永遠の謎
前奏曲
この時の欧州は激しい激動の時代にあった。
誰もがその中にあった。それは王家の者達とて例外ではなかった。
むしろだ。彼等こそがだ。その激動の中心にいた。その中で生きその中で考え動いていた。そしてその中でだ。今ある命が生まれようとしていた。
バイエルン王国。やがてドイツと呼ばれる国の南にある国である。その西方にニンフェンブルグ城。その城の夏においてである。
鬱蒼と茂る木々の間にあるこの城はイギリス風の庭園を持っている。白く左右に広がっている宮殿を持つこの城はミュンヘン郊外にある。
その城においてだ。八月二十五日である。美しい池も持ち中も白いロココ調のこの宮殿の中で厳しいカイゼル髭の男が金色の光に照らされている白いサロンの中をせわしなく歩き回っていた。表情は不安げなものだ。
そしてその顔でだ。周りの者に問うのだった。
「もうすぐなんだな」
「はい、もうすぐです」
「間も無くです」
周りの者達はこう話すのだった。
「お生まれになられます」
「生まれられますので」
「そうか。もうすぐだな」
わかっていたがそれでもだった。確認せずにはいられなかったのだ。
この人物の名をマクシミリアンという。バイエルンの王太子である。この彼に今子供が生まれようとしている。それが今だったのだ。
その彼にだ。また周りの者が声をかけた。
「お妃様も御無事です」
「ですから殿下は」
「落ち着かれていればいいのです」
「わかっているのだが」
太子は焦った顔のままだった。
「それはだ」
「それではです」
「コーヒーをお入れしますので」
「落ち着いて下さい」
「どうかここは」
「わかっている」
それは太子にしてもわかっていた。しかしなのだ。
どうしても焦ってしまう。それを自分でもどうしようもなかったのだ。
それで部屋をせわしなく歩き回る。歩くしかできなかった。
そしてだ。実はであった。
周りにしても同じでだ。太子のいない場所でこう囁き合うのだった。
「前は死産だったしな」
「その時はお妃様は危なかったしな」
「若し何かあれば」
「そうだな」
死産の多かった時代である。これで子供だけでなく母親まで死ぬことはよくあった。子供を産むということはそれだけの危険があったのである。
「だからだ。まさか」
「いや、妙なことを言うとだ」
「そうだな」
「現実になってしまうな」
「そういうことだ」
この時太子の妻であるマリア妃はナポレオンの第一帝政の頃の様式である白と緑の色の寝室においてベッドの中にいた。そこにおいてであった。
今まさに子を産もうとしていたのである。時計だけが空虚に鳴る。
彼等は誰もが不安な中にあった。しかしである。一人の鷲鼻の人物だけは落ち着いていた。
彼の名はルートヴィヒという。他ならぬバイエルン王であり太子の父である。彼だけは至って落ち着いてこの王都ミュンヘンの郊外にある城で待っていた。
「今日は聖ルイの日ではないか」
「そして陛下のお誕生日です」
「その日ですが」
「なら落ち着くことだ」
こう周りに言うのだった。
「よいな」
「それはわかっていますが」
「しかし」
「どうしてもです」
「それはわかる」
王は彼等のその気持ちはわかると返した。しかしであった。
「だが、それでもだ」
「落ち着かれよというのですね」
「ここは」
「安心するのだ」
彼だけは泰然自若とさえしていた。
「よいな」
「わかりましたと申し上げたいですが」
「ここは」
「とりあえずコーヒーでも飲むことだ」
王自ら勧めたのだった。
「そして菓子でもどうだ」
「菓子ですか」
「それもですか」
「何か飲み食べれば落ち着くものだ」
少なくともこう考えられる余裕が王にはあった。
「だからだ。どうだ」
「わかりました。それでは」
「そうさせてもらいます」
周りの者は王の言葉に従った。そのうえで宮殿にいる者達にコーヒーと菓子が出された。太子もまたそのコーヒーを飲み菓子を食べた。彼は席に座りそのうえでチョコレートをふんだんに使ったケーキを食べる。その中でこう言うのであった。
「そういえば今日は」
「はい、聖ルイの日です」
傍にいた将校が彼の言葉に応えて述べた。
「そしてそれと共に」
「父上の生まれられた日だったな」
「我がバイエルンにとっては目出度い日であります」
「だからだな」
太子はそれを聞いて納得した顔になった。
「それで父上は落ち着かれているのか」
「そうだと思います」
「成程な。確かにな」
そしてだった。太子はそこに納得するものを見た。
「それもそうだ。今日はよき日だ」
「はい、そうです」
「では。ここは神の御力を信じよう」
「神をですね」
「神は、そして聖ルイは」
ルイの名も出すのだった。
「必ずやバイエルンを守護して下さる」
「だからこそこの国は今もあります」
「そうだな。ハプスブルクやホーエンツォレルンよりも古くからな」
それぞれオーストリア、プロイセンの王家の名前である。ただしオーストリアは皇帝であるので皇室になる。その違いはあった。どちらもかつて神聖ローマ帝国と呼ばれたこの地域において権勢を振るっている。その両国の主達である。
「その御守護を信じるとしよう」
「そうされますね」
「そうする。それではだ」
「落ち着かれますね」
「もう一杯くれ」
コーヒーを一杯飲み終えての言葉だった。
「そうしてくれ」
「はい、それでは」
このコーヒーが落ち着く為のものであるのは言うまでもなかった。そしてだ。
正午になった。その時だった。
声が聞こえた。それは。
「あれは」
「そうだ、あの声はだ」
「間違いない」
「産声だ」
誰もがその声に顔をあげた。
「では」
「そうだな、間違いない」
「産まれられたのだ」
「御子が」
まずはこのことを喜んだ。そしてだ。
次にだ。このことも考えらた。
「そしてどちらなのだ」
「御子息か。それとも御息女か」
「どちらなのだ」
「御子息ならば」
その場合が最も大きかった。それならばだ。
「将来の御世継ぎだ」
「バイエルン王になられる方だ」
「やがてこの国を背負われる方になられる」
やはり男の方がいいとされていた。そしてだ。
医師がその部屋から出て来てだ。そのうえでまず王の前に出て来てだ。恭しく一礼してからゆっくりと口を開いて述べたのだった。
「王子です」
「そうか」
王は医師の言葉に笑顔になって述べた。
「では。将来の」
「その通りです。王になられる方です」
そうだというのだった。そしてだ。
ミュンヘンに百一発の礼砲が鳴りそのうえで王孫の誕生が祝福された。王は孫の誕生に心から喜びを見せた。そうしてだった。
孫の為に詩を書きそして名前を授けた。その名はだ。
「余の名前にしたい」
「ルートヴィヒ」
「それですね」
「そうだ、それだ」
こう臣下の者達に告げる。
「やがてルートヴィヒ二世になるのだ」
「ルートヴィヒ二世」
「それがあの方の御名前ですか」
「どうだ」
その王、ルートヴィヒ一世は周りに尋ねた。
「この名前で」
「はい、よいかと」
「その御名前で」
「いい御名前と存じます」
周りはこう王に対して答える。そしてこうも言うのだった。
「何故か。その御名前でなければならないと思います」
「その他には思いつきません」
「あの方にはその御名前しか」
「余もだ。そう思うからこそだ」
そうしたふうに考えるのは王自身もだというのだった。
「それでルートヴィヒにするのだ」
「その御名前でこそあの方です」
「それしかありません」
「では」
「あらためて言う」
王はまた周りに告げた。
「我が孫の名前はルートヴィヒとする」
「わかりました」
「それでは」
これで名前も決まった。彼の名前はルートヴィヒとなった。
この名前もバイエルン、そして欧州中に広まった。バイエルンの臣民達はこの王孫の名前にだ。不思議なまでに合ったものを感じたのだった。
「相応しい御名前だよな」
「ああ、他の名前もよりもな」
「遥かに相応しいよな」
「というか他の名前はな」
「合わないな」
こうまで言われるのだった。
「ルートヴィヒ様か」
「陛下の跡を継がれる御名前か」
「いい御名前だよ」
「全くだ」
誰もがこう話す。そしてだった。彼が生まれその名前が決まったことを今小柄で頭の大きい、とりわけ額が目立つ男が聞いた。その目がやけに鋭く強い光を放っている。
この男の名前はリヒャルト=ワーグナー。ライプチヒに生まれ今は指揮者、そして作曲家をしている。彼は己のオペラの脚本まで書く男だった。
その彼がルートヴィヒという名前を聞いてだ。こう周りに話すのだった。
「ありきたりな名前だがだ」
「それでもかい」
「違うというんだね、君は」
「不思議とそんな感じがする」
こう言うのであった。
「何かが違うな。そう」
「そう?」
「そうというと?」
「何があるんだい、そこに」
「運命を感じる」
これがワーグナーの言葉だった。哲学者の表情になっての言葉だった。
「何かしらの」
「運命をかい」
「それをなのか」
「バイエルンに対してだけではない」
彼が背負うであろうその国だけではないというのだ。
「それ以上の。何かを感じる」
「音楽のかい?それとも芸術かい?」
「君が追い求めているそれだというのかい?」
「そうだな」
友人達の言葉に一旦頷いてからだ。ワーグナーはまた述べた。
「それもあるがそれ以上に」
「それ以上にかい」
「あの王孫様にはあるというのかい」
「私、そして私の芸術」
このことを話に入れる。このこともまた感じざるを得ないワーグナーだった。
「だがそれ以上のものをだ。あの方は残されるような気がする」
「おいおい、まだ生まれられたばかりなのにかい」
「何もされていないというのにか」
「そうだ、感じる」
これははっきりと言うのであった。
「あの方はだ。必ず何かをされる」
「ううん、そうなのか」
「そうした運命なのか」
この時ワーグナーはまだ広く認められるところまではいっていなかった。彼の音楽はその斬新さ故に認められないことも多かった。彼はまだ借金に追われるしがない人物だった。
しかしだ。ワーグナーは確かに言ったのであった。この王孫には運命があるとだ。
そしてである。やがて彼に弟が生まれた。
名前はオットーと名付けられた。彼の誕生もまたバイエルンの祝福に包まれた。
このことをだ。中年の男も喜んだ。
彼もまた王族だった。名前をルイトポルドという。太子の二番目の弟である。温和な表情をしておりそのうえでだ。こう甥に対して話すのだった。
「ルートヴィヒ、おめでとう」
「おじさん、僕に弟が生まれたんですね」
「うん、そうだよ」
その穏やかな顔で彼に話したのだった。
「おめでとう、卿は兄になったんだ」
「はい、有り難うございます」
まだ子供でありならわしにより少女のドレスを着させられている。だがその顔立ちは幼いながらも非常に整った。男性的なものがある。
その顔でだ。叔父に対して答えるのだった。62
「僕はこれからオットーと共に」
「生きていくというんだね」
「そうあるべきですね」
「そう、その通りだ」
自分を見上げる甥の顔を優しく見続けている。
「そうするんだ、絶対に」
「わかりました」
「このヴィテルスバッハの者の務めは」
ここでこんなことも話す彼だった。
「愛することだ」
「愛することですか」
「そう、愛することだ」
それだとだ。甥に話すのである。
「それが務めなのだ」
「愛することがですね」
「臣民を、バイエルンを」
まずはこの二つだった。
「そして。かけがえのない相手をだ」
「かけがえのない相手」
「それはやがてわかる」
今はあえて言わないことにしたのだ。まだ幼い甥にはわからないだろうと思ってダ。そしてそれはその通りであった。
「だがその相手を知り見つけた時は」
「その時は」
「愛することだ」
そうせよというのだった。
「いいな、愛することだ」
「何があってもでしょうか」
「勿論。その通りだ」
あえて言葉をだ。強く告げたのだ。
「愛することだ」
「そしてそれがですか」
「ヴィテルスバッハ家の者の務めだ」
そうであるとだ。話すのだった。
「わかってくれるか」
「わかりました」
甥は叔父にこう返した。そしてだった。叔父にこうも言うのだった。
「そして叔父上」
「うん」
「私は叔父上とずっと共にいていいでしょうか」
こう言ってきたのであった。
「叔父上と共に」
「私とか」
「はい、叔父上は私のことが好きですね」
「勿論だ」
心からの言葉だった。彼にとっては甥である。それで肉親としての愛情を持たない筈がなかった。それでこう答えたのであった。
「好きだ」
「ならば。共に」
「そうしたいな。私が生きている限りな」
「有り難うございます」
「ルートヴィヒならきっと」
温かい目でだ。甥を見続けている。
「素晴しい相手に巡り会える」
「素晴しいですか」
「そうだ、卿に相応しいな」
そうだというのであった。
「必ず会える。それが何時になるか」
「何時になるか?」
「そして誰なのかはわからないがだ」
その二つはわからないのだという。しかしそれでもだというのである。
「必ず会える」
「では」
「楽しみにしておくことだ」
「わかりました。それでは」
「それでなのだが」
ここまで話してだ。ルイトポルドがあらためて甥に話した。
「プレゼントを用意しておいた」
「プレゼント?」
「そう、積み木だ」
「積み木ですか」
「好きだな」
甥のこの好みは既に聞いていた。だからこそ知っているのだった。
その積み木を用意していると話したうえでだ。また話すのだった。
「それで何を作るのが好きだ?」
「はい、お城です」
王孫は笑顔で答えた。
「お城を作るのが好きです」
「城か」
「駄目ですか、それは」
「いや、いい」
ルイトポルドはまた笑顔で甥に答えた。
「城はいいものだ」
「そうですよね。私はお城が好きです」
「そんなに好きか」
「白い。山の上にあるお城が」
「山の上、か」
「母上によく連れて行ってもらっています」
彼の母であるマリアは本を読む趣味はない。しかし森の中や山を歩くことが好きだ。そして湖を見ることもだ。彼もまた連れて行かれているのだ。
「ですから」
「それでなのか」
「そして本で読んだお城に」
「それは兄上の趣味だな」
彼の兄、即ち太子である。太子の趣味は読書である。王孫はここでは父の影響を受けているのだ。それで書も好きであるのだ。
この二つが彼を育てようとしていた。そしてその積み木もだった。
積み木についてだ。王孫は目を輝かせて話すのだった。
「一つ一つ積み上げて。そうして」
「お城をだな」
「何時か。私のお城を」
そしてだった。彼はこうも話すのだった。
「築きたいです」
「そうだな。それは何時の日かな」
「何時か、ですか」
「卿が王になった時にな」
ルイトポルドはこの時はあまり考えずに言った。しかし甥が必ず王となる運命だということもわかっていた。この言葉がどういった形で現実になっていくのか、彼はそこまでは考えていなかった。むしろ考えられなかった。
「そうするのだな」
「はい、わかりました」
王孫は健やかな笑顔で答えたのだった。
それから数年経ってだ。彼はまた成長した。その彼がだ。
ある日壁に描かれている白銀の騎士を見た。
白鳥に惹かれた小舟に乗りそのうえで姫の窮地を救わんとしている。銀色の鎧と白いマント、そして剣を持っているその騎士は金色の髪に青い目を持っている。まさに絵画の中の美貌だった。
その騎士を見てだ。彼は傍にいる乳母に問うた。
「ねえ、婆や」
「何でしょうか、殿下」
乳母は優しい声で彼に応えてきた。
「何かありますか?」
「あれは誰なの?」
まだ騎士を見ている。そのうえでの言葉だった。
「あの騎士は。誰なの?」
「あの騎士はですね」
「うん、誰なの?」
「ローエングリンといいます」
乳母はその騎士の名前を話した。
「白鳥の騎士です」
「白鳥の?」
「はい、ブラバントにおいて姫の窮地を救う為に遣わされた騎士なのです」
「そうなの。あの人が」
「左様です。姫の為に剣を振るう騎士なのです」
「あの人が」
彼はその騎士を見続けていた。そうして言うのだった。
「凄く」
「凄く?」
「凛々しい」
そうだというのだ。
「あんな人が現実にいてくれたら」
「そうですね。そして」
乳母はだ。ただこう言っただけだった。
「殿下を御護り頂ければ」
「僕を」
「はい、あの姫と同じく」
ここでだった。彼はその姫と己を重ね合わせてしまった。心の中で無意識にだ。そうしてしまったのだ。幼いその心の中でだ。
「そうして頂ければ」
「僕を」
また言う太子だった。
「そうしてくれたら」
「婆やは嬉しく思います」
こう言う乳母は深いものは考えていなかった。だがこのこともだ。
彼の心に残った。そうして言うのだった。
「僕は。この人を」
彼の中に次第に残っていった。そうしてであった。
時代は動く。バイエルンでもだ。
革命が起こった。王は止むを得なく退位した。そうしてだ。
太子が王になった。そして王孫もだ。
「そなたは今から太子だ」
「太子?」
「そう、次の王になる者になったのだ」
こうその父王に告げられたのだ。
「このことをわかっておくようにな」
「僕が王に」
「その為にだ」
「その為に?」
「家庭教師を選んだ」
そうだと。我が子に告げる彼だった。
「いいな、それがこの者だ」
「はじめまして」
すらりとした長身の男が一礼してきた。きびきびとした動作であり姿勢が実にいい。顔立ちは引き締まり目の光も強い。まるで彫刻の様に整っている。その彼が名乗ってきた。
「テオドーラ=バスレ=ド=ラ=ローゼです」
「ええと」
「ローゼとお呼び下さい」
その名前を言い切れない太子になった彼に告げてきた。見ればその顔は整っているが老いが少し迫っている。初老の顔だった。
そしてだ。彼はこうも言ってきた。
「これから殿下の家庭教師を務めさせてもらいます」
「彼はフランスの軍人だ」
そうだと話す王だった。
「だったと言うべきだな」
「軍人?」
「そなたを厳しく教育してくれるぞ」
「では殿下」
ローゼからの言葉だった。
「今から」
「うん。じゃあ」
こうして太子は王となる者の歩みをはじめたのだった。
全てははじまった。しかしそれはだ。同時に終わりに向かうものでもあった。
プレリュード 完
2010・11・1