「お兄ちゃん、お願い! 何も聞かずに私のことを手伝って!」
泣きついてきた妹のお願いを断るわけにもいかず、何の気なしに引き受けたのが人生を左右した出来事だといっても過言ではないだろう。
妹のお願いにまんまと乗せられ、腐女子である彼女がハマっていた『聖なる瞳の幸福』というBLゲームに同じく沼落ちした迂闊さも、人生を左右した出来事だった。
「なんでこうなるんだよ!」
イライラしたような、はたまた人生に絶望したような、そんな声をした青年がゲーム機に向かって話しかけていた。
その瞬間、ベルティアの脳内に青年がプレイしている『ゲーム』の記憶が大量に流れ込んでくる。そのゲームの舞台は『聖なる瞳の幸福』の世界。つまり、ベルティアがいま生きているグラネージュ王国の風景が頭の中に流れ込んできたのだ。
腐女子から圧倒的人気を誇る『聖なる瞳の幸福』は中世を思わせる、煌びやかでゴシックなファンタジーBLゲーム。魔法や妖精、王族などスタンダードな要素もありつつ、BLゲームとしての最大の要素は『オメガバース』という特殊設定だろう。
王族や貴族に多い、カースト上位の『アルファ』という、いわゆるチート属性。平民に多い『ベータ』という中間層。そして厄介なのが『オメガ』という最下層。
このオメガには女性も男性も関係なく発情期というものがあり、フェロモンを出して周りのアルファを誘う性質がある。定期的な発情期のせいで周りの異性や同性も関係なくフェロモンで誘ってしまうオメガは疎まれやすく、社会から冷遇されている。
そんな中『聖なる瞳の幸福』の主人公はオメガの平民でありながら特殊能力が開花し、伯爵家の養子になって王立学園に入学するところから物語はスタート。攻略対象者は第一王子、第二王子、魔術師、幼馴染の少女など。
そしてベルティアはすぐに自分の立場を思い出し、転生したという事実も理解した。ベルティア・レイク、男爵家の嫡男でありアルファの18歳。そして『聖なる瞳の幸福』の悪役令息。主人公に散々嫌がらせをした挙句、卒業パーティーで断罪されて国外追放を言い渡される。主人公は攻略対象者と無事ハッピーエンド。
今日、聖なる瞳であるセナ・フェルローネが編入してきたということは、タイムリミットはあと半年。
「……は、ぁ…」
卒業パーティーの断罪や国外追放については、それでいい。
ただ問題なのは――
「ベルティア、起きたのか。気分はどうだ?」
ゲームの本編『聖なる瞳の幸福』ではなく、ダウンロードコンテンツの『ベルティア・レイクの幸福』の世界である、ということ。
《ノア・ムーングレイ 好感度:95%》
夜の帳が下りたあとの漆黒のような色をした癖のある黒髪に、満月を思わせる透き通った金色の瞳。黒い制服が嫌味なくらい似合っている彼は、グラネージュ王国の第一王子で王太子のノア・ムーングレイ。
彼の頭上に表示されている《好感度:95%》という文字を見て唖然とする。聖なる瞳との出会いや前世の記憶がが引き金になったのか、今まで普通に生きてきたこの世界が『ベルティア・レイクの幸福』のゲームの世界に変わってしまったらしい。
今まで見えたことがなかった好感度の表示を見て、ベルティアは幻覚を見ているような眩暈に襲われた。
「ノア、殿下……」
「いきなり起き上がるとまた倒れるかもしれない。寮まで送るから、馬車が到着するまでもうしばらく寝ていたほうがいい」
起き上がろうとするベルティアの肩に優しく触れて制止する彼は、言わずもがな『聖なる瞳の幸福』の攻略対象者の一人。
ただノアの頭上に表示されている数字は主人公であるセナへの好感度ではなく、ベルティアに対しての好感度を示しているのが分かった。
「(これは、骨が折れる……)」
前世のベルティアも、その妹もハマっていた『聖なる瞳の幸福』をもっとやり込みたい層のために配信されたダウンロードコンテンツ『ベルティア・レイクの幸福』は、悪役令息であるベルティアが主人公になり生い立ちや本編の裏舞台が味わえるというファン必見のコンテンツだった。
妹が泣きついてきたのはこのダウンロードコンテンツのせいで、クリア条件がかなり難しいのだ。
「(確か、攻略対象者全員の好感度を0%にするか卒業パーティーで断罪されるか、どちらかを達成でクリアだったな……)」
主人公の幸せを邪魔する悪役令息・ベルティアの過去や生い立ちを知ったプレイヤーは、ベルティアに感情移入しすぎて『ハッピーエンド』になるように奔走しては地獄を見ると界隈では大問題になっていた。ただ、プレイヤーの意思とは裏腹にベルティアにとっての『幸福』は通常の『バッドエンド』のことで、誰とも結ばれないことがハッピーエンドになる世界。
かくいう前世のベルティアもそれはそれは苦戦を強いられ結局クリアできないまま、足を踏み外して線路に落ちてしまい、悔いが残る最期を迎えた。
「(最初から90%超えって……やっぱり、一番この人が厄介だな)」
「ベル、俺の頭に何かついているか? ずっと頭上を見上げて…どうした?」
本編ではどのルートに進んだとしても、主人公との好感度が100%だったとしても、最後までベルティアの断罪を渋っていたのはノアだった。ベルティアとノアは昔からの知り合いということもあり、特別な絆があるからだ。その『特別な絆』が、ベルティア・レイクの幸福の世界ではプレイヤーを惑わせる一番の要因なのだけれど。
「なんでもありません。不躾なことをして申し訳ありませんでした」
「責めているわけじゃない。まだ具合が良くないのかと心配しただけだ」
「お構いなく。馬車も大丈夫です、歩いて帰りますので」
「……あまり、そういうふうに言ってくれるな、ベル」
《好感度:93%》
冷たく言い放つと、ノアの好感度が下がる。
こうやって冷たい態度を取ることでノアの好感度はダウンロードコンテンツ内でも下がっていたが、ノアが本当に悲しい顔をしたり主人に叱られた犬のようにシュンっとするので庇護欲や無い母性が掻き立てられ、ベルティアと結ばれてほしい!と願うプレイヤーが続々と現れたのだ。
ベルティア自身も傷ついた顔をするノアを間近で見ると胸が痛んだが、未来のためには仕方のないことだと割り切ることにした。
「……本当に、お構いなく。殿下の手をこれ以上煩わせるわけにはいきませんので」
「煩わしいと思っていたら、お前が目覚めるまで側にいない。学園の片隅で倒れていたんだぞ?たまたま生徒が発見したからよかったものの、あのまま倒れていたらどうなっていたか……」
「放っておいてください! あなたが俺なんかを構うから、俺は……!」
前世の記憶とベルティアとしての記憶が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、混乱しているのだ。そう言い訳をするにはあまりにも大きな声が出てしまって、ベルティアは咄嗟に口をつぐむ。なんせ、ノアがひどく悲しそうな顔をしていたから。
「俺が、周りから何て言われているか、殿下もご存知でしょう?」
「ベルティア……」
「今も、聖なる瞳のセナ様の挨拶を無視してその場を去った無礼な男爵令息、と言われているでしょうね。俺は所詮、殿下に優しくしてもらえるような人間ではありません。そろそろ殿下も…自覚してください」
《好感度:91%》
ベルティアが攻略対象者と結ばれると、例外なく全員が闇堕ちする。
闇夜に静かに浮かび旅人の道標になるような、心優しく誠実なノア・ムーングレイは、ベルティアに対しての好感度が増すにつれ、周りの意見が煩わしくなり破滅の道を歩む王となる。
ベルティアを監禁し、ノアに意見する者や障害になる者たちを殺し、文字通り二人だけの世界を作るヤンデレ闇堕ちエンドだ。
「(そんな未来はいらない。だから……)」
どんな手を使ってでもバッドエンドにならなくてはいけないのだと、全ての記憶が蘇ったベルティアは固く胸に誓った。
「……せめて、馬車だけは使ってくれ」
「殿下、」
「これは“頼み”ではなく“命令”だ。歩いて帰ったら明日からは俺が送り迎えをする。いいな?」
「……分かりました。ありがとうございます」
「お前は実家を離れて寮暮らしだし、頼れる人もいないだろう? 昔馴染みとして心配くらいはさせてほしい。これは“お願い”だ」
目覚めるまで側にいた相手から冷たい態度を取られたにもかかわらずノアは優しい笑みを浮かべ、するりと肩を撫でて医務室を出て行った。そんな彼の背中を見送ったベルティアは、医務室で一人シーツを手繰り寄せて膝を抱えた。