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底なし沼
底なし沼
久遠悠羽
ホラー怪談
2025年06月05日
公開日
4,488字
完結済
あるマンションに引っ越して来た家族に起こった事件。 子供達の言動は現実にこの話を教えてくれた人の子供本人達が言ったものです。

第1話 消える家族

 とある古いマンションに、若い家族が引っ越して来た。


 そこは築50年近くにもなる建物だったが、大規模改修を重ね、エレベーターの新設もされた地上10階建ての快適なマンションだった。


 若い夫婦は資金も少なかったので、妥協してこのマンションの9階にある910号室の3LDKの一室を買ったのだった。妥協と言っても、周りには幼稚園や小学校、病院や公園、スーパーなどが充実していて暮らすには何不自由なかった。


 しかし、その地で暮らし始めた主婦・秋元みのりには、一つの気掛かりが出来始めた。

 彼女達夫婦の間には4歳になる息子、颯太そうたがいたのだが、その子が引っ越して来てから奇妙な事を言う様になったのである。


「お母さん、壁から変な人が出て来るよ。お化けみたい…」


 彼はそんな事を言い出したのだ。言うだけではなく、本当に見えているのか怖がる顔をする。


 みのりは子供特有の作り話だろうと思って優しく返事をし、大丈夫、そんな物はいないよと宥めた。しかし彼は壁の一角を見つめ、更に言う。


「壁から、体に矢がいっぱい刺さったお侍さんが出て来る…」


 みのりは目を凝らして息子が指差す壁を見つめてみたが、もちろん何も居ないし、リフォーム後の美しい壁紙が貼られたただの壁にしか見えない。


 この子は一体どうしたんだろう。

 児童福祉センターなどで助言をしてもらった方が良いのだろうかとみのりは悩んだ。

 実際、数ヶ月もの予約待ちの末に診察をしてもらう事になったのだが、その頃には別の悩みも出ていた。


 このマンションの間取りの内、水回りはダイニングキッチンの隣の少しだけ段を付けた場所にあった。


 そこは二畳ほどの広さに洗面所と洗濯機を置く場所を兼ねた脱衣所、向かって右に半畳程の広さのトイレ、反対側に風呂場といった、水回りが1箇所に揃った作りだった。


 颯太は何故かいつもそこへ行く度に段の一歩手前から洗面所に飛び移っていた。トイレや手を洗う為に行く洗面所、まだみのりと一緒に入浴する風呂場に行く時もだ。


 ある日とうとうみのりが不思議に思って颯太に聞いた。

「颯ちゃん、どうしていつも洗面所の前からちょっと飛んで入るの?」

 すると彼はこう答えるのだった。 


「洗面所の前に底なし沼があるんだよ。踏むと落ちちゃう…」


 もちろんみのりには洗面所の前はダイニングキッチンの床しか見えない。颯太が言う場所を歩いても踏んでも何の変化もない。しかし彼は底なし沼があると言い張って譲らないのだった。


「少し発達に問題があるかも知れません。お母さん、大丈夫ですからね、ゆっくりと対応して行きましょう」

 やっと予約が取れた児童福祉センターの児童心理の医者はそう言って、颯太に優しく微笑み掛けた。


 やはり様々な幻覚は子供特有の空想の様だった。

 みのりは夫ともよく話し合い、時々医者の助言を受けながら颯太を育てた。


 夫婦と医者と連携を取って根気強く育児に励んだ結果、彼はそれから特に大きな問題もなく健やかに育った。小学校に上がる頃には妹も生まれたので、大層喜んで構う様になった。


 もう小さい頃の様に、壁から人が出て来るとか沼があると言った話はしなくなって行き、家族は平和に暮らしていた。


 やがて彼が小学6年生になった頃、みのりは3人目の子供を妊娠した。


 今までの育児を顧みて、長女である穂乃果ほのかも大きくなったなとしみじみと思った時、ふと昔の颯太を思い出した。


 彼女は懐かしそうにその頃の話を彼にしたのだった。 

「そう言えば颯太は昔、そこの壁から落武者が出て来るとか、洗面所の前が底なし沼で必ず飛び越えて入ったりとか、変わった事を言ったりしたりした時期があったよね」


 彼は少し考えて返して来た。

「ああ…あれね。その時僕がいろいろ想像していた事をお母さんに言っていたんだよ」

 そしてダイニングの洗面所の前の床をしばらく見つめていた。



 颯太がふといなくなったのは次の日の事だった。


 その日は休日で、彼はずっと家にいた筈だった。

 しかしみのりが下の子を連れて近所に買い物に行って帰って来てみるとどこにも居なかった。

 玄関には靴があり、自転車もそのまま自転車置き場にあった。出掛けた形跡はないのだ。


 それから家族は必死で颯太を探した。みのりは身重の身体を抱えながら警察に何度も出向き、居なくなった状況を話した。


 夫は有休を使えるだけ使って必死に心当たりを探した。

 颯太は思春期でもある。もしかしたら家族に言えない悩みや不満を抱えていてこっそり家出をしてしまったのかも知れない。それとも誰にも分からない様に悪い人に連れ去られたのかも知れない…。地域の情報網も頼り、個人でチラシも作り、それこそ死に物狂いで探したが、行方は全く分からなかった。


 半年が過ぎてしまった。

 彼ら家族にはまだ小学生の娘もおり、みのりも無事に女の子を出産したので生活に追われる毎日だった。

 けれども一日たりとて颯太の事を忘れた日はない。一刻も早く見つけ出したかったが、見つからない歯痒い日々が続いている。


 その内に4年が経ってしまった。

 もう末っ子の絢音あやねも4歳となった。彼女は目がパッチリとした、可愛い盛りの女の子に育っていた。

 みのりと夫は2人の娘に恵まれてとても幸せではあった。けれども居なくなってしまった颯太の事は忘れてはいない。


 事ある毎に2人は娘達に兄の話をし、今でも変わらず愛している事を伝えていた。


 兄の姿を写真でしか知らない絢音は会いたがっていた。幼い彼女はいつか兄に会える事を楽しみにしていたのである。


 そんなある日、夕飯の用意をしているみのりの側で遊んでいた絢音がふと気が付いた様に言った。


「お母さん、あそこに底なし沼があるよ」

 そう言って彼女が指差した場所は、颯太が言ったダイニングの床と同じ場所だった。


 みのりはゾッとした。

 末っ子は颯太を知らないし、兄がかつてそこに同じ様に底なし沼があると言っていた事は一言も話していない…なのに何故彼女は同じ事を言うのか…


 絢音はそんなみのりの気持ちも知らず、無邪気にその底なし沼があると言う床まで行き、いかにも縁にしゃがみ込んでいるかの様に床にしゃがんで覗き込む仕草をして言った。


「あ、お兄ちゃんだ。お兄ちゃーん」

「やめて!」

 みのりは思わず叫んだ。


 絢音が驚いて泣きそうな顔をして彼女を見た。

「…あ…ご、ごめんね。ビックリしたね。でも、そこはただの床だからね」

 みのりは咄嗟に謝ったが、背筋が凍る思いがした。


 次の日、絢音が居なくなった。


 颯太の時と同じだった。

 彼女は家に居た筈だった。今度はみのりもいたのだ。しかしちょっと洗濯物を干している間に居なくなってしまった。


 もちろん、靴も小さな自転車もそのままで、絢音が勝手に何処かに出掛けてしまった形跡はない。家に誰かが訪問したり入ったりした訳でもなく、玄関の鍵はしっかりと閉まっていた。みのりにも全く身に覚えがない。


 家族はまた必死で絢音を探した。

 けれどもやはり、探しても探しても手掛かり一つない。


 みのりは半狂乱の様になった。

 何故自分の子供が2人も居なくなってしまったのか。

 何故2人とも底なし沼があると言ったのか…長女はそんな事を言ったことがない。


 颯太が昔言った話を自分がしてしまったのが悪いのか。

 みのりは1人残った穂乃果を抱きしめて泣いた。


 絢音が居なくなって、手掛かりも全くない状態から3ヶ月が過ぎた。


 もう半ば諦め掛けたみのりは、ふらりと地域の歴史図書館に寄った。

 颯太が小さかった頃の事を思い出してみると、幽霊の様なものの話もしていたからだ。


 もしかしたらこの地域の歴史的な背景から息子と娘の失踪の原因が掴めるかも知れない、みのりがそう考えたのはほんの思い付きだった。


 彼女は図書館で、ある古い文献を読むと家に帰った。そうして颯太と絢音がダイニングキッチンの床の底なし沼だと言っていた場所にペタンと座り込み、床を見つめた。


 その夜、みのりは穂乃果と夫に言った。

「私は呼ばれたかも知れない…」

「え?」

 2人は怪訝そうな顔をした。


 彼女が続ける。

「もしも私が居なくなったら、あなた達2人はすぐにこの家を出て、一時的にでもどちらかの実家の世話になって欲しい」

「何を言い出すんだみのり」

「お母さんどうしたの?」

「…お願い。あなた達にはまだご両親やうちの親達もいる…でもあの子達には私が着いていてやらないと…」


「一体どう言う事なんだ?ちゃんと説明してくれ、みのり…」

 夫が言う側で、長女は不安そうな顔をしているばかりだった。

 みのりの説明は曖昧で要点を得なかったので、夫は疲れ果てて居るのだろうと思い、職場を休んで彼女を病院に連れて行こうと考えた。


 けれども、次の日にみのりは居なくなっていた。


 息子と娘同様に、全く何の形跡もなく忽然と消えてしまった。

 長女と夫は愕然とした。

 近所ではみのりは男を作って家を出たのではないかなどと言う心無い噂も上がった。


 しかし居なくなる直前の不審な言動により、それはないと2人は思っていた。

 1週間ほど経った頃、彼らはみのりの家庭生活に関する書類の中にメモのような物を見つけた。


 そこには歴史図書館で調べていた文献の事が走り書きしてあった。


 このマンションが建っていた辺りが戦国時代に合戦場であった事。

 その場で数百人の兵士が亡くなっていた事。

 この地に湿地帯があり、灌漑用として沼が作ってあった事。その沼は今は埋め立てられている事。…その様な内容のメモだった。


 長女と夫は不吉な予感がして、みのりの願いに従いそこから引っ越して行った。


 それからその号室に入居する人はなく、20年の時が経った。


 マンションは老朽化により取り壊される事になった。

 オーナーは一度更地に戻し、地盤の調査をし直して新しい土地として売るつもりだった。


 業者の手により大規模な基盤の掘り返し作業が行われた。


 すると、土の中からどうにも硬くて簡単には砕けない3メートル程の立方体の土の塊が出て来た。まるで遺跡から何かが発掘された時のように…


 X線で中を確認すると、なんと3人の白骨遺体が入っていたではないか。


 1人は小学生ぐらい、もう1人は幼児、そして3人目は成人だった。

 彼らは地上から2メートル程の深さに、小学生は立って片手を上げた状態、幼児はその子の元に行くかの様に下向きに、成人は2人を抱き抱えようとするかの様な姿で埋まっていた。


 何とか遺体を掘り出して僅かに残った有機物のDNA検査をした結果、3人は親子と分かった。


 一体何故彼らは死に至り、何故当時地上に建物が建っていた状態で地中に埋まったのか。これは殺人遺棄事件なのか。

 この一件は警察関係者にも全く分からない不可解な事件であった為、世間には伏せられた。


 明らかになったのは、彼らが埋まっていた場所が数百年前に合戦場であり、湿地帯に数百人の兵士の血が流れ込んで出来上がった底なし沼があった事と、それが明治の頃に埋め立てられ、昭和の後半に至りマンションが建ったという事だった。


 当時の調査関係者の中では特に問題にもされなかった話なのだが、その遺体があった地点の真上に当たる場所は、号室が下2桁10号室のダイニングキッチン横の洗面所前であったという。


「お兄ちゃん、ほら、高い所にお母さんが見えるよ。おかあさーん」


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