この世界で、昼と夜が交わることはない。
太陽が空を支配する間、夜の民は深い眠りに落ちる。
星々が瞬く頃、光の民はその瞳を閉じる。
それは、世界の均衡を保つために与えられた掟。
決して、破ってはならない古の約束。
けれど。
少年は、今日も丘に立っていた。
陽が沈みかけた空の下、まだ残る名残の光を背に受けながら、ソルは高台の草を踏みしめてゆっくりと歩く。
風が揺らす草の音と、心臓の音だけが静かに響いていた。
(もうすぐだ……)
彼が目指しているのは、村の外れにある“境界の丘”。
かつて昼と夜が交わりかけ、世界が崩れかけたという伝承が残る場所。
本来なら誰も近づいてはならない禁じられた土地だった。
だが、ソルは知っている。
年に数回、この丘の上に――
星を数える少女が現れることを。
彼女の名は、知らない。
声も、触れたことも、ない。
けれど、その夜色の髪と、星のように揺れる瞳を、彼は何度も夢に見た。
「……今日も、来てくれるかな」
誰に聞かせるでもないその言葉が、冷たい風にさらわれていった。
⸻
――そして。
風の向こうから、かすかな気配が届いた。
ソルは息を呑み、草の陰に身を伏せる。
丘の頂に、ふわりと“夜”が舞い降りたようだった。
淡い月明かりに浮かび上がる、小さな背中。
長い髪が風にそよぎ、揺れる袖が星のようにきらめく。
彼女だった。
何度も夢に見た、あの少女――夜空(ヨゾラ)。
彼女は静かに空を見上げ、ひとつ、またひとつと指を折って星を数え始めた。
その動きには、どこか祈るような優しさがあった。
ソルは思わず、踏み出していた。
「……こんばんは」
その声に、少女の肩がぴくりと震えた。
しばしの沈黙。
やがて、彼女はゆっくりと振り返る。
月明かりの中で、その瞳が揺れた。驚きと……懐かしさのような、何かが。
「……あなた、昼の民……?」
「うん。名前は、ソル。太陽のソルだよ」
少女は、小さく瞬きをした。
まるで、星がひとつ落ちたような、そんな静かな瞬間。
「わたしは……ヨゾラ。夜空の、ヨゾラ」
ふたりの名前が、静かに交わった。
昼と夜、交わらぬはずの光と闇。
それでも、確かにここに“出会い”は生まれてしまった。
「……本当はね。来ちゃいけないんだ。昼の人は、夜の丘に」
「知ってる。でも……会いたかったんだ。君に、もう一度」
夜の風が、そっと吹いた。
その一瞬、ふたりの間にあった境界線が、少しだけ揺らいだ気がした。
丘の上は、昼と夜の狭間だった。
陽は完全に沈み、空には無数の星が瞬いている。
けれど、まだ空気の端に、かすかに“光”の名残が残っていた。
「……どうして、わたしのことを知ってるの?」
星を見上げながら、ヨゾラがぽつりとつぶやいた。
その声は、風よりも静かで、どこか傷つくことを恐れているようだった。
ソルは、すぐには答えられなかった。
彼女の問いに、何度も心の中で言葉を探す。
「……夢で、何度も会ったんだ。
君がここで、星を数えてる夢。ずっと……昔から」
「夢……?」
ヨゾラの瞳が、わずかに揺れた。
彼女もまた、なにかを思い出すように目を伏せる。
「……わたしも、夢を見たことがあるの。
昼の空を駆ける鳥と、それを見上げる誰かの夢。
きっと、それが……あなた」
ふたりはしばらく、言葉を交わさぬまま空を見つめた。
夜空には、名前も知らぬ星々が、音もなく瞬いている。
「星はね、名前があるの」
ヨゾラがふいに口を開いた。
「見えないけど、ひとつずつちゃんと名前があって……。
夜になると、わたし、彼らの声が聴こえるの」
「声が?」
「うん。星たちはね、今を生きてる人たちを、ずっと見守ってるの。
小さな願いとか、悲しい気持ちとか、全部……夜の空で受け止めてくれる」
ソルは、息を呑んだ。
それは彼が知らなかった世界――
昼の光に隠されて、決して触れることのできなかったもの。
「それって……君だけに聞こえるの?」
「うん。だから、わたし……夜の巫女って呼ばれてるの」
その言葉には、どこか重さがあった。
ただ“特別”というより、背負わされている役目のような、寂しさが滲んでいた。
「夜の巫女って、つらい?」
ソルの問いに、ヨゾラは小さく首を横に振った。
「ううん。……誇りには、思ってる。
でもね、誰かと“夜”を分け合うことは、できないの。
ずっとひとりで、星とだけ話してる」
それは、静かな孤独の告白だった。
ヨゾラの言葉は明るくて、笑顔さえ浮かべていたけれど――その奥に、誰よりも深い寂しさが隠れているのを、ソルは感じた。
「じゃあ、今日だけでも。僕と話してくれてありがとう」
「……うん。わたしも、話せてよかった」
ふたりの間に、夜の風が通り抜ける。
草のざわめきと遠くの星の瞬きが、まるでふたりを祝福しているようだった。
「……ソル。ねえ、もし……また、ここに来たら……」
「うん?」
ヨゾラは小さく笑った。まるで、星が一つふわりとほどけたような笑みだった。
「また、星の名前を教えてあげる。
わたしが聞いた声……あなたにも、少しずつ届けたいから」
ソルの胸が、きゅっと締めつけられた。
それは、たった数分しか会えないふたりが、
ほんの少しでも“次”に希望を託そうとする、ささやかな約束。
「……絶対、来るよ。何度でも。
夜と昼の境目で、君に会う」
「うん。待ってる」
手を伸ばせば届く距離。けれど、その手は伸びなかった。
触れた瞬間、この魔法が壊れてしまう気がして。
――月が、雲に隠れた。
そして、時間が訪れる。
夜が深まり、ヨゾラの姿は空気に溶けるように消えていく。
「……おやすみ、ソル」
最後に残されたその声だけが、丘の上にやさしく響いていた。
ソルは、小さな黄色い花をそっと摘んだ。
それは、昼の森にしか咲かない――“サリアの花”。
陽の光を好み、夜には閉じてしまう儚い草花だった。
「これなら……きっと、ヨゾラに似合う」
そう思った瞬間、胸の奥があたたかくなった。
彼女に何かを渡したい、喜んでほしい――それは、ソルにとって初めての感情だった。
けれど、ヨゾラの世界に“昼の花”を持ち込むことは、本来禁じられている。
それでも、構わないと彼は思った。
この小さな想いが、彼女の夜を少しでも照らせるなら。
夕暮れが訪れるのを、ソルは丘の下で待った。
空がオレンジに染まり、太陽が遠くの山の端へと沈んでゆく。
(もうすぐだ)
風が変わる。
夜の匂いが少しずつ混ざりはじめるその瞬間、彼の胸は、自然と高鳴っていた。
そして、今夜も――
「……こんばんは」
ヨゾラは、昨日と同じように現れた。
けれど、その表情には、ほんのすこし驚きが浮かんでいた。
「……ほんとに、来たんだね」
「約束、したから」
ソルは、にこっと笑って、手のひらをそっと差し出す。
そこには、あの小さな黄色い花が乗っていた。
「これ、昼間に見つけた。サリアの花。
太陽の下でしか咲かないけど……きれいだったから、君に渡したくて」
ヨゾラは、少し戸惑ったように花を見つめた。
それから、両手でそっと受け取る。
「……ありがとう。サリア……わたし、見たことなかった」
彼女が花を抱きしめた瞬間、夜の空に一筋の流れ星が落ちた。
「この花ね……なんだか、あたたかい匂いがする」
ヨゾラが頬を寄せるようにして、サリアの花を胸に抱きしめた。
夜に咲かぬその花は、どこか不安げに、けれど確かに彼女の手の中で生きていた。
「太陽の光を溜めてるんだって。だから、夜になってもほんのり暖かい」
「……ふふ、それって、あなたみたい」
ソルの顔が、ふと赤く染まった。
照れ隠しのように俯いた彼の横で、ヨゾラは夜空を見上げる。
そして、静かに目を閉じると――そっと唇を開いた。
♪ ひとつ、ふたつ、夜に灯るは ひかりのこえ
ささやく夢は、空のむこうへ とどけ、とどけと揺れていく
それは、星の歌。
昼の民には聞こえない、夜の空にだけ響く祈りの調べ。
静かで、やさしくて、悲しみに満ちた歌だった。
ソルは黙って聞いていた。
言葉はすべて届いたわけじゃない。
けれど、その旋律は確かに彼の胸を震わせた。
(……この声を、誰かに伝えられたらいいのに)
歌い終わったヨゾラは、少し照れたように笑う。
「夜の民はね、こうして星に歌を捧げるの。
でも、昼の人にはこの歌、聞こえないはずなのに……あなた、ちゃんと感じてくれたんだね」
ソルは力強く頷いた。
「言葉じゃなくても、ちゃんと伝わったよ。
君の気持ちも、星の声も。……すごく、きれいだった」
ヨゾラの目が潤んだ気がしたのは、気のせいだろうか。
――けれど、その静かな時間も、長くは続かなかった。
星の配置が変わり、風向きがわずかに変わる。
“夜の終わり”を告げる兆し。
「……今日は、もう行かないと」
「そっか……また、明日も来るよ」
「ううん……明日は、たぶん来られない」
「……え?」
ヨゾラは、視線を落としたまま、小さく首を振った。
「巫女としての儀式があるの。数日は外に出られないの。
だから、……今日のこと、忘れないでね」
ソルは言葉を飲み込んだ。
言いたいことは山ほどあるのに、ただ小さく頷くことしかできなかった。
やがて、ヨゾラの姿は夜に溶けて消えた。
彼女が手にしていたサリアの花だけが、風の中でそっと揺れていた。
ヨゾラが姿を見せなくなって、三日が経った。
ソルは、それでも毎日丘に通っていた。
夕陽が沈むたびに、あの夜の風景がもう一度訪れるのを願って。
けれど、丘の上はいつも、静まり返っていた。
星は変わらず空に瞬いている。
けれど――その下に、ヨゾラの姿だけがなかった。
(儀式って……そんなに長いのか? それとも……)
不安が、日に日に増していく。
ヨゾラの最後の表情。
あのとき、何か言いかけていたような瞳の揺れ。
ソルは、あの光景を何度も何度も思い出していた。
「――おまえ、また境界の丘に行ったのか?」
ある日、父親に呼び止められた。
低く、冷たい声。
「昼の民が、夜の土地に立ち入ることは禁じられている。
もう子どもではあるまい。掟を破れば、どうなるかわかっているな」
ソルは、答えられなかった。
ヨゾラの存在を口に出せば、何かが壊れてしまいそうで――
「……ただ、空が好きなだけだよ」
それだけを言って、その場を離れた。
けれど、それはごまかしでしかなかった。
ソルの心は、ヨゾラでいっぱいだった。
話した言葉。
くれた笑顔。
星の歌――その余韻だけが、彼を支えていた。
(……もう一度、会いたい)
どれだけ夜が静かでも、星が瞬いても、
そこに“彼女”がいないのなら、意味なんてなかった。
夜の訪れは、いつもより冷たく感じられた。
ソルは丘に立ち尽くし、ただ空を見上げていた。
「……また、来られなかったんだね」
ヨゾラの姿は、今夜もなかった。
サリアの花を手に、ソルはぽつりとつぶやく。
彼女が持ち帰ったはずのあの花は、まだ自分の心の中で咲いていた。
けれど、今はその記憶さえも、風にかき消されそうだった。
(このまま、もう二度と会えなかったら……)
胸の奥が、ぞわりと凍える。
焦り。悲しみ。怒りにも似た衝動。
ソルは足元の草を蹴った。
静かな夜に、音が響く。
「……だったら、僕が行く」
その声は、自分でも驚くほどはっきりしていた。
夜の国〈ノクティア〉――昼の民には禁じられた領域。
でも、もう待っているだけなんてできなかった。
“どうせ掟を破っているなら、もう一歩くらい踏み込んでも同じだ”
その考えがよぎった瞬間、ソルは走り出していた。
境界の丘を越えて、森の奥へ――
だが。
そのとき、背後から鋭い声が飛んだ。
「止まれ!」
草をかき分けて現れたのは、昼の民の守衛。
複数人の男たちが、手に光の槍を構えていた。
「何度も忠告したはずだ、少年。掟を破る者には、相応の罰がある」
「僕は、ただ……会いたいだけなんだ!」
叫びは夜空に溶けた。
だが、誰にも届かなかった。
――その夜、ソルは連れ戻され、屋敷の奥の小部屋に閉じ込められることになる。
昼の民の中で、「夜」と名のつく存在に心を奪われた者など――
かつて、ひとりとしていなかった。
月は静かに昇っていた。
けれどその光は、今夜のソルには届かなかった。
月が欠けはじめた夜。
空は静かに、けれど確かに“何か”を孕んでいた。
ソルは、小さな窓の外を見つめていた。
昼の民の屋敷、その奥深くに閉じ込められて三日目。
壁も床も、窓も、すべてが冷たく感じた。
外に出ることも許されず、誰の声も聞こえない。
けれど彼は知っていた。
――この夜は、年に一度の“月蝕”だ。
月がすべてを隠すそのときだけ、昼と夜の境目があいまいになる。
その瞬間なら、掟の目を逃れて、もう一度ヨゾラに会えるかもしれない。
それは、彼がこの世界に生まれて初めて願った“奇跡”だった。
一方、その夜。ノクティアの聖域では、ヨゾラもまた月を見上げていた。
「……月が、欠けてゆく」
儀式の合間、星を祀る祭壇の裏にある静かな庭。
彼女はひとり、星の声を聴いていた。
“光が、闇に近づいている”
“掟が、揺らいでいる”
そんな風に、星たちがささやく。
(もしかして……)
彼女の胸が騒ぐ。
ソルの名が、風に混じって呼んでいるような気がした。
「ソル……」
小さくつぶやく。
次の瞬間、足元の草がふわりと揺れた。
夜の風――境界から、誰かが呼んでいる気がする。
ヨゾラは、星の杖を胸に抱き、そっと立ち上がった。
禁を犯すことになるとわかっていても、心はもう止められなかった。
――その頃、昼の屋敷では。
「……よし」
ソルは窓の鍵をこじ開け、身を細くして外へと身を滑らせた。
空には月蝕。
光も影も曖昧になったこの瞬間だけが、唯一の“自由”だった。
そしてふたりは――再び、“あの丘”を目指していた。
月が完全に欠けたとき、空は深い藍色に包まれた。
星たちはいつもより強く瞬き、
丘の上には、ほのかに光る道が浮かび上がっていた。
それは、まるで空そのものがふたりを導いているかのようだった。
そして。
その道の先に、ヨゾラが立っていた。
「……ソル」
「ヨゾラ……!」
声が重なった瞬間、ふたりは駆け寄った。
ためらいも、戸惑いもなかった。
この夜、この一瞬だけは、昼も夜も関係なかった。
「無事で……よかった」
ソルが、息を震わせて言う。
ヨゾラは、黙って小さく頷いた。
ふたりの間に、ひときわ大きな星が流れる。
それは、まるで祝福のような光だった。
「触れても、いい……?」
ソルの問いに、ヨゾラはそっと手を差し出した。
「……今日は、月が隠してくれてるから」
そっと指先が触れ合う。
その瞬間、胸の奥に灯るようなぬくもりが生まれた。
それは言葉では説明できない――でも確かに存在する、心のつながり。
「ずっと……君のこと、考えてた」
「わたしも……あなたの声、ずっと聴こえてた気がするの」
「次は、いつ会えるの?」
「……もう、わからない。
でも――この夜のことだけは、絶対に忘れない」
ソルは、ヨゾラの手をそっと握りしめた。
その手は細くて、かすかに冷たかった。
けれど、そこには確かに、命の鼓動があった。
「……また、絶対会おう。どんな掟があっても、
この世界が僕たちを引き離しても――」
「うん。わたしも、そう願う」
けれどそのとき――
月が、雲間から顔を覗かせた。
夜の闇が、ゆっくりと引いてゆく。
ふたりの足元から、光が地を裂くように差し込み始める。
「もう……行かなきゃ」
ヨゾラが、苦しそうに目を伏せた。
「いやだ……! まだ、一緒にいたい!」
「わたしも。でも……」
ふたりの手が、ゆっくりとほどけていく。
夜が終わる。
奇跡の時間が、静かに閉じていく。
ヨゾラは最後に微笑んだ。
「ソル。あなたのこと、ずっと星に祈ってる。
たとえ遠くても……空は、つながってるから」
そして彼女は、月の光に溶けるように、姿を消した。
――丘の上には、夜露の残るサリアの花がひとつだけ咲いていた。
翌日、ソルは目を覚ました瞬間、自分が誰かに見られている気配を感じた。
部屋の扉は開いていた。
閉じ込められていたはずの場所から、なぜか解放されている。
けれど、その自由は歓迎のものではなかった。
「――来なさい。王の命令です」
無表情な守衛が告げた言葉に、ソルの胸が嫌な予感でざわめいた。
王都の最奥、昼の神殿。
広間に通されたソルの前には、王家直属の“光の教団”と、巫女たちが並んでいた。
その中に、知った顔があった。
兄――セラフ。
幼い頃から優秀だと称えられ、ソルとは違う道を歩んだ兄だった。
「……まさか、本当に夜の巫女と会っていたとはな」
セラフの声には、どこか痛々しいほどの冷静さがあった。
それは怒りでも悲しみでもない。
ただ、“正しさ”という名の壁だった。
「境界の掟は、古からこの世界の均衡を保ってきた」
「昼と夜が交わることは、世界を崩壊へ導く危険がある」
神官たちが次々と並べる言葉は、ソルの耳には届かなかった。
ヨゾラの手のぬくもり。
あの星の歌。
ただ、彼女の笑顔だけが――心を満たしていた。
「おまえには選択の機会が与えられる」
セラフが、一歩進み出て告げる。
「すべてを忘れ、この世界の“太陽”として生きるか。
あるいは、掟に背き、“夜”の者として追放されるか」
選べ。
光に従うか、闇に堕ちるか。
その選択は、もはやひとりの少年の問題ではなかった。
ソルの唇が、わずかに震える。
「そんなの……どっちも“ヨゾラ”がいないんじゃ、意味がない」
王座の間に、沈黙が落ちた。
「……どちらも、“ヨゾラ”がいないんじゃ、意味がない」
ソルの言葉に、広間の空気が凍りついた。
神官たちはざわつき、巫女たちは顔を伏せる。
そんな中、ただ一人、セラフだけがソルの目を見つめていた。
その視線に、かつて兄弟だったはずの温度はなかった。
「ソル、お前は何もわかっていない。
“彼女”一人を選ぶということが、どれほど多くを壊すか……」
「たとえ全部壊れても、僕はあの夜を後悔してない!」
ソルの叫びが、空気を裂いた。
光の民としての未来も、王家の血も、すべてを賭けても――
彼は、ただヨゾラと過ごした、あの“触れた夜”を守りたかった。
一方、ノクティアの巫女殿。
星の間(あいだ)と呼ばれる儀式の間に、ヨゾラは膝をついて祈りを捧げていた。
けれど、その心は穏やかではなかった。
(ソル……今どこにいるの? どうか、あなたが無事でありますように)
星たちは、静かに瞬いていた。
でもその声は、いつものように優しくはなかった。
ざわめき、ざわつき、まるで“世界が揺れている”と告げているようだった。
そのとき、老巫女が近づき、ヨゾラに告げた。
「……星の巫女ヨゾラ。
お前に問う。そなたの“心”は、いずこにある」
問いかけは、形式ではなかった。
答えひとつで、彼女の運命もまた変わる。
ヨゾラは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、決意の光が宿っていた。
「わたしの心は……夜空にはない。
もうずっと前から、“太陽”の方を向いているのです」
言葉の余韻が残る中、風が吹いた。
星たちが、一瞬だけその光を強めた。
それは――“星の承認”。
昼と夜。
ふたりの決意が、それぞれの場所で静かに重なった。
だがその一方で、神殿の奥深く。
世界の均衡を保つ“契約の光”に、わずかなひびが入りはじめていた。
世界が、ふたりを引き裂こうとしていた。
――それは運命か、あるいは恐れか。
昼の神殿の地下、厚い石の壁に囲まれた独房。
ソルは、光の届かぬ闇の中でじっと座っていた。
拘束はされていなかった。
けれど、ここに光はない。
太陽の名を持つ彼にとって、これ以上に深い“罰”はなかった。
「……ヨゾラ」
つぶやいた名は、空気に溶けるだけだった。
彼女は今、どうしているのだろう。
無事でいるのか、それとも――
一方その頃。
ノクティアの星殿では、ヨゾラが“儀式の間”に座らされていた。
周囲には長老たち。
そして、眠りに誘う香と、封印の歌。
「星の巫女は、その心を光に傾けた」
「このままでは、夜の民の均衡が揺らぐ」
低く厳かな声が、空気を震わせる。
「よって、星々の意志により、“夜の檻”への封印を命ずる」
ヨゾラは、黙ってそれを聞いていた。
拒絶も、抵抗もなかった。
彼女の心は、もうここにはない。
ただ一つの祈りだけが、胸の奥で強く灯っていた。
(ソル……あなたが、どうか自由でありますように)
――そのとき。
星が、一つ、はじけるように消えた。
「っ……!」
長老たちがざわめく。
それは、千年に一度の“不吉の兆し”――星の崩壊。
「均衡が……崩れはじめている」
誰かがつぶやいた。
夜の檻。昼の牢。
ふたりが引き裂かれたことで、世界の調和が静かに軋み始めていた。
封印の儀は、静かに進められていた。
星の巫女――ヨゾラは、夜の祭壇の中央に座し、
七芒星の光に囲まれながら、ゆっくりと眠りへと誘われていく。
「……あなたの想いは、空へと還る」
老巫女の声が、遠くで揺れていた。
けれどヨゾラの意識は、すでに現実を離れはじめていた。
星の音も、風の歌も、どこか遠くへ。
――ただ、ひとつだけ。
その闇の中で、彼女の名を呼ぶ声があった。
「……ヨゾラ……っ!」
それは、ソルの声だった。
現実のものではない。
けれど確かに、彼女の心に届いた。
その瞬間、星の光がわずかに揺らいだ。
封印の術式にひびが走る。
一方、昼の神殿。
ソルは、暗がりの中でふと目を閉じた。
「聞こえた……気がした」
意識の底で、ヨゾラの名が呼ばれたような気がして、
彼は立ち上がった。
そのときだった。
独房の奥の壁が――光を帯びて、ゆっくりと開いた。
“誰もいないはずの空間”の奥に、ただ一人、白い服の老女が立っていた。
「……おまえが、太陽の少年か」
「あなたは……?」
「名など要らぬ。わたしはただ、“星の箱庭”の番人」
そう言うと、老女は扉の向こうを指さした。
「世界が揺れはじめた。
おまえが選んだ“想い”が、掟を超え、扉を開いたのだ」
ソルは、言葉もなく頷いた。
その先にあるのが何であっても、もう迷わない。
彼は、光の中へと一歩を踏み出した。
――向かう先は、昼でも夜でもない、
空と星と願いの狭間にある幻の場所――
“星の箱庭”。
そこでふたりの運命が、もう一度交わろうとしていた。
――そこは、昼でも夜でもなかった。
星の箱庭。
その名の通り、空そのものが閉じ込められたような場所だった。
地面は透き通ったガラスのように光を映し、
空には永遠に沈まぬ星が瞬いている。
風はなく、時も流れない。
ただそこにあるのは、願いと記憶の“かけら”たちだけ。
ソルは、ゆっくりと歩みを進めた。
聞こえてくるのは、微かに誰かが歌う声。
♪ ひとつ、ふたつ、また消えて
誰かの夢が 星になる
会えぬと知って なお願う
それが恋と 知った夜
その歌を、彼は知っていた。
「……ヨゾラ」
声を呼んだとき、星の木の根元に少女がいた。
白い服に身を包み、足元に咲く“サリアの花”をそっと撫でている。
「……ソル……?」
ヨゾラが、こちらを見上げた。
その瞳には驚きと――涙の光。
ふたりは、言葉もなく駆け寄った。
そして、抱き合った。
今度はためらわず。
迷いもなく。
この場所では、もう誰にも邪魔されない。
時間さえも止まっている。
けれど――それは、永遠ではなかった。
「ここは……夢なの?」
ヨゾラが、ぽつりとつぶやく。
ソルは小さく頷いた。
「世界が崩れる前に、想いが最後の場所を作ったんだって。
ここでなら、ほんの少しだけ願いを叶えられるらしい」
「願い……」
ソルは、彼女の手を握ったまま言った。
「君が望むなら、ここで一緒にいよう。
時が止まったこの星の庭で、ふたりだけで」
けれど――
ヨゾラは、そっと首を横に振った。
「ダメだよ。
それじゃ、あなたの光は……もう、誰にも届かなくなっちゃう」
ソルの瞳が揺れる。
ヨゾラは微笑んだ。
「あなたは太陽。
誰かの朝を照らすために、生まれてきたんだもの」
その言葉が、ソルの胸を静かに貫いた。
「――ひとつだけ。願いを選んでください」
星の箱庭の空に、声が響いた。
それはこの空間の主、星々の意志が具現化したものだった。
「願いはふたつのうち、どちらかひとつだけ」
「この場所に、ふたりだけで永遠に留まる」
「それとも、相手を“現実”に還す」
静寂が落ちる。
ふたりは互いの手を握ったまま、視線を交わす。
「私は……」
ヨゾラが、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「あなたに戻ってほしい。
太陽として、世界を照らしてほしいの」
ソルは、首を振った。
「違う。僕が君を……現実に還したい。
誰にも縛られない、“夜”を歩ける世界で、生きてほしいんだ」
願いは、どちらかひとつしか叶わない。
ふたりとも、自分ではなく相手の未来を願っていた。
そのとき、星の声がふたたび降る。
「願いが重なりました。
星々は、その祈りの純粋さに応じましょう」
空が、静かに輝きはじめた。
ふたりの頭上に、白く長い流れ星が伸びていく。
「……願いは、“どちらか”ではありませんでした」
「星は、ふたりの“選ばなかったほう”に、想いを託します」
ソルが、目を見開いた。
ヨゾラも、息を呑む。
「あなたの願いは、“相手を還すこと”だった」
「ならば、還るのは――どちらか“ひとり”だけ」
答えは、もう告げられていた。
「……そんなの、いやだよ」
ソルの声が震える。
ヨゾラは、そっと微笑んだ。
「わたし、嬉しいよ。
あなたが、こんなにもわたしを想ってくれたこと」
ふたりの手が、もう一度強く結ばれる。
けれどそのぬくもりも、ゆっくりと消えていく。
「ねえ、ソル。最後に、ひとつだけお願い――」
ヨゾラが目を閉じ、そっと歌を紡ぐ。
♪ また逢える と信じるから
今は さよならを歌うの
光と闇を越えたとき
星の名を、もう一度……
歌の終わりと同時に、世界がほどける。
ソルの身体が光に包まれ、現実へと還っていく。
彼が最後に見たのは、
“星の花”の中で、静かに笑うヨゾラの姿だった。
――そして、箱庭は消えた。
目を覚ましたとき、ソルは涙を流していた。
――暖かな陽射し。
窓の外では鳥がさえずり、風が木々を揺らしている。
それは、確かに“現実”の世界だった。
昼の神殿。太陽の民としての居場所。
(ヨゾラ……)
彼女の姿は、どこにもなかった。
けれど、確かに彼の心の奥には、あの星の箱庭で交わした最後の“ぬくもり”が残っていた。
時間は流れていた。
世界は、何もなかったかのように動き続けていた。
ただひとつ、変わったことがあった。
それは――空の“異変”。
太陽が沈む黄昏時。
かつて夜の帳がすぐに落ちていたこの世界で、
“ひとときの明るい夜”が現れるようになった。
薄い青と金の混じる空。
星がまだ顔を出さぬまま、空に留まり続ける太陽の光。
人々はその時間をこう呼ぶようになった。
“薄明の刻(はくめいのとき)”――
昼と夜がほんのわずかだけ重なる、年に一度の奇跡。
それは、ふたりが別れた“あの夜”から、ちょうど一年後だった。
ソルは、再び“あの丘”を訪れていた。
草は伸び、花は咲き、空にはかすかな星の影があった。
「……ここに、君がいたんだよね」
彼は空を見上げた。
答えはなかった。
けれど、風がそっと頬をなでていく。
まるで――“誰か”が返事をしてくれたかのように。
風がやんだその瞬間――
ソルは、聞き覚えのある歌声を耳にした。
♪ ひとつ、ふたつ、夜に灯るは ひかりのこえ……
その旋律は、風の音と混じりながら、確かに丘に満ちていく。
懐かしい歌。
あの夜、星の箱庭で聞いたヨゾラの歌。
「……ヨゾラ?」
ソルが振り返った先には、誰もいなかった。
けれど、空の色が変わりはじめていた。
太陽が地平に触れ、星がゆっくりと瞬き始める。
光と闇の境目――“薄明の刻”が訪れていた。
そのとき。
丘の向こう、風に揺れる草の中に、
誰かがそっと立っていた。
白い服。長い髪。
そして、手には小さな“サリアの花”。
「……ソル」
その声は、確かに“彼女”のものだった。
「……夢じゃ、ないのか」
ふたりは、ゆっくりと歩み寄る。
どちらも、涙をこぼすことなく。
ただ、そこにいることだけを、確かめるように。
「わたし……もう星の巫女じゃないの」
ヨゾラは、静かに微笑んだ。
「封印が解けたの。星々が、“もう選ばせないで”って……願ってくれた」
ソルは、彼女の手を取る。
もう、離さないと心に誓いながら。
「また会えたね」
「……うん。また会えた」
ふたりの影が、薄明の光の中でゆっくりと重なる。
世界はすぐに、昼と夜に分かれてしまう。
けれどこの時間だけは、誰にも邪魔されることのない“ふたりだけの空”。
それは、再会ではなく――
“約束の続き”だった。
ふたりは、丘に腰を下ろして空を見上げていた。
沈みゆく太陽と、昇りゆく星たちが、空を半分ずつ染めている。
その景色は、かつて誰も見たことのない“はじまりの空”。
「ねえ、ソル」
「うん?」
「わたしたちがこうして並んでいること、
ほんとは今でも“掟破り”なんだよね」
ソルは笑った。
「うん。でももう、誰もそれを“罰”だなんて言わない。
言わせない。僕が、そう決めたから」
ヨゾラはそっと目を閉じる。
「……星たちも、そう言ってた。
“もう、選ばせることはしない”って」
あの夜、ふたりが願い合った“想い”は、
世界そのものを変えるには小さすぎたかもしれない。
けれどそれは確かに――誰かの心に、何かを灯した。
それから月日が流れた。
昼と夜の民は、少しずつ互いを知るようになり、
“薄明の刻”は年に一度の祝祭となった。
その名は、『星結びの宵(ほしむすびのよい)』。
ひとときだけ交わる光と闇が、誰かと誰かを繋ぐ日。
けれどその起源を、誰もはっきりとは知らない。
ソルとヨゾラの名も――
いつしか、歴史から静かに消えていった。
ただ、風の強い夜。
星がひときわ輝く黄昏に。
ふたりの影が、丘の上で肩を寄せ合っているのを見たと、
語る者がいる。
それが幻か、奇跡か。
誰にもわからない。
けれど、確かに今も、
あの空のどこかで――
太陽と夜空の恋は、生き続けている。
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『『太陽と夜空がふれた夜』』―完―