「いいじゃん。3ヶ月くらいだからさ」
携帯を握る手が…じっとり汗ばんでくるのがわかる。
思わず、窓を開けた。
ついでに季節外れなのを承知で、出しっぱなしの扇風機のスイッチも入れる。
カラカラ…と、変な音がするようになった扇風機。私のいる場所とは違う方向に風を送っていた。
「…いいけど…うち、寒いし狭いよ?」
心臓が飛び出そうなほど、激しく鼓動している。
…携帯越しに、聞こえたらどうしよう。
こめかみを一筋…汗が伝った。
「そんなのいいよ!久しぶりにゆっくり話そうぜ」
そのへん案内してよ…と、明るい声が私の耳を優しくなぞる。
何度、この声に名前を呼ばれただろう。…ゆり、どこにいる?…って。
2人で留守番することが多かった家。
2人で過ごすことが多かった家。
会いたかった…本当はすごく。
会えない環境を作ったのは自分。
擦り切れた写真と、いつか撮った動画を頼りに、生きていた。
いつまでも、私の心の大部分を占めて、埋め尽くす人…
大好きな兄、亜蘭…
「大学院、無事に卒業できそうで、4月からいよいよ俺も社会人だ」
「…そう、だよね。なんだかんだ、第一希望のあの会社?」
まぁね…と言うけど、亜蘭の言葉に変な驕りはない。
希望していた大手情報系企業に就職を決めたと聞いて、ホッと胸を撫で下ろした。
入社して3ヶ月ほどは研修期間として本社勤務になり、その後正式に配属が決まるという。
勤務地が決まるまでの3ヶ月、私のアパートに仮住まいさせて欲しいという頼みだった。
「じゃあ、来月から、よろしくな」
バイバイ…と言う声に、バイバイと返す当たり前のやり取りが、私にとってどれほどむず痒くて嬉しいか、亜蘭は知らない。
先に電話を切ってくれるのを待ってるのに、亜蘭は先に切ったりしないこと…知ってる。
ほんの些細なことだけど、それがどれほど女心をくすぐるか…
いつか誰かに、言われる日が来るのかな。
私から先に電話を切ることができないのは、せっかく繋がった2人の細い糸が、再び切れてしまいそうで怖いからなんだ。
私の想いを知らない兄…
最愛の人。
大学入学を機に、実家を出た。
少しだけ仕送りをしてもらって、アルバイトをしながら1人暮らしをしている。
「ゆりが先に出ちゃったから、俺が出にくくなった」
普通兄貴の俺が先だろ…
何度か、恨めしげに言われた。
あれから…3年。
実の兄を愛する歪んだ想いは、離れて暮らしても消えることなく、いつまでも私の中に居座った。
風船みたいに膨らんだ想いは、離れる時間があれば…少しはコントロール可能だと知る。
電話が切れて、つい物思いにふけってしまう…
大学に入ってから、数えるほどしか会っていない亜蘭。
何度かご飯に誘われたけど、亜蘭の大学が都心から少し離れていて…アクセスが悪いことを理由に断っていた。
でも本当は、2人だけで会うことが怖かっただけ。
また膨らんでゆくから…
吐き出すことのできない気持ちが。
そんな亜蘭が来月ここへ来るなんて。そして3ヶ月も一緒に暮らすなんて…
私の中の風船は、破裂せずにおとなしくしていてくれるだろうか。
亜蘭が来るまでまだ日にちはあるけれど、翌日から早速部屋を整え、布団を用意した。
この機会に、タオルやバスマットも新調しよう。
縁の欠けたお皿や、何かの景品でもらったキャラクターのマグカップも処分。
来月やってくる亜蘭を迎えるにあたり、なんだかんだ大掃除をしてしまう。
「ピンクが私で、グリーンが亜蘭」
綺麗なものだけ残したら、お皿やコップがあからさまに少なくなった。
少し、買い足そうかな。
さり気ない色使いのマグカップが素敵で、手に取ってみる。
スモーキーな色味が気に入ったけど…あからさまなペアカップは買えない悲しみが、胸をえぐった。
普通の兄妹なら…
普通の妹なら…
どうやって押しかけてくる兄を迎えるのだろう。
…………
「もぅ…めっちゃうざい!」
私の疑問に答えをくれる人を見つけた。
うっちゃん。
大学で出会った女友達。
「…ん?何がうざいの?」
大学内のカフェテリア。
ホットココアを飲む私と氷を浮かべたコーラを飲むうっちゃんは、見た目も性格も、見事なまでに対照的だとよく言われた。
「兄貴っ!出張でこっち来るから泊まらせろって…」
「…うっちゃんのお兄さん、社会人なんだね」
「そうなんだけどさ…それにしても兄貴って、どうしてこんなに臭う存在なんだろうね?」
臭うとは…?という素朴な疑問に、逆に驚かれてしまった。
「胡散臭いんだよ!会社から至急される出張費を浮かせようって魂胆で妹の部屋に一泊するなんてさ…!」
質問の答えになっていない気がしたけど、心底うっとおしそうなうっちゃんをキョトンとした目で見ていたらしい。
「そういえばゆりは?お姉ちゃんとか妹がいそうたけど」
急に聞かれて…ふと、あまり言いたくないと思う。
「…私は、兄がいるよ」
スムーズなやり取りがつっかえるのが嫌で、正直に言う。
…別に大丈夫。
私の歪んだ想いに気づかれるはずない。
「ゆりもお兄ちゃんなんだ!…もう、何なんだろうね?兄貴って面倒でうっとうしいよね?…妙に変な匂いをまき散らす時期もあるじゃない?…男性ホルモン、っていうのかな…」
ペラペラ喋るうっちゃんに合わせ、一生懸命相槌を打ちながら…
…匂い、と聞いて、私は忘れられない亜蘭の匂いを思い出していた。