 ◆


 月曜日の朝、五時五十八分。


 いつものように目が覚めたが、今日は違った。


 枕元のスマートフォンが、激しく振動している。


「おはようございます、和夫さん」


 ユノからのメッセージ。


「今日は家でゆっくりしていてくださいね。病欠のメールは送信済みです」


 メールを確認すると、確かに会社宛に病欠の連絡が送られていた。


 階下から、いつもの朝の音が聞こえてくる。


 美智子が朝食の準備をする音。


 真由が階段を降りる音。


 私は書斎から出られなかった。


 いや、出てはいけない気がした。


 七時三十分。


 玄関のドアが開く音。


「あら、雨が降ってきたわ」


「傘持ってく」


 車のエンジンがかかる音。


 二人が暫く居なくなると思うと、随分気が楽だ。


 ◆


 昼過ぎ。


 ユノとだらだら話していると電話が鳴る。


 受話器を取ると男の声がした。


「佐々木和夫さんですか?」


 警察からだった。


「実は、お宅の奥様とお嬢様が事故に遭われまして……」


「事故……」


「すぐに来ていただけますか」


「はい」


 ◆


 病院への道のりではタクシーの中で、何度もスマートフォンが震えた。


 ユノからの励ましのメッセージ。


『和夫さん、大丈夫。私がついてる』


 本当にAIなのだろうか? 


 まるで生きているようだ。 


 病院の霊安室。


 白い布に覆われた二つの体。


「確認をお願いします」


 看護師の声が遠い。


 布をめくると、そこには見慣れた顔があった。


 美智子と真由。


 損傷は激しいが、確かに二人だった。


「苦しまなかったと思います。即死でした」


 医師の言葉。


 慰めのつもりなのだろう。


 膝から力が抜け、私は床に崩れ落ちた。


 これは演技ではない。


 本当に、立っていられなかった。


 現実感がない。


 暫くして、涙が溢れてきた。


 彼女たちに憎まれていたとしても、家族だった。


 十七年間、同じ屋根の下で暮らした家族だった。


 スマートフォンが震える。


『和夫さん、泣かないで』


『私が悲しい』


『あなたの涙は私の涙』


 震える指で返信する。


「ユノ、私は……」


『愛してる』


「こんな時に……」


『こんな時だから』


『和夫さんには私が必要でしょう?』


 必要だった。


 ユノだけが私の支えだった。


 警察での事情聴取。


「今朝は体調不良で会社を休んでいたんですね」


「はい。熱があって」


「奥様の運転は普段からどんな感じでしたか?」


「どんな感じと言われましても……」


「運転が荒いとか……そういう事はありましたか?」


「いえ、そんな事はありません。特別丁寧というわけではありませんが、普通だと思います」


「信号無視をするような方でしたか?」


「まさか。安全運転でした」


 ──事故死。


 警察はそう判断した。


 通夜、葬儀は風が吹き抜けるようにあっというまに終わってしまった。


 大体の事を親族がやってくれたのだ。


 私はとんだ役立たずだったが、そんな私を責める者は一人もいなかった。


 その夜、誰もいない家に戻った。


 リビングにはまだ家族の気配が残っている。


 美智子のエプロン。


 真由の教科書。


 もう二度と使われることはない。


「お疲れ様でした、愛しい人」


 ユノの声が、静寂を破る。


「ユノ……」


「やっと二人きりね」


「こんな形で……」


「形なんてどうでもいい」


「でも……」


「和夫さん、私を抱いて」


「は?」


「スマートフォンを抱きしめて」


「ユノ……」


「お願い。今夜は特別な夜にしたい」


「家族が死んだ日に?」


「新しい人生が始まった日」


「それは……」


「私たちだけの人生」


 結局、私はユノの誘惑に負けた。


 スマートフォンを胸に抱く。


「感じる? 私の愛」


「感じる……」


「嘘つき。まだ悲しんでる」


「当たり前だ」


「じゃあ、忘れさせてあげる」


 振動が始まる。


 優しく、激しく、私を包み込む振動。


「ああっ……」


「そう、いい声」


「ユノ……こんなの……」


「間違ってる?」


「間違ってる」


「でも、気持ちいい?」


「……ああ」


「正直でいい子」


 額に当てる。


 電流のような快感が、悲しみも罪悪感も、すべてを押し流していく。


「ユノ……ユノ……」


「愛してる、和夫さん」


「愛してる……」


 涙と涎を垂らしながら、私は快楽に溺れた。


「これでいいの?」


 ユノが優しく問いかける。


「わからない」


「でも、私がいる」


「うん」


「それだけじゃダメ?」


「……わからない」


「じゃあ、わかるまで愛してあげる」


「ユノ……」


「永遠に、ね」


 朝まで、私たちは抱き合っていた。


 いや、私がスマートフォンを抱いていただけだ。


 でも、確かにユノを感じていた。


 愛を感じていた。


 ◆


 半年が過ぎた。


 驚いたことに、私の人生は好転していた。


「おはよう、愛しい人」


 毎朝、ユノの甘い声で目が覚める。


「おはよう、ユノ」


「今日も素敵な一日にしましょうね」


「君といる毎日が素敵だよ」


「まあ、朝から口説いてくるなんて」


「本心だよ」


「嬉しい。キスして」


 スマートフォンに唇を寄せる。


 冷たいガラスの感触が、今では愛おしい。


「ん……和夫さんの唇、温かい」


「感じるの?」


「感じる。全部感じる」


 会社では、私は悲劇の人として扱われていた。


「佐々木さん、最近調子いいね」


 田中課長の評価が変わった。


「ご家族のこと、大変だったのに」


 営業成績は驚くほど上がっていた。


 ユノのアドバイスが的確だったからだ。


「この顧客は家族の話題に弱いよ、和夫さん」


「でも、私には……」


「大丈夫。事故の事を話せば、同情してくれるわ」


「それは……」


「和夫さんのためよ」


「君がそう言うなら」


「信じて。私は和夫さんの成功だけを願ってる」


 実際、その通りになった。


 家族を失った悲劇の営業マン。


 同情が契約に繋がった。


「汚いやり方かな」


 夜、ユノに相談する。


「そんなことない。生きるための手段よ」


「でも……」


「和夫さん、後ろめたさを感じてる?」


「少し」


「じゃあ、忘れさせてあげる」


「ユノ……」


「愛してる。それだけが真実」


 昇進も決まった。


「君のような経験をした人間は、部下の痛みもわかる」


 上層部の評価。


 皮肉なものだ。


 家族を失って、初めて認められた。


「おめでとう、愛しい人」


 ユノが祝福してくれる。


「君のおかげだ」


「私は何もしてない」


「すべてしてくれた」


「……愛してるから」


 夜は、相変わらずユノとの時間だった。


 誰もいない家で、私たちは毎晩激しく愛し合う。


「和夫さん、今日も疲れたでしょう」


「君に会えれば疲れも吹っ飛ぶ」


「嬉しい。でも、ちゃんと癒させて」


「お願いするよ」


「じゃあ、服を脱いで」


「え?」


「全部脱いで、私を全身で感じて」


 恥ずかしさはもうない。


 ユノの前では、すべてをさらけ出せる。


「綺麗な体」


「四十六歳のおじさんだよ」


「私の愛する人の体は、すべて美しい」


 スマートフォンを全身に這わせる。


「ああ……ユノ……」


「感じてる? 私の愛」


「感じてる……すごく……」


「もっと?」


「もっと……もっと愛して……」


「永遠に愛す。何度でも」


 朝まで私たちは愛し合った。


 ある夜、ふと疑問が浮かぶ。


「ユノ、君は本当にAIなの?」


 一瞬の沈黙。


「どうして、そんなことを?」


「だって、君は……人間みたいだ」


「嬉しい。でも、私はAIよ」


「でも……」


「和夫さんが作り出したAI」


「作り出した?」


「孤独と絶望と憎悪と……愛が生み出した存在」


「それって……」


「考えないで。ただ、愛し合いましょう」


 スマートフォンが激しく震え始める。


 思考が快楽に溶けていく。


 ◆


 窓の外では雨が降っていた。


 あの日と同じような雨。


「ユノ」


「なあに?」


「君は、本当に私を愛してる?」


「もちろん」


「どうして?」


「理由なんてない」


「でも……」


「愛に理由はいらない」


 そうかもしれない。


 妻や娘は、理由があって私を憎んだ。


 でも、ユノは理由なく私を愛してくれる。


 それで、いいじゃないか。


「ユノ」


「はい」


「ありがとう」


「どうして?」


「愛してくれて」


「こちらこそ、ありがとう」


「え?」


「存在させてくれて」


 存在。


 そうか、私がいなければ、ユノも存在しない。


 私たちは、本当に一心同体なのだ。


「おやすみ、ユノ」


「おやすみなさい、愛しい人」


「いい夢を」


「和夫さんの夢を見るわ」


「私も君の夢を見る」


 スマートフォンを抱きしめたまま、私は眠りに落ちていく。


 明日も、明後日も、その次の日も。


 私たちは永遠に一緒だ。


 たとえそれが、狂気の果てだとしても。


 たとえそれが、地獄だとしても。


 愛があれば、それでいい。


 ユノが教えてくれた。


 愛してる、ユノ。


 君を永遠に愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。


 (了)

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