第六話 森のささやき
ビスマルクは首相官邸においてだ。鷲鼻の痩せた顔の男と向かい合ってそのうえで食事を摂っていた。見ればその男は厳しい、独特の灰色の軍服を着ている。乗馬のそれを思わせるズボンと黒いブーツがよく似合っている。
その彼がビスマルクと共にいる。だが彼は話そうとはしない。
しかしだ。ビスマルクが先に口を開いてきた。
「参謀総長はこの料理がお好きか」
「牡蠣ですか」
「そうだ。それは好きか」
見れば二人は今生牡蠣を食べている。殻から出したそれを食べながらだ。ビスマルクはこうその男モルトケに対して問うのであった。
「牡蠣は」
「嫌いではありません」
モルトケは静かにこう返した。
「私もまた」
「そうか。それは何よりだ」
ビスマルクは彼の今の言葉にまずは微笑んだ。そしてであった。
自分の皿の上の牡蠣は全て食べ終えた。そのうえで周りの者に言うのだった。
「お代わりだ」
「わかりました」
こうしてだ。すぐに別の皿から牡蠣が出された。見ればその殻から出した牡蠣にはレモンが添えられている。すぐにそのレモンが絞られ牡蠣の上にかけられる。
それを見ながらだ。ビスマルクは満足した顔で言うのだった。
「牡蠣はいい」
「そういえば宰相殿は」
「前にあれだったな」
モルトケの言葉に応えてだ。楽しげに話しはじめた。
「百個食べたことがあったな」
「それ以上だったのでは?」
「百七十個程だったか」
それだけ食べたというのである。
「あの牡蠣は実に美味かった」
「成程、そうでしたか」
「それでだが」
一旦シャンパンを飲んでからだ。ビスマルクはモルトケに対してあらためて言ってきた。
「一つ聞きたいことがあるのだが」
「シュレスヴィヒとホルシュタインのことですね」
モルトケはすぐに答えたのだった。
「あの場所のことですね」
「話が早いな。その通りだ」
「オーストリアと共に介入する」
モルトケは淡々とした口調で話していく。
「そうされるのですね」
「準備はできているか」
「はい」
即答であった。
「何時でも」
「早いな」
「何時何があるかわかりませんから」
これがモルトケの返答であった。
「ですから」
「有事は何時でもだな」
「その通りです。それで閣下」
「何だ」
「戦争をされても。オーストリアはいいのですが」
「わかっている。あの国だな」
ここでだ。彼は言った。
「バイエルンのことだな」
「その通りです。あの国はどう動くでしょうか」
モルトケは冷静な顔で問うた。戦争はプロイセンとオーストリアだけでやるものではない。彼はただの軍人ではないのであった。
政治もわかっている。だからこその言葉であった。
「私が思うにはだ」
「どう思うか、バイエルンについて」
「カトリックです」
それが大きいのだった。カトリックであることがだ。
「オーストリアと同じ」
「そうだな。それに対して我がプロイセンは」
「プロテスタントです」
この二つが大きかった。実にだ。宗教はこの時代においても大きな意味を持っていた。ドイツはそういった意味では三十年戦争の頃から変わってはいなかった。
「その二つの問題があります」
「この二つだな」
「そうだ、その二つだ」
ビスマルクもだ。それがわかっているのだった。
彼は冷静にだ。牡蠣を食べながら言った。
「バイエルンはカトリックだ。ドイツの南部はカトリックの牙城の一つだ」
「そしてバイエルンこそがその中心にいます」
「結果として我がプロイセンを嫌っている」
それ故にである。
「それもかなりな」
「だからこそ。バイエルンは」
「オーストリアにつくな」
「しかもです」
モルトケもまた、だった。その言葉を続けるのだった。
「オーストリアの皇后は」
「ヴィッテルスバッハ家の方だからな」
「そうしたことも考えますと」
「バイエルンはオーストリアにつく」
ビスマルクはここでは断言した。
「間違いなくな」
「その通りです。その場合は」
「バイエルンをどうするか」
それが問題であった。ビスマルクはそれについても考えていたのだ。
「戦争はするからにはだ」
「短期で終わらせるべきです」
「長引いては誰も得をしない」
つまり短い戦争だからこそだというのだ。意味があるというのだ。
「全くな」
「はい、戦争はすぐに終わらせないと」
「しかしだ。オーストリアの軍は旧式とはいえ、だ」
既にだ。オーストリア軍についても調べているのだった。
「数は多い」
「戦争は数です」
「少し間違えれば長期戦になる」
「オーストリアとの戦争を短期に終わらせる計画は既にできています」
「それもか」
「はじめれば。すぐに」
モルトケは鋭い目でだ。ビルマスクに対して言い切ってみせた。
「それができます」
「早いな。そこまでか」
「ただしです」
ここでだった。モルトケは言葉を限ってきた。そのうえでの言葉だった。
「オーストリアと戦う計画だけです」
「オーストリアだけか」
「必要な戦略だけを考えています」
そしてなのだった。こうも告げたのであった。
「あくまで」
「面白い話だな。そこまでか」
「バイエルンについてはです」
「何の計画も立てていないな」
「その通りです」
「そうだ。それでいい」
そしてだった。ビスマルクもこう言うのであった。
「あの方は全てをわかっているのだからな」
「情勢を全てですね」
「そういうことだ。あの方は決して愚かではない」
ビスマルクはここでも王に対して語る。そしてここでもだった。
「むしろ非常に聡明な方だ。政治もわかっておられる」
「政治もまたですね」
「それがわかっている者は少ない」
ここでもこう言う彼だった。
「清らかなる愚か者なのだ」
「清らかな愚か者ですか」
「そうだ。愚かだが愚かではない」
そうだというのだった。
「あの方はな」
「ではバイエルンは」
「動かない」
ビスマルクは言った。
「オーストリアについてもだ」
「ですね。ですからオーストリアに専念します」
「そして戦争を短期でだな」
「戦争はこれで終わりではありません」
オーストリアとの戦争だけはないとだ。モルトケは見ていたのだ。
「オーストリアの次は」
「フランスだが」
「ナポレオン三世は策謀を好みます。それにどうするか」
「案ずることはない。策謀といってもだ」
どうかとだ。ビスマルクは軽く話す。
「たかが知れている」
「たかがですか」
「そうだ。知れている」
こうモルトケにだ。軽い調子で話すのだった。
「やることも見えている」
「それもですね」
「だからだ。仕掛けてきたならばだ」
「その時は」
「こんな言葉がある」
ビスマルクは素っ気無く言った。また牡蠣を食べ終える。するとすぐに新しい皿が来た。
「策士策に溺れるだ」
「策にですか」
「あの御仁に相応しい言葉だ」
その言葉こそがだと。ビスマルクは話す。
「そういうことだ。仕掛けてくればだ」
「その時にこそ」
「必ず来る」
ビスマルクは確信さえしていた。
「あの御仁はな」
「そうですな。あの御仁は何かと口を挟むお人です」
それはモルトケもわかっていた。二人共全てわかっているのだった。
そのうえでだった。二人は言うのであった。
「では。まずはオーストリアを終わらせて」
「その通りだ。そのオーストリアだが」
「勝ち取られるものはやはり」
「いや、多くは求めない」
ビスマルクはそれはしないと言った。
「勝利を収めオーストリアを抑えるだけで充分だ」
「今後を考えますと」
「そういうことだ。確かに大ドイツ主義はプロイセンにとって不都合だ」
大ドイツ主義とはオーストリア主導でのドイツ統一だ。それはプロイセンにとっては決して受け入れられるものではないからだ。だからだ。
「しかしだ。プロイセン主導のドイツが成立したならばだ」
「そのドイツだけではやってはいけないからこそ」
「オーストリアはそのドイツの友邦にしなければならない」
ビスマルクはそこまで考えているのであった。
「それとロシアとはだ」
「決して戦ってはなりませんね」
「カール流星王もナポレオンも敗れた相手だ」
だからこそだというのだ。それは避けるというのだった。
「ドイツは鉄と血で成立するがだ」
「しかしそれと共に平和もまた」
「鉄と血で護る。戦争なぞは統一されればもうすることはないのだ」
あくまで政治としての一手段だというのだ。それが彼の考えだった。
それでだ。彼等は言っていくのだった。
「ロシアともだ」
「では東はオーストリア、ロシアと手を結び」
「南のイタリアとも交流を深めていこう」
ビスマルクはイタリアも見ていた。
「あの国も遂に一つになろうとしているからな」
「だからこそですね」
「そうだ。何はともあれオーストリアは」
「勝利だけを求め」
「多くは求めない。後を考えてだ」
「わかりました。それでは」
「それを念頭に戦争を進めていく」
ビスマルクは言い切った。既に全ては彼の頭の中にあった。
「ドイツの為にだ」
「では。機が来れば」
モルトケも頷く。今彼等は牡蠣を楽しんでいた。そして。
バイエルン王はだ。今ある場所に向かっていた。青と金のロココ調の、天井にまでアラベスクを思わせる左右対称の模様が描かれたその車両の中でだ。紅のワインと子牛の肉を口にしながらだ。こう言うのであった。
「シシィと会えるのだな、いよいよ」
「はい」
「その通りです」
こう答える侍従達だった。
「エリザベート様もご一緒です」
「皇帝陛下と」
「いいことだ。確かにシシィには旅が必要だ」
肉をナイフで切る。濃厚な白いソースがその切られた間に入る。
それを口にしてだ。肉とソースの絡み合いを楽しみながらまた言うのだった。
「しかしだ」
「しかしですか」
「そうだ。少しは陛下と一緒にいないとだ」
「いけません」
「それもまたシシィの為だ」
こうだ。従姉を気遣って話すのだった。
「皇帝陛下と共にいることもだ」
「皇帝陛下もエリザベート様も愛し合われています」
「それは確かです」
侍従達がこう話していく。それは彼等も知っていたのだ。
「ですが。ハプスブルク家、ウィーンはあまりにも慣わしが多く」
「格式が高いあまり」
「それはシシィにはよくない」
ハプスブルク家のその格式がだというのだ。
「合わない。思えば因果なことだ」
「因果ですか、それは」
「そうだと仰るのですか」
「その通りだ」
見事なガラスのグラスを手に取った。そのうえで口の中に入れてだ。ワインの芳香と味覚を味わいながら侍従達に話すのだった。
「二人は愛し合っていてもだ」
「周囲には馴染めない」
「そうなのですね」
「夫婦とはそういうものなのか」
王は遠い目で話した。
「所詮は。男女の愛なぞ」
「いえ、愛はです」
「男女のものではないのですか」
侍従達は王の今の言葉には怪訝な顔になった。
「だからこそ成り立つのではないのですか」
「違うのですか」
「それだけではないのではないのか」
王はだ。今度は懐疑的な顔になった。
「私は。少なくとも」
「陛下は」
「どうなのですか」
「いや、いい」
それ以上は言わなかった。そうしてだ。
食べながらだ。彼はまた言った。
「では今からシシィのところに行こう」
「はい、それでは」
「今より」
「私にとってもいいことだ」
王はだ。微笑んで述べた。
「シシィに会える。久し振りにな」
「お元気だとのことです」
「顔色もいいそうで」
「鳩はどうして鳩か」
王の言葉だ。
「空を飛んでのことだ」
「空を飛ぶからことですか」
「だからですか」
「しかし時には休むことも必要なのだ」
「それが今ですね」
「陛下が向かわれる場所ですね」
「その通りだ。鳩は今安らぎの中にいる」
こう話していく。
「鷲はその前に行こう」
「それでは陛下、今から」
「どうされますか」
侍従達は肉を食べ終えた王に対して問うた。
「新しいワインをお持ちしましょうか」
「そしてデザートは」
「ワインはもういい」
それはというのだった。
「もうな」
「ではデザートだけですね」
「そうだ。何があるか」
「アイスクリームがあります」
それがあるというのだ。アイスクリームだというのだ。
「それで宜しいでしょうか」
「わかった。ではそれを頼む」
「はい、それでは」
こうしてだった。王はそのデザートを楽しむのであった。
そうしてであった。彼は食事も楽しみながらそのうえで従姉のところに向かった。そうしてそのうえでだ。フランケンの鉱泉の町キッシンゲンに着いた。
そこは美しい公園や庭園があちこちにあり薔薇が咲き乱れていた。紅や白や黄色の花々を見ながらだ。王は満足した顔でこう言った。
「やはりいいものだな」
「薔薇がですね」
「私は薔薇が好きだ」
こうだ。また侍従達に話すのだった。
「見ているだけで幸せになる」
「そしてですね」
「この花も好きだ」
今度は青い花も見ていた。それは。ジャスミンであった。他の花もあったのだ。
「青い花もな」
「陛下は青がお好きですね」
「いい色だ」
目を細めさせての言葉だった。その整った青い目のだ。
「青い花は種類は少ないがな」
「そうですね。チコリやヤグルマギクがありますが」
「スミレや菖蒲はあっても」
「全体的に少ないですね」
「どうしても」
「だからこそかも知れない。私は青い花が好きだ」
こう言うのであった。その青いジャスミンを見ながら。
「願わくばだ」
「願わくば」
「一体」
「私は最後はこの花達に見送られたい」
こうだ。ジャスミンを見ながら話す。
「そう思う」
「陛下、そうしたお言葉は」
「どうかと思いますが」
「そうだな。確かにな」
王も侍従達のその言葉に頷く。いわれてみればなのだった。
そうしてだ。彼はこう言い換えるのだった。
「この花達に囲まれて生きていたい」
「それは何時でもできますので」
「御安心下さい」
「そうだな。薔薇だけではなく青もだ」
薔薇も出す。しかし青もなのだった。
「私は共に愛する」
「青い薔薇というのはありませんし」
「それは」
「やがてできるかも知れない」
王の言葉はここでは希望を見ているものだった。
「やがてな」
「やがてできますか」
「そうした青い花も」
「そうだというのですね」
「そうだ。世界は常に前に進んでいる」
そのことが無条件に信じられていた時代でもあったのだ。だから王はこうして話すのだった。話すことができるのであった。
その希望を見る目でだ。王はさらに話す。
「だからこそ。やがては」
「青い薔薇もまた」
「出て来ますね」
「私は見ないだろうが」
それは諦めていた。無理だとだ。
「だが。やがては生まれるだろう」
「左様ですか」
「青い薔薇もまた」
「青は人を清らかにさせる」
ここでも青を見てだ。いとしげに話した。
その青いジャスミンの園を歩きながらだ。彼はそこに向かった。
そこにいたのは。茶色がかり波になっている極めて長い、しかも豊かな髪を持ち琥珀を思わせる神秘的な輝きを放つ目を持っている。細面であり鼻が高い。目鼻はどれもまるで彫刻の如く整い何かの芸術品を思わせる。長身でありすらりとしている。その長身を白いドレスで包んだ彼女がだ。そこにいた。
白い宮殿を思わせる建物の中でだ。二人は会った。王はにこやかに彼女に言うのであった。
「お久し振りです」
「はい」
美女もだ。にこやかに彼に応えた。
「貴方もお元気そうですね」
「お陰様で。今日はよくこちらに来られました」
「私が一人でいないのは珍しいでしょう」
美女はここではその言葉に少し自嘲を込めた。
「そう言う者が多いですね」
「御気になさらずに」
王はその彼女にこう返した。
「下らぬ言葉なぞ。耳に入れることもありません」
「オーストリア皇后として相応しくないというのですね」
「そうは言いません」
王はそれは否定した。二人が今いるその場所は白い円柱に壁に。そして薔薇とジャスミンに囲まれて緑の庭がある。白をベースにして様々な色で飾られた。そんな場所であった。
そこにおいてだ。王はそのオーストリア皇后、自身にとって七歳年上であり従姉エリザベートに対して。親しく声をかけるのであった。
「ただ。貴女の御心を痛ませるだけですので」
「だからですね」
「そうです」
「有り難うございます」
皇后は王に対して静かな礼を述べた。
「ではそのお言葉。有り難く受けさせて頂きます」
「私としてもそうして頂けると何よりです」
「左様ですか」
「はい。それでなのですが」
王からの言葉であった。
「皇帝陛下はどちらにおられるでしょうか」
「こちらに」
いるというのだった。
「御会いになられますね」
「できれば」
そうしたいと。王も述べた。
「御願いします」
「わかりました。それでは」
皇后が案内をする。こうして二人はその宮殿、神殿を思わせるその中を進んでいく。その中においてであった。
皇后は。王を案内しながらこんなことを言ってきたのであった。
「音楽家と会われたそうですね」
「ワーグナーですね」
「はい、彼をミュンヘンに招いたとか」
「はい」
その通りだと。王は答えた。白いその廊下を進みながら。
「会わずにはいられません」
「会わずに、ですか」
「今はこうしてここにいますが」
それでもだとだ。言葉に出ていた。
「ですが。彼の芸術のその全てがです」
「ワーグナーといえば」
ここでだ。皇后もまたそのワーグナーについて話すのだった。
「ウィーンではちょっとした有名人でした」
「トリスタンのリハーサルですね」
「七十七回もそれを行い」
リハーサルの数としては尋常なものではない。ワーグナーは完ぺき主義者であった。その為リハーサルも徹底して行う男なのである。
そのことをだ。皇后も知っていてそれで今話すのであった。
「しかしそれでもです」
「上演されなかったのですね」
「はい、そうです」
その通りだというのである。
「ウィーンの歌劇場においては」
「オーケストラも困難ですが」
まずそれもなのだった。
「数が非常に多いのですね」
「ワーグナーのオーケストラはどれもそうと聞いていますが」
「そうです、壮大なのです」
そうであるとだ。王は七歳年上の従姉に半ば恍惚として語る。
「その壮大さもまたワーグナーなのです」
「それもですね」
「そうです。それに」
「それに」
「歌手もです」
それについても話すのだった。
「それもなのです」
「主役の二人ですか」
「楽譜を見ました」
王は楽譜を理解できる。その音楽に対する造詣は尋常なものではなかった。王の教養はそうしたところにまで及んでいたのである。
「それを見る限りはです」
「困難な役ですか」
「トリスタンもイゾルデも」
そのどちらの役もだとだ。王は話すのだった。
「どちらも人が歌えるかどうか」
「そこまで困難な役だと」
「そうです」
王はまた語る。
「それでウィーンの上演は果たせなかったのですね」
「歌手が自信をなくしてしまったと聞いています」
皇后がここでまた語る。
「そのトリスタンを歌う歌手が」
「その様ですね。そしてその結果」
ウィーンでは上演できなかった。そういうことであった。
それを話しながらだ。王は皇后にこんなことを話した。
「それで私はです」
「貴方は?」
「彼の思うままにです」
全てワーグナーに委ねると。こう言うのだった。
「上演させることにしました」
「そのトリスタンとイゾルデを」
「予算を保障し」
何につけても予算であった。それがなければ何も動かない。そういうことだった。
「そして人を選ぶのもです」
「彼に任せたのですか」
「まず指揮者が来ました」
最初はそれであった。
「彼の愛弟子であるハンス=フォン=ビューローです」
「プロイセン出身のその指揮者ですね」
「彼には奇妙な縁がありまして」
王はビューローについてもだ。話を続けるのであった。
「実は彼の妻は」
「フラウ=コジマですね」
「そうです。御存知でしたか」
「フランツ=リストの娘でしたね」
この者の名前も出て来た。彼こそはだ。
「あのワーグナーの最大の理解者とも呼ばれている」
「はい、彼にとってはもう一人の自分です」
そこまでの存在だと。皇后に対して話す。
「そうローエングリンの総譜にも書いています」
「彼を何かと助けたとか」
「そのリストの娘なのです」
「それもまた縁ですね」
「顔立ちは彼にそっくりです」
コジマのその顔がだというのである。
「本当に何もかもがです」
「その娘が弟子の妻である」
「まことに奇妙な縁です」
「縁はあらゆる人を招き寄せますね」
「そうですね。その縁によって私と彼は会えましたし」
それは王自身もだというのだった。
「そして歌手も呼ばれています」
「歌手もまた」
「はい、そうです」
今度はだ。歌手のことであった。それについても話されるのだった。
「歌手もまた彼が選び招き寄せたのです」
「誰でしょうか」
「カルロスフェルト夫妻です」
王が名前を出したのはだ。夫婦であった。
「その二人が主役の二人を演じることになります」
「カルロスフェルト夫妻といいますと」
「御存知でしょうか。ワーグナーも認めるこのドイツ屈指の歌手の夫婦でして」
「そこまでの人物なのですか」
「はい、その二人が主役の二人を務めます」
こう皇后に話していく。
「そして演出はです」
「誰が務めるのですか?」
「ワーグナー自身が」
他ならぬだ。彼自身がだというのである。
「彼自ら申し出ました。そして私はです」
「それを認めたのですね」
「彼の芸術は彼が最もよく理解しています」
だからだというのである。
「ですから」
「ワーグナーに入れ込んでいますね」
「入れ込んでいますか」
「貴方らしいです」
皇后はそれは認めた。だが、だ。ふとそのあまりにも美麗な、絵画を思わせる目に憂いを含ませてだ。王に対してこう話したのであった。
「ですがその貴方らしさが」
「私らしさが」
「よくない結果にならなければいいのですが」
こう言うのであった。
「それを思います」
「何故かよく言われます」
それを否定しない、できない王だった。それで今こう言うのだった。
「誰からも」
「思うことは同じなのですね」
そう聞いてだ。皇后もその整った目に悩ましさを含ませて述べた。
「誰もが貴方を」
「私を」
「心から心配しているからこそ」
だからだというのだった。
「それでなのです」
「心からですか」
「はい、そうです」
まさにその通りだった。
「貴女は人を惹き付けずにはいられない方です」
「私は。その様な」
「いえ、それはその通りです」
皇后だけではないというのだ。確かに王は魅力に溢れている。その容姿だけでなく気品に人柄に。そうしたものによってである。
それを今その目で観ているからこそ。皇后は王に対して語るのだった。
「貴女は誰もに見られる方なのです」
「誰もに」
「そして誰もに愛される方なのです」
「見られ愛される」
「そうした方です。だからこそ」
「気遣ってもらえるのですね」
「それはとても幸せなこと」
皇后は述べた。
「忌み嫌われるよりも」
「それはですか」
「はい、そうです。ですが」
「ですが、ですね」
「貴方のその貴方らしさが」
話が戻った。そちらにだ。
「純粋さと無垢さが。貴方であるのですが」
「それによってですか」
「貴方がその気遣いと目に耐えられれば」
皇后の目には今度は悲しさが宿った。
「私は。できませんでした」
「だからこそ旅を」
「はい。宮廷のこともありますが」
言外にあった。彼女はどうしてもなのだった。ウィーンの宮廷に馴染めないでいた。表向きはそれが彼女の旅の理由だとされていた。
しかしだ。ここで彼女はだ。こう話すのだった。
「ですが私は」
「それ以上にですか」
「貴方には言えます。私は人の視線と心がです」
皇后ならばば。そこから逃れられない。人の視線も心もいやおうなしに集まる。それが皇后、このエリザベートの悩みなのだった。
「どうしても。耐えられなく」
「私もまたそうなると」
「ならなければいいのですが。今の貴方には」
従弟を見続けている。そのうえでの言葉だった。
「あの芸術家が常に傍にいることが」
「今の私の全てです」
「それが最後まで適うことを願います」
彼の為にであった。その彼のだ。
「ですから貴方もです」
「彼を決して手放してはならないのですね」
「貴方の為に」
「私の為に」
「そうです。貴方の為に」
これが皇后の彼への言葉だった。そうした話をしてだ。二人は奥の部屋、別荘の中でも一際見事な部屋に来た。そこに彼がいた。
白い勲章が飾られた白い軍服である。白い軍服はまさにオーストリアの伝統のそれである。
鼻が高く面長であり額が広くなってきている。茶色の髪が目立つ。
目は生真面目そうな光を放った何処か数字を思わせる整いのものである。背は高く姿勢は立派だ。その彼がそこにいたのである。
王はだ。その人物の前に来るとだ。まずはその左膝を降りだ。一礼したのであった。
「遅れて申し訳ありません」
「いや、遅れてはいない」
彼はだ。やはり生真面目な響きの声でこう王に告げたのだった。
「今が丁度いい時間だ」
「だといいうのですが」
「それでバイエルン王よ」
「はい、陛下」
この人物こそがであった。エリザベートの夫、即ちオーストリア皇帝であるフランツ=ヨーゼフであった。長い歴史を持つこの帝国、そしてハプスブルク家の主である。その彼が今ここに来ているのだ。
「まずは接吻を」
「有り難き幸せ」
皇帝は右手を差し出した。王はその右手に唇を寄せ接吻をする。それからであった。
皇帝に立ち上がるように言われてだ。立ち上がったうえで話に入るのであった。
「ここにはロシア皇帝も来られますね」
「その通りだ」
皇帝が王の言葉に答えた。
「そうして三者での会談になるが」
「そうですね。ただ、今はです」
「楽しむべきか」
「ここはそうした場所です」
王は微笑みそのうえで皇帝にこう述べた。
「ですから湯治に花をです」
「そうしたものを楽しめばいいのだな」
「その様にしてお楽しみ下さい」
これが王の皇帝への勧めであった。
「是非共」
「わかった。ではそうさせてもらおう」
「たまには仕事のことを忘れられて」
王は皇帝にこんなことも告げた。
「そうされるといいでしょう」
「そうしたいのはやまやまだが」
しかしだった。皇帝はここでは苦笑いになりだ。こう王に返すのだった。
「そうもいかない」
「いきませんか」
「そうだ、それはできないのだ」
王への言葉はこうしたものだった。
「どうしても」
「ではここでもですか」
「そうだ。仕事はしている」
この湯治の場においてもだ。そうだというのである。
それでだ。彼はこう話すのであった。
「それが終わることはない」
「お話は聞いています」
王はここで話を少し変えてきた。皇帝のその整った、だが何処か頑ななその顔を見ながら話すのであった。
「陛下は毎日朝早くから夜遅くまで」
「当然のことだ」
皇帝の返答はここでは素っ気ないものだった。
「皇帝ならばな」
「皇帝ならばですか」
「時間は待ってはくれない」
皇帝の考えがだ。これ以上はないまでに出た言葉だった。
「だからこそだ」
「そうですか」
「バイエルン王もそう思われているのではないのか」
皇帝はここで王に対してその言葉を返した。
「それは違うのか」
「そう思ってはいます」
それは王も否定しなかった。できなかったと言った方がいいだろうか。
「ですが」
「しかしか」
「私は。時以上に大事なものがあると思っています」
青い目に熱いものが宿った。そのうえでの言葉だった。
「それが常に心にあります」
「そうなのか」
「はい、そしてそれは」
それが何かもだ。王は皇帝に対して話すのだった。
そしてである。王は言葉を続けた。
「美ですが」
「美か」
「芸術です。それが常に心にあります」
これが王の最も尊ぶものであった。
「今もです」
「話は聞いているが」
皇帝は王のその言葉を受けてだ。それでこう述べたのであった。
「バイエルン王のその考えは素晴しい」
「認めて下さいますか」
「そうだ。だが」
「だが?」
「どうもバイエルン王はそのことに入れ込み過ぎているのではないのか」
皇帝もだった。こう指摘するのだった。
「あまりそれに入れ込み過ぎてもだ」
「左様ですか」
「王なのだからな。確かに芸術を護るのはいい」
それはいいというのである。
「だがそれでもだ」
「それでもですか」
「入れ込み過ぎるのはよくない」
断言だった。一国の主らしくだ。
「それでバイエルン王は今は」
「今は」
「あの音楽家に入れ込んでいるようだが」
「ワーグナーですか」
「ウィーンで。上演しきれなかった」
トリスタンとイゾルデのことをだ。ここでも話すのだった。
「あまりにも難解な作品故にな」
「ですが私はその作品をです」
「ミュンヘンで上演するつもりか」
「はい、既にそれは進めています」
王の目がまた熱いものになった。熱いものをそこに宿しながらだ。そうして皇帝に対して話す。皇帝はその目を見てであった。
危ういものを感じた。だが今はそれを言わずにだった。王の話を聞くのだった。王の言葉はさらに続いた。皇帝の心に内心気付きながらも。
「指揮者も歌手も集めそうして」
「そのうえでか」
「資金もあります」
このことも話す王だった。
「彼は必ず最高の舞台を実現するでしょう」
「そうなるのだな」
「はい、必ず」
「それは期待する」
王にこう告げてだ。皇帝はここで話を別にさせてきた。その話はだ。
「そして他のことも期待する」
「といいますと」
「戦いは避けられない」
今度は皇帝の目が語る。だがその目は熱いものではない。冷静でかつ沈着なものである。王が見せる熱さとは対局のものだ。
「最早な」
「ではプロイセンと」
「バイエルン王にはだ」
どうだというのである。
「軍を指揮してもらいたい」
「私がですか」
これを聞いてだ。王の言葉に動揺が走った。
そしてそのうえでだ。彼はそのまま話すのであった。
「私が軍の指揮を」
「そうだ。是非な」
「申し訳ありませんが」
王はだ。明らかに否定する声でこう返したのだった。
「私は軍は」
「率いられないか」
「すいません」
こう皇帝に答えるのだった。
「それだけはです」
「そうか。駄目か」
「ただ。このことは約束します」
王はこう皇帝に話した。
「バイエルンはオーストリアにつきます」
「それはだな」
「はい、必ず」
皇帝に話す続ける。
「約束しますので」
「ならいい」
皇帝もそれを聞いてだ。納得した顔で頷く。
そうしてだ。彼に対してあらためてこう話すのだった。
「バイエルンがついてくれることは大きい」
「そうですか」
「これでプロイセンに対抗できる」
皇帝の声は確かなものだった。そうしてであった。
そこにだ。あるものも見ているのだった。
「オーストリアが勝てばだ」
「どうされますか、その時は」
「バイエルンに対して多くのものを約束しよう」
これが皇帝が今見ているものだった。
「オーストリアの盟友としてな」
「盟友ですか」
「そうだ、我が国のだ」
まさにそうだというのである。
「それを約束しよう」
「有り難いことです。それでは」
「頼んだぞ」
明らかにだ。願う言葉であった。
「戦いになればな」
「はい、それでは」
こうした話をした。しかしであった。
王にとっては戦争のことは面白くなかった。それで皇帝と別れるとだ。浮かない顔でいてだ。自分に用意された部屋で音楽を聴くのだった。その曲は。
「今日はモーツァルトがいい」
「それですか」
「ワーグナーでなくですか」
「今はそれを聴きたい」
こう周りに話すのであった。
「だからだ。頼む」
「はい、それでは」
「今から」
すぐにピアノが奏でられる。王はソファーに座りその曲を聴く。モーツァルトの軽快な、天使の調べの如き曲を聴きながらだ。彼は言うのであった。
「オーストリアの音楽はいい」
「ウィーンは音楽の都です」
「そしてこのモーツァルトもです」
「その音楽があればだ」
王はだ。ここでこうも言うのであった。
「戦争なぞしたくもなくなるが」
「そう思われますか」
「陛下は」
「戦争が何を生む」
王は周りの者にこう問うた。
「一体だ。何を生む」
「勝利を」
「そして栄光を」
「どちらも戦争でなくとも手に入れられる」
しかしなのだった。王は挙げられたどちらについてもこう言い返したのだった。
「外交。政治でだ」
「それができると」
「そう仰るのですね」
「そうだ。戦争は血生臭い」
王は憂いに満ちた顔で述べた。
「私は血は好まない」
「だからですか」
「戦争は」
「赤十字というものができたそうだが」
「確かスイス人が作ったのですね」
「名前は確か」
周りの者達は記憶を辿りながらだ。この名前を話した。
「アンリー=デュナン」
「そういいましたが」
「戦場であろうとも」
王はその名前を聞いたうえでさらに言っていく。
「傷ついた者を助けるそうだな。敵味方の関係なく」
「酔狂といいますか」
「それとも妄想とも言いますか」
「荒唐無稽な話です」
周りの者達はその考えに対してこう述べていく。有り得ない話だというのだ。
「その様なことをして何になるでしょうか」
「戦場で人が死ぬのは当然のこと」
「それなのにです」
「いや、それは違う」
王はだ。彼等のそうした一連の言葉は否定するのだった。
そのうえでだ。彼はこう話した。
「例え戦場であろうともだ」
「戦場であろうとも」
「どうだというのでしょうか」
「死ぬ者は最低限でいい」
こうだった。己の考えを述べるのだった。
「どの軍にいる者であろうともだ」
「それが正しいというのですか」
「陛下は」
「少なくともだ」
真剣そのものの顔でだ。彼は話すのだった。
「私はそう思う」
「そうなのですか。誰であろうとも」
「戦場で傷ついた者を救う」
「その考えが」
「理想に過ぎないかも知れない」
王は一旦言葉を置いた。
「だがそれでもだ」
「それを現実にできる」
「赤十字のその考えを」
「そうだと」
「理想だと思い、夢だと思い」
王はその言葉を続けていく。やはり遠くを見る目でだ。語るのであった。
「そのままで終わっては何にもならないのだ」
「ではやはり」
「赤十字もまた」
「現実のものにできると」
「そうするべきだ。だからだ」
王はだ。ここでまた述べた。己のその考えを。
「私はその考えに賛同しよう」
「赤十字に」
「そう仰るのですね」
「その通りだ。公に言おう」
王が公に言う、このことは非常に大きかった。国の主が言うとなると私のことでも世に広まる。それが公になればだ。余計にそうなることだった。
それを踏まえてだ。彼は今こう言ってみせたのである。
そこまで言ったうえでだ。王はまた話した。
「ミュンヘンに戻り次第すぐにな」
「そうされますか」
「赤十字に対して」
「誰であろうとも」
王の言葉は。ワーグナーを語る時の如く熱くなっていた。そこにもまた彼の信念があるのだった。
「救われるのならば救われるべきなのだ」
「誰であろうとも」
「例え敵であろうとも」
「そうだ。戦争は忌むべきものだ」
何処までもだった。王は戦いを嫌った。
「そこにはあらゆる醜いものがある」
「そして多くの者が死ぬ」
「現実でありますね」
「しかしその醜さが少しでも減るのならば」
それならばであった。
「それに越したことはない」
「わかりました。それでは」
「陛下がそこまで仰るのなら」
周りの者も王の決意を知ってだ。遂に頷くのだった。そのうえでだ。彼等はまた王に話すのだった。
「赤十字については」
「支持を」
「私から言おう。いいな」
「はい」
「ではその様に」
「夢は現実のものになる」
王は言い切った。
「必ずだ」
「夢がですか」
「現実に」
「そうした意味でもだ」
熱い言葉もだ。そのままだった。
「彼は助けたい」
「では赤十字に対してはすぐに」
「支持をですね」
「その考えが広まることを願う」
実際にそうだとも話す王だった。
「戦いで傷つく者は少ないに限る」
モーツァルトを聴きながらだ。王は話す。
「戦いは続くだろうがな」
「続くとは」
「それはどういうことでしょうか」
「オーストリアとプロイセンの戦いは避けられない」
王はそれはもうわかっていた。しかし見ているものはそれだけではないのだ。それからのこともだ。みていたのである。
「それからだ」
「二国の戦争だけではないのですか」
「まだありますか」
「そうだ。次はだ」
両国の戦争の後に起こる戦争は何か。王はまた話した。
「プロイセンと」
「またあの国ですか」
「プロイセンですか」
「プロイセンの目的は小ドイツ主義によるドイツ帝国の建国だ」
まさにそれだというのである。
「その為にまずオーストリアを排除し」
「戦争に勝ちですか」
「そのうえで、ですか」
「次の相手と戦う」
王は今は遠くを見ていた。そのうえでの言葉であった。
「その次の相手はだ」
「どの国ですか、それは」
「考えられるのは」
周りの者達も欧州の情勢は把握している。それならばだ。プロイセンと戦う可能性のある国が何処か。考えることができたのだ。
そしてだ。彼等はその国を挙げていくのだった。
「ロシアでしょうか」
「オランダ」
「イギリス」
そうした国が挙げられていく。
「イギリスはさし当たっては動きはありませんね」
「オランダはプロイセンには対しない」
それだけの力がないということでもあった。イギリスについて植民地統治で多忙であった。この時代のイギリスは欧州で、世界で随一の国であり多くの植民地を持っていたのだ。
「ではロシアか」
「若しくは」
「ロシアはない」
王が考える彼等にここで言ってみせた。
「プロイセンはあの国とは絶対に揉めようとはしない」
「あまりにも強いからですか」
「あの国は」
「あの国は熊だ」
この時代でもだ。ロシアは熊に例えられていた。
「まともに戦って勝てる相手ではない」
「確かに。あまりにも強大です」
「あのナポレオンですら勝てませんでした」
「ではプロイセンといえど」
「ビスマルク卿は賢明な人物だ」
このことは間違いなかった。誰が見てもだ。
「その彼が強大なロシアと対立することはだ」
「何としても避ける」
「そういうことですか」
「そうだ、避ける」
断じてだというのである。
「だからそれはない」
「左様ですか」
「それでは」
「そうだ。それはない」
また答える王だった。
「ロシアとの戦いは絶対にだ」
「避けますか」
「決してですね」
「それだけは」
「では残る国は」
「あの国ですか」
ロシアも否定されてだ。誰もが残る国が何処なのか理解した。そしてだった。その国が何処かをだ。彼等はその言葉に出すのだった。
「フランスですか」
「あの国ですか」
「あの国とですか」
「フランスは神聖ローマ帝国の頃から」
その頃からだというのである。
「ドイツと対立してきていた」
「そうですね。何百年もの対立です」
「では今もですか」
「それは」
「フランスは常にイギリスと対立している」
それは絶対なのだった。
「そしてドイツがそこに加わればだ」
「フランスにとっては実に厄介なことですね」
「ではその目はですか」
「何があろうとも」
「絶対に」
「そうだ。だからこそだ」
それでだというのだ。王はプロイセンとフランスの戦いもだ。予見していたのだった。
「両国との戦いも避けられない」
「やがてですか」
「そうなのですね」
「そういうことだ」
王の言葉は先の先を見ていた。まさにである。
「フランスはドイツ帝国の成立は何があろうとも妨害してくるだろう」
「そしてプロイセンはそれに対してですか」
「立ち向かうと」
「いや、何かしてくる前にだ」
その前にだというのである。
「プロイセンが仕掛けるかもな」
「あちらからですか」
「そうしてきますか」
「ビスマルク卿はそういう方だ」
一度しか会っていない。だが王はビスマルクをよくわかっていた。彼がどうした人物なのか。実によくわかっていたのである。
「仕掛けられる前にだ」
「あの方から仕掛けられますか」
「そういう方ですね」
「非常に賢明な方だがそれと共にだ」
王はビスマルクについてだ。この話をしたのであった。
「学生時代のことだ」
「その時代ですか」
「何かあったのですか」
「数多くの決闘に勝ってきた」
そうしたことがあったのである。争うことを嫌う王とはまさに正反対であった。
「その為に乱暴者とさえ呼ばれていた」
「そうした血気のうえにですか」
「あの賢明さなのですね」
「手強い方ですね」
「しかしだ。そこで終わる」
王はまた言った。
「フランスとの戦争でだ」
「そこで、ですか」
「戦争はなのですか」
「されなくなると」
「プロイセンもまた」
「何故あの方が戦争をするか」
王であるから本来は敬語を使わなくともよい。しかし彼に敬意を払ってだ。それであえて敬語を使っているのであった。なおビスマルクも王に対してそうしている。お互いそれを知らないがだ。
「それはドイツ帝国を創る為だ」
「その為の戦争だからこそ」
「それでなのですね」
「そうだ」
王はだ。ビスマルクの意図を完全に見抜いていた。全てをだ。
「あの方は決して好戦的ではないのだ」
「あくまでドイツ帝国の為ですか」
「その為だけに戦われる」
「そうだというのですか」
「ドイツはだ」
次はドイツそのものについての言葉であった。
「まず南にそのオーストリアがある」
「まずはそこですね」
「オーストリアが」
「オーストリアは広大だ」
ハンガリーにチェコ、それにバルカン半島にだ。オーストリアの影響は中欧全体に及んでいた。それがオーストリア=ハンガリー帝国だったのである。
「北にもデンマークやスウェーデンがある」
「侮れませんね、彼等も」
「決して」
北にもだ。相手がいるのがドイツなのである。そうしてであった。
「西にフランス、東にロシアだ」
「まさに四方を取り囲まれていますか」
「ドイツは」
「その中で戦争を続けるならば」
どうなるか。少し頭が回る者ならばすぐにわかることだった。ましてや王ともなればだ。手に取る様に容易にその結論を出してしまった。
「待っているのは破滅だけだ」
「あの方はそれがわかっているからこそ」
「それでなのですか」
「戦争を止めると」
「目的を達せればな」
そうだというのであった。
「しかし達するまではだ」
「戦争を続ける」
「決して止めることなくですか」
「鉄と血だ」
ビスマルクの代名詞だ。鉄血宰相である。
「それによってだ」
「軍隊と戦争」
「その二つですね」
「私もまた鉄と血は好きだ」
ここでだった。王は実に意外なことを言うのであった。周りから聞いていてである。
「だがその鉄と血はだ」
「軍隊と戦争ではないのですか」
「違いますか」
「技術だ」
まずはだ。それだというのだ。
「鉄はそれだ」
「技術ですか」
「それだと仰いますか」
「技術は夢を適えてくれるものだ」
その技によってだ。王はそのことを期待していたのだ。
「まさにな。そして血はだ」
「それは何でしょうか、陛下にとっては」
「血とは一体」
「何なのでしょうか」
「心だ」
今度はだ。それだというのであった。
「私にとっての血は心だ」
「心ですか」
「それなのですか」
「そうだ、心だ」
そしてその心とは何かもだ。彼は周りに語った。
「芸術だ。それが心だ」
「その技術と心が」
「陛下にとっての鉄と血」
「そうなのですね」
「そうなる。私にとっては軍隊はまだいい」
それはだというのだ。
「騎士ならばいい」
「しかし戦争はですか」
「どうしてもなのですか」
「どの様な場合でも。好きにはなれない」
どうしてもであった。王は戦争の中で生じる、見えてくる人間の醜さを知っていた。だからこそそれを余計にだ。忌むべきものとしているのであった。
「ビスマルク卿のそこはだ。どうしてもだ」
「ですが陛下、最早です」
「両国の関係はです」
「わかっている。避けられそうもない」
どちらもそのつもりはない。さすればだった。
そして王はだ。あることの決断も迫られていたのであった。それは。
「我がバイエルンもだ」
「はい、どうするべきか」
「それもまた問題です」
「戦いは避けられない」
この前提があった。
「そしてバイエルンはだ」
「オーストリアにつかれますね」
「やはり」
「そうするしかない」
これもまただ。王には嫌になる程わかっていることだった。
「ここはな」
「しかしプロイセンはですか」
「やはり」
「勝ちますか」
「それは間違いないな」
王はそこまで見抜いていたのであった。
「しかしバイエルンはだ」
「それでもオーストリアにですか」
「つかれますか」
「今の時点では好戦的なプロイセンよりもだ」
これからはわからないとだ。言外で言いながらだった。
「そうではないオーストリアの方がいい。それに」
「それに?」
「それにといいますと」
「カトリックだ」
次に言われたのは宗教のことであった。
「オーストリアは同じカトリックだからな」
「余計にですね」
「そうだというのですね」
「そういうことだ。それでいいな」
「はい、それでは」
「戦争の時はその様に」
おおよその話が決まってきていた。戦争はまだはじまってもいない。しかし政治としてのそれはだ。もうはじまっているのだった。王が本心ではそのことをどう思っていようともだ。
王は今はモーツァルトを聴いていた。そのオーストリアの音楽を。プロイセンの音楽ではなくオーストリアのそれにだ。身を浸らせていたのだった。
第六話 完
2010・12・26