何かおかしいと思っていた。
でも
◇ ◇ ◇
子供の頃、家が貧乏でお年玉を1000円しかもらえないのが、わたしはとても不満だった。
「あーあ、両方のおじいちゃん、おばあちゃんに会えたら、4人分余計にお年玉もらえるのに。ねえ、そう思わない、
「
「それだって、お父さん達みたいに1000円ってことないでしょ」
「まあ、そりゃそうだな」
双子の姉弟であるわたし達は、あんな騒動が起きるまで祖父母の顔を知らなかった。それどころか、親戚にも会ったことがなかった。両親は多分『駆け落ち』というものをして親に絶交されているんだというのが、わたしよりませた双子の弟の海の考えだった。だから、お父さんとお母さんに聞いちゃいけないと海が言うのをわたしは律儀に守っていた。
わたし達が小学校低学年の頃、見知らぬおじいさんとおばあさんが通学路に現れていきなり話しかけてきた。
「あなた達が空ちゃんと海くん?」
わたしが『うん』と言いそうになったら、速攻、海に手で口を押えられた。
「あなた達は誰ですか?」
「わたし達は、あなた達のおじいちゃん、おばあちゃんなの。一緒にちょっとお出掛けしておいしいケーキでも食べましょうか?」
「うん、食べ……」
「駄目だよ、空! 知らない人についていっちゃ駄目ってお父さんも学校の先生も言ってたでしょ?」
「心配しないで。わたし達は、本当にあなた達のおじいちゃん、おばあちゃんなの。あなた達のお母さんも一緒に来ているわよ。ほら、あの車の中を見て」
おばあさんの指す方向をみると、路肩に高級そうな車が停まっていて、母が後部座席に座って手招きしているのが開いている窓から見えた。
母は、普段ほとんど出かけ
さすがの海も、母の姿を見て警戒心を少しだけ緩めたみたいだった。わたし達は、おばあさんと一緒に車に乗り込み、おじいさんは後続の車に乗った。
母の様子は何だかおかしかったけど、黙って両隣に座るわたし達を抱き締めてくれた。
「お母さん、本当にこの人達、お母さんのお父さん、お母さんなの?」
「そうよ。後で説明するから、今は車に乗っていてくれる?」
「うん……」
車は、わたし達が行ったこともないような高級ホテルの前で停まった。わたしは、うれしくてひたすらはしゃいだのを覚えている。でも今、思い起こすと、襟ぐりの伸びたTシャツと穴が開いて底のすり減った運動靴で高級ホテルに入ったことが恥ずかしくてたまらない。
だけど、それもほんのわずかな間の恥だった。最上階のスイートルームには、わたし達親子のサイズになぜか合った高そうな洋服や靴が用意されていた。
「おばあちゃん、本当にこれ着てもいいの?」
「ええ、もちろんよ。全部あなた達のものよ」
現金なわたしは、すぐに『おじいちゃん』、『おばあちゃん』と呼ぶようになった。海があの日、彼らをどう呼んだのか、わたしはもう覚えていない。けど、警戒心の強い海はそう呼んでいなかった可能性が高いだろう。
「着替えたら、ティールームに行ってケーキを食べようか」
「うん!」
わたしは、高級ホテルのティールームでかなり浮いていたと思う。すごくうれしくて1人で大はしゃぎしていたからだ。
ケーキの上に乗っているイチゴやメロンなどの色とりどりの高級そうな果物も、たっぷり絞られた生クリームも、口の中でじゅわじゅわと溶けていくムースも、つるんと口に入るプディングも、それまで食べた覚えがなかった。せいぜい学校給食に出たデザートの果物ぐらいだ。
「ほんとにこれ、全部食べていいの?!」
「いいわよ」
「お母様、全部はちょっと……空、あんまり食べ過ぎは駄目よ。晩御飯が食べられなくなるでしょう?」
ずっと押し黙っていた母が、やっと普通に話してくれた。わたしは、それもうれしくて心がますます踊った。
海はケーキを1個か2個食べただけでじっと座っていたけど、わたしはケーキをパクパク食べ続けた。
ティールームが急に騒がしくなって入口のほうを見ると、父が大声で叫んでいるのが見えた。わたしは怒られると思って身がすくみ、食欲が失せてしまった。母も父の声がした途端にビクッとして顔色を青くした。
「離せ! 妻と子供達が誘拐されたんだ! ここにいるのは分かっている!」
「ひっ!!」
高級ホテルのティールームに現れた父は、ヨレヨレの恰好をして幽鬼のような形相でとても怖かったが、そんな状態でも父はハンサムであり、別の意味で凄い色気があった。
一方の母は、背を丸めてビクビクしていた。その様は、綺麗な服を着ているのになぜか哀れでみすぼらしく見えた。
両親の姿かたちは、鴨の夫婦みたいなものだ。貧乏でもあんなに美男で賢い父なら、お金持ちのお嬢さんをつかまえて逆玉を狙えたはずだろう。父は、色白で鼻筋がすっと通っていて髪や瞳の色は茶色っぽくて色素が薄く、背も高くてスラッとしていた。海は父似で学校でも随分もてていた。
わたしは、母のことが大好きだったけど、母に似たわたしは美形の弟とつい比較してしまい、この容貌がコンプレックスの元になっていたから複雑だった。母の鼻は父の高い鼻と違って小ぶりで、目もつぶらと言えばいいけど、顔の作りが全部ちんまりしていた。若い頃の母はかわいかったかもしれないが、家の中にずっといるから、少し太り気味で胸がやたら大きいし、日に当たらないのに色黒だ。将来の自分がこうなると思うといつも落ち込んだ。
ティールームに乱入してきた父は、わたし達を取り戻そうとして祖父母と口論になっていた。
「さんざん、俺達を汚らしいとか言っていた癖に兄さんが死んだ途端、掌返しか?」
「この子達の前でそんなことを言わないで!」
あんなに優しくしてくれた祖父母がわたし達を『汚らわしい』と言っていたらしいことにわたしはショックを受けた。どうしてなのか不思議だった。
「妻と子供達を返さないつもりなら、
「そ、それだけはやめて!」
「じゃあ、連れて帰るぞ――久美、空、海、帰るぞ」
父が『あのこと』を口にした途端、祖父母はあっさりわたし達を帰した。
祖父母はわたし達家族を車で送らせようかと提案してくれたのに、父は固辞してタクシー代も受け取らなかった。なのにわたし達一家には、地下鉄に乗るお金さえなかった。家まで歩いて帰らざるを得なかったので、子供の足で1時間以上かかった。その間、葬式のようにどんよりとした雰囲気で誰も何も話さず、わたしだけが足が痛い、疲れたと騒いでいた。
ようやく家に到着すると、せっかく着せてもらった高級な服を脱げと父に言われた。父の機嫌が悪い時に反抗するとろくなことがないので、渋々脱いだら、父ははさみでその服をズタズタにしてしまった。
「お父さん! どうして?! せっかくおじいちゃん、おばあちゃんがくれたのに!」
「そのおじいちゃん、おばあちゃんが、お前達を汚らわしいって言ってたんだぞ。そんな人間から乞食のように物をもらうのか?!」
父は、相変わらず格好良かったけど、鬼気迫り過ぎていて怖かった。おろしたての靴にも、はさみで穴を開けられるのを諦めて黙って見ているしかなかった。
その日の夜、薄い壁の向こうから、お母さんの苦しそうな声が一晩中聞こえてきた。
「ねえ、海、お母さん、大丈夫かな……」
「大丈夫だよ。お父さんは、お母さんが大好きだからね」
海の理屈は、この時のわたしには分からなかったけど、何年も経ってから母の悲鳴が何なのか知ることになった。