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第5話...好きや。〈了〉


 好きや。

 ずっと好きやった。


 目が覚めた。ケイはいなかった。がらんどうの部屋に、冷蔵庫の音が響く。

 俺は飛び起きて、外へ飛び出した。


「ケイ!」


 叫びながら辺りを走り回る。小さい川の橋を、柳のような後ろ姿が見える。


「ケイ!」


 俺は呼んだ。再会して一番、必死に呼んだ。ケイはぼんやりと振り返り、俺に気づくと笑った。


「来たらあかん」


 首を振って、俺を制した。俺はそれだけで、くぎ付けにされたみたいに、動けなくなる。


「ほうちゃんは、こっちきたらあかん」

「何いうて」

「こっちは地獄や。せやさけ、ほうちゃんは、絶対来たらあかんねん」


 ケイは笑う。

 こんなときに、一番きれいな笑い方だった。まるで、この世のものじゃないみたいに。


「なにいうてんねや」


 俺の声は震えた。最悪にみっともない。けれども、構ってはいられなかった。今を逃したら、もう次はない。


「なら、お前がこっちにきい! 俺んとここいや!」


 俺はケイに手を伸ばした。足は縫いつけられたように、動かない。彼岸と此岸のように、罪が俺たちの間を隔てて、動けなくしていた。


「無理や」

「なにいうてんねや! 無理ちゃう!」

「おれは人殺しや。親父とおんなじや」


 ケイは、泣いていた。


「償っとる間な、ずっと前向きになろうおもてたんや」 


 ケイは手を差し出す。手のひらの上に何かをのせるように、俺に示した。


「おれがしたんは殺しやないとか、仕方なかったとか、償ったらなんとかなるとか、色々試してみたんや」


 俺は何も言えなかった。言葉が重くて、遠くて仕方なかった。


「せやけどちゃうやん。おれがしたんは殺しやし、ぶっ殺したる思てしたし、償ったかて、絶対命はかえってこん」


 手の中の何かを放すように、ケイの手は力を失った。俯いて、しきりに泣いているのを隠していた。それさえ権利がないように。


「セツのこと守ってやれんで、今どこにおるかさえわからんで。傍にいったることも、もうでけんねん」


 昔の俺なら。何だって声をかけられた。

 ごめんだって言えたし、一緒に償おうとも言えた。何だって言えた。どんな嘘八百も本心にできた。ケイを生かすために、全身全霊を、捧げられた。


「行くなや」


 それしか言えなかった。

 俺はただ、泣くしかしてやれない。俺はそっちにはいけない。だけど、どうしたらケイを引き止められるかもわからない。


「行くな。そっちに行くな」


 俺は拳を握りしめた。何も出来ない。


「償えるとか、わからん。俺は神やない。俺かて、怖い」


 手が震えた。お前にとって、光でありたかった。どれほど虚飾にまみれていたとしても。今はそのメッキも剥げて、ただのみっともないガキの残骸がいるだけだった。


「命は重い。せやけど、お前を今、行かせるんは違うやろ」 


 俺は手を差し出した。ケイの顔を見ることは、出来なかった。


「やから帰ろう」


 顔をそらしたまま、不躾に言った。


「こっち来い。帰ろう」


 顔を上げた。揺れる視界の向こう、ケイは笑った。涙にぬれた頬が、朝の光に照らされていた。


「ありがとう、ほうちゃん」


 そう言って。

 ケイは、橋から飛び降りた。






◇◇


 浅い川に、万に一つもあるわけはなかった。ケイの血は花火みたいに広がった。

 ケイの葬儀は上がらなかった。何とかしたかったけど、金がなかった。

 ケイの骨は、たぶん妹と父と、同じところに行くのだろう。


 ケイが煙になった日、俺はぼんやりとスーパーを歩いていた。そこは俺とケイの家の中継点で、昔から俺とケイ、ケイの妹と三人でぶらついた。

 何でここに来ようと思ったのか、わからない。茫然とする頭が、昔の習慣を求めたのかもしれない。

 閉店間際、蛍の光が流れ出す。それを聞いたら、終わりの合図だ。家に帰らなくてはならない。

 恐怖に泣き出す妹をあやして、ケイは笑った。「大丈夫、お兄がおるさかい」俺はケイと妹の肩を抱いていた。


「いまに俺がお前らを助け出したるから」


 そんな残酷な夢想を、当然のように口にして。


 かつての愚かしさが、ひたすら憎らしくて、——ひたすらに羨ましかった。

 俺はうずくまって泣いた。

 なにがしたかったわけじゃない。

 ただ今は、帰りたくなかった。ケイのいた、俺のアパートに、どうしても。

 ケイ。

 いまお前に死ぬほど会いたいのは、抱きしめたくて仕方ないのは、お前がもう死んじまったからなのか?

 俺にはもう、それすらわからなかった。





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