好きや。
ずっと好きやった。
目が覚めた。ケイはいなかった。がらんどうの部屋に、冷蔵庫の音が響く。
俺は飛び起きて、外へ飛び出した。
「ケイ!」
叫びながら辺りを走り回る。小さい川の橋を、柳のような後ろ姿が見える。
「ケイ!」
俺は呼んだ。再会して一番、必死に呼んだ。ケイはぼんやりと振り返り、俺に気づくと笑った。
「来たらあかん」
首を振って、俺を制した。俺はそれだけで、くぎ付けにされたみたいに、動けなくなる。
「ほうちゃんは、こっちきたらあかん」
「何いうて」
「こっちは地獄や。せやさけ、ほうちゃんは、絶対来たらあかんねん」
ケイは笑う。
こんなときに、一番きれいな笑い方だった。まるで、この世のものじゃないみたいに。
「なにいうてんねや」
俺の声は震えた。最悪にみっともない。けれども、構ってはいられなかった。今を逃したら、もう次はない。
「なら、お前がこっちにきい! 俺んとここいや!」
俺はケイに手を伸ばした。足は縫いつけられたように、動かない。彼岸と此岸のように、罪が俺たちの間を隔てて、動けなくしていた。
「無理や」
「なにいうてんねや! 無理ちゃう!」
「おれは人殺しや。親父とおんなじや」
ケイは、泣いていた。
「償っとる間な、ずっと前向きになろうおもてたんや」
ケイは手を差し出す。手のひらの上に何かをのせるように、俺に示した。
「おれがしたんは殺しやないとか、仕方なかったとか、償ったらなんとかなるとか、色々試してみたんや」
俺は何も言えなかった。言葉が重くて、遠くて仕方なかった。
「せやけどちゃうやん。おれがしたんは殺しやし、ぶっ殺したる思てしたし、償ったかて、絶対命はかえってこん」
手の中の何かを放すように、ケイの手は力を失った。俯いて、しきりに泣いているのを隠していた。それさえ権利がないように。
「セツのこと守ってやれんで、今どこにおるかさえわからんで。傍にいったることも、もうでけんねん」
昔の俺なら。何だって声をかけられた。
ごめんだって言えたし、一緒に償おうとも言えた。何だって言えた。どんな嘘八百も本心にできた。ケイを生かすために、全身全霊を、捧げられた。
「行くなや」
それしか言えなかった。
俺はただ、泣くしかしてやれない。俺はそっちにはいけない。だけど、どうしたらケイを引き止められるかもわからない。
「行くな。そっちに行くな」
俺は拳を握りしめた。何も出来ない。
「償えるとか、わからん。俺は神やない。俺かて、怖い」
手が震えた。お前にとって、光でありたかった。どれほど虚飾にまみれていたとしても。今はそのメッキも剥げて、ただのみっともないガキの残骸がいるだけだった。
「命は重い。せやけど、お前を今、行かせるんは違うやろ」
俺は手を差し出した。ケイの顔を見ることは、出来なかった。
「やから帰ろう」
顔をそらしたまま、不躾に言った。
「こっち来い。帰ろう」
顔を上げた。揺れる視界の向こう、ケイは笑った。涙にぬれた頬が、朝の光に照らされていた。
「ありがとう、ほうちゃん」
そう言って。
ケイは、橋から飛び降りた。
◇◇
浅い川に、万に一つもあるわけはなかった。ケイの血は花火みたいに広がった。
ケイの葬儀は上がらなかった。何とかしたかったけど、金がなかった。
ケイの骨は、たぶん妹と父と、同じところに行くのだろう。
ケイが煙になった日、俺はぼんやりとスーパーを歩いていた。そこは俺とケイの家の中継点で、昔から俺とケイ、ケイの妹と三人でぶらついた。
何でここに来ようと思ったのか、わからない。茫然とする頭が、昔の習慣を求めたのかもしれない。
閉店間際、蛍の光が流れ出す。それを聞いたら、終わりの合図だ。家に帰らなくてはならない。
恐怖に泣き出す妹をあやして、ケイは笑った。「大丈夫、お兄がおるさかい」俺はケイと妹の肩を抱いていた。
「いまに俺がお前らを助け出したるから」
そんな残酷な夢想を、当然のように口にして。
かつての愚かしさが、ひたすら憎らしくて、——ひたすらに羨ましかった。
俺はうずくまって泣いた。
なにがしたかったわけじゃない。
ただ今は、帰りたくなかった。ケイのいた、俺のアパートに、どうしても。
ケイ。
いまお前に死ぬほど会いたいのは、抱きしめたくて仕方ないのは、お前がもう死んじまったからなのか?
俺にはもう、それすらわからなかった。
了