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 金曜の夜。

 どうしても断れない取引先との飲み会があった。俺は笑顔で酒を注ぎながら、バレないように何度も腕時計を見ていた。


 時刻は午後十時を過ぎていた。いつもならもうとっくに帰っている時間。

 レイナには朝、帰りが遅くなることを話してはあるが、理解できているとは到底思えない。


 駅で、地下鉄に乗る取引先の面々を見送ったあと、俺はJRの快速に飛び乗った。

 生まれて初めて、閉まり始めたドアの間に滑り込んだ。


 あれはやってみないとわからないものだが、エレベーターのドアと違い、電車のドアは結構強引に閉まるのだな。

 挟まれかけた肩と腕が痛かった。


 最寄り駅に着くと、俺は自宅アパートまで深夜の住宅街を疾走した。

 もうじき日付を跨ぐ。せめてその前には帰りたい、と意味のないボーダーを自分で引いていた。


 本当に意味などない。相手が例えば俺を振った以前の彼女だったならば、当日帰るか翌日帰るかで心証は違ったかもしれないが。


 玄関を開けた瞬間、ぎょっとした。

 タイル張りのたたきの上に、玄関マットが放られていた。俺はそのマットを避けて革靴を脱ぎ、中へと進む。


 1DKの状態は悲惨なものだった。

 ひっくり返ったごみ箱の中身と、破れたビーズクッションから出たビーズが床中に散らばっている。

 読みかけでローテーブルに置いていた本はビリビリ。

 脱衣所に続くドアが上手く閉まっていなかったのか、そこから持ち出された俺の昨日のパンツとインナーシャツが本の代わりにローテーブルに乗っている。

 飛びつくか何かしたらしく、両開きのカーテンの片側が、レールから半分ほど外れて垂れ下がっていた。


「レイナ……?」


 いつもの部屋の隅に、彼女の姿がなかった。俺は部屋中を見回して、最後に薄く開いた脱衣所のドアの中を覗いた。


 昨日、一昨日、俺が着ていた汚れ物を枕にして、レイナは体を丸め、自分の手をガジガジと噛んでいた。

 力加減などない。唇の端から、細く糸を引く赤。


「レイナっ」


 俺は床に跪いて彼女を抱き締めた。会社に着ていく服には彼女の毛やにおいがつかないよう気をつけていたが、関係なかった。


 叱ったってしょうがない。

 そっと口を外させて、レイナの小さな手を見てみると、やはり血が滲んでいた。


「レイナ、ごめん。ほんと、ごめんな」


 レイナの手を痛くないように撫でながら、俺はレイナの毛に顔をうずめた。


「ごめんな。寂しかったよな。俺が帰ってこないから、捨てられたって思ったよな」


 熱く生温かいものが、俺の顎のあたりを撫でた。レイナの舌だった。


 捨てられたと思って悲しかったのは彼女のはずなのに、そんなことは忘れたかのように俺を労わる彼女のことが、堪らなく可愛く思えた。


 可愛い? いや、こういうのを、愛おしいというのだろう。


 次の飲み会は断ろう。どうにか上手く理由をつけて。

 仕事が少しやりにくくなっても構わない。レイナにまた、こんな思いをさせるくらいなら。



 リモートワークの日がさらに増えた。

 新人はいっそう寂しがり、同期からは小言を食らったが、俺の膝に頭を乗せて眠るレイナを撫でながら行う仕事は、なかなかはかどった。

 だから上司は何も言ってこなかった。


 世間との繋がりが、少しずつ薄まっていく。

 それに反比例して、俺は呼吸がしやすくなった。


 世間が酸素なのだとしたら、俺は酸素のない宇宙のほうが、生きていきやすいのかもしれない。


 ならば俺は、天の川の手前に立つ彦星になってみようか。

 レイナ、もしもきみが、向こう岸に立ってくれるなら。

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