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第41話

 嬉しそうに走り寄ってくる久々に見る顔は、大沢智成。まるで、主を見つけた犬のようである。


「大沢! 煩い」

「あ、すんません……」


 早速、佳恵に叱られ、シュンとうなだれたのは一瞬だけ。元の笑顔に戻ると、制止する間もなく私のバッグを抱え、隣に座り身体を寄せてくる。


「大沢さん、なんで関口さんの隣に座るの? こっち空いてるのに」

「大沢さん、どうしたの? 早くー」


 美香とエリカが甘い声で誘うが、大沢に動く気配は無い。


「関口さん、なんか、顔色悪いっすね。仕事、大変なんっすか?」

「へっ? あ、いえべつに」

「らしいよ? 関口さん、小林統括に虐められて大変なんだって」


 美香さん、私、虐められた覚えは無いんですが。


「そうそう。毎日残業でご飯もちゃんと食べさせてもらえないんだってさ」


 おいおい、エリカ。勝手に話を盛るな。


「え? そうなの?」


 大沢の表情が変わる。


「そうだよ。小林大魔王に毎日怒られてるんだって。大変だよねー」


 楓まで。この子たちの頭の中はいったいどうなっているんだ。


「ち、違いますって! 顔色が悪いとしたら、それはただの睡眠不足で……」

「睡眠不足? やっぱり毎日深夜残業させられてるんだ?」


 深夜残業については、否定しきれない。


「そりゃそうよ。アシスタントが先に帰るなんてできないもん」


 大沢の言葉になぜかエリカが答える。


「俺、小林統括に抗議してきます!」

「はい?」


 膝の上にあった手を、大沢にぎゅっと握られた。


「関口さん、大丈夫です。俺がなんとかします」

「大沢さん! 違いますって! 虐められてないしご飯はちゃんと食べてるし怒られてないし深夜残業も……」

「そんな嘘、言わなくていいっす」

「いや、だから、嘘なんかじゃなくて」

「俺を心配してくれてる?」

「…………」


 してるしてる。しているが、別の意味でだ。


「大丈夫。関口さんのためなら俺は……」


 話の発端である女子三人は真剣な顔で、大沢を見守っている。助けを求めるべく佳恵を見れば、椅子の背に肘をついて頭を覆い、肩を振るわせヒーヒーと笑っている。役立たず。


 大沢の決意は固い、らしい。が……なんでこうなるの。


「いや、大沢さん、落ち着きましょう。私は大丈夫ですから」

「大沢さん。なにもそこまでしなくても」

「うんうん。そんなことしたら、大沢さんだってきっとただじゃ済まないよ?」

「そうよ、もうこの話止めましょう。ねっ?」


 楓に突かれたエリカがハッと息を飲み、突如声が小さくなった。なんだろう。楓もぷるぷると小刻みに首を横に振っている。


「いや、でも、俺は我慢できない。小林統括にちゃんと言わなきゃ俺の関口さんが」

「誰がおまえのだって?」

「……!……」


 頭上から降ってきた絶対零度の声が周囲を凍り付かせた。


「おまえ、なに食ってるんだ?」


 背後から伸びてきた手が、弁当箱から唐揚げを搔っ攫う。行方を目で追えば、その先にあるのは大きく開けられた尊の口。私の唐揚げは、そのまま吸い込まれ、咀嚼され、飲み込まれた。


「ふふっ。やっぱりうまいな」

「……なんでいるの?」

「ああ、俺だけ抜けてきた。俺の弁当は?」

「へ? だって……お昼、会食じゃ……」

「あれ? 俺、弁当いらないって言ったっけ?」

「言った……」


 はずだ。確かに聞いたと思うが、そんなことよりも、なぜ。


「お義父さん、何時にどこ?」

「あ? え、っと、五時に駅で待ち合わせしてる」

「わかった。俺も時間空けられたから、一緒に迎えに行くわ」

「う、うん……」

「なあ、それ、もう食わないんだったら、残り俺にくれよ」

「えっ?」


 笑顔で指差す先にあるのは、食べかけの弁当。何を言われたのか理解するより早く、尊は弁当箱に手をかけ、蓋を閉め、ご丁寧に箸まで箸箱にしまった。


「じゃあ、あとでな」


 弁当箱を片手に踵を返す様子を呆然と眺めていると、尊が数歩先で足を止め振り返る。


「大沢!」

「はっ、はいっ!」


 同じくその動向を目で追っていた大沢が、一瞬ビクッと震え、大声で返事をした。


「おまえ、俺の奥さん口説くんじゃねえぞ」


 おもしろそうにニヤリと笑ったその笑みはまさに、真っ黒黒の悪魔の微笑み。

 やられた、お弁当、まだ食べるのに。と、我に返ったときには、尊の姿はすでに無く。


 静まりかえっていたミーティングルームが、ざわめきだした。


「笑った?」

「笑ったよね?」

「なにいまの?」

「弁当ってなんだよ?」

「オクサン?」

「いま、奥さんって言ったか?」

「うん。奥さんって言った」

「おれも聞いた」

「わたしも!」

「うそ!」

「ありえねえ!」

「小林統括って結婚してたの?」

「知らないよ、そんな話」

「誰が、奥さんだって?」


 誰かが発したその声をきっかけに、周囲の視線がすべて、私に向いた。


「関口さん?」

「関口さん? どういうこと?」

「なんで? どうなってるの?」

「ねえ、関口さんってば!」


 美香、エリカ、楓が矢継ぎ早に口を開き、大沢は固まったまま微動だにせず。役立たず佳恵は、ヒクヒクと痙攣し瀕死状態。


 なんてことをしてくれるんだ。これを収拾するなんて、絶対無理。


 あのやろう、覚えてろ……。





 了



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