「好きです。私と付き合ってください!」
少年――
何か返事をしなければ、と思い口を開けるも上手く声が出せなかった。それ以前に息の仕方を忘れてしまうほど動揺していた。
「わ、私じゃ、駄目? かな……」
無言の時間が彼女の胸の内に不安を募らせる。
天真爛漫で自他共に認める陽キャな少女――
そんな沙耶が友達と話す時に見せる太陽のような笑顔とは対照的な沈んだ表情を浮かべる。途端にぱっちりとした瞳に大粒の涙がたまり溢れそうになる。
少しでも振動を与えればポロポロと流れ出て来そうなそれを晴也は見たくなかった。
「ぼ、僕も……僕も片桐さんのことが好きです! つ、つつつつ、付き合ってくだひゃい!」
噛んじゃった。
やっと声が出たと思ったらこれだ。
晴也は初めての告白に対しての一世一代の返事を噛んでしまった。次の瞬間、心臓がはち切れんばかりに早鐘を打ち、恥ずかしくなって手で顔を覆った。そうしなければ顔に籠った熱がばれてしまうと思ったから。
しかし、沙耶はクスッと笑ってこぼれそうになった涙を拭い、とびっきりの笑顔を見せて口を開ける。
「耳まで真っ赤だよ。五条くん」
嬉しそうに話す彼女の表情が晴也の脳裏に深く焼き付く。
幸福に満ちた幸せの一時。
それが今日の夕方、高校最後の夏休みに入る直前に起きた出来事である。
☆☆☆☆☆☆
夜の闇に町が染まり街灯だけが寂しく照らしてくれる。均等に照らされた道路を一つの影が駆けた。必死に地面を蹴る足音や今にも吐き出してしまいそうな激しい息遣いが静かな夜に木霊する。
いったいどこまで走ればいいのか。
人気のない路地を少年はひたすらに走った。走らなければならなかった。
死にたくない。いや、今はもう死ねないに変わった。せっかくできた彼女に悲しい思いをさせたくない。
しかし、その強い意思とは比例せず、ふくらはぎははち切れんばかりに締め上げられついに思い通りに動かなくなった。直後に足がもつれてその場に顔面から勢いよく転げてしまう。
口の中が鉄の味でいっぱいになる。鼻血も出て呼吸もしづらい。
荒い息遣いで立ち上がろうとするも足だけでなく全身が強張って言うことを聞かなくなっていた。無理もない。すぐそこまで絶対的な『死』を連想させるそれが来ているのだから。
少年は恐る恐る振り返るとそれはいた。
全身が黒く、鼻をつんざくような悪臭を放っている。頭には蟻のような触覚が額から生えており、口から見える歯はまるで乱杭歯のようになっている。目は人間と同じく二つあるが、瞳はなく、白目のみで夜の闇でも十分に分かるほど不気味に光っている。手足に生えた爪は鋭い刃物のようで、腰の辺りからは先端が鋭利に尖った尻尾が生えている。
人間と似通ったシルエットをした人型の化物。
それが少年の、晴也の命を貪るため白目を細めて狙いを定める。
「く、来るな!」
晴也は精一杯叫んだ。
化物はそんな晴也の声を聞いて口角を少し上げる。
『ケケケケケッ!』
化物が笑った。まるで抵抗することができない晴也を蔑むように笑った。するとゆっくりと歩を進め晴也に近づく。もう晴也に逃げる力が残っていないと確信したからだ。途端に口元から溢れ出す唾液がアスファルトの地面をけがしていく。その背後では尻尾がまるで独自の意思を持っているかのように蠢く。
晴也は化物が一歩ずつ進む度に必至に地面を這おうとする。しかし、やはり身体は言うことを聞いてくれない。
――終わった。
そう思ったまさにその時だった。
化物が何かに気付いたのか歩を止め、驚愕を露にしながらうろたえ始める。その目は晴也ではなく、その後ろに向けられていた。
晴也は何がなんだか分からず、化物の反応に釣られて振り返る。
そこには女性のような見た目をした人型のロボットが立っていた。いや、違う。細身な体躯と全身にベージュの装甲を纏った人間が立っていた。
まるで特撮ヒーローのようなパワードスーツとも言うべき鎧を身に纏ったその人物は、化物と目が合うやおもむろに駆け出す。
まるで疾風の如く地面に這いつくばる晴也を横切るや化物に飛び蹴りを食らわせる。
化物はそのまま吹っ飛ばされアスファルトの地面に身体を強く叩きつけてのたうち回っていた。
「立てる?」
やはりと言うか、女性の声がした。優しいと言うより少しぶっきらぼうな印象が伺えたが、どうしてだか晴也はその声に聞き覚えがあった。顔を見ようとしたがフルフェイスマスクのような装甲で頭が覆われているため見えなかった。
「す、すいません。まだ、足が……」
晴也はまだ足が震えて動けないでいた。
そんな晴也を女性は凝視していた。まるで晴也のことを知っているかのようにジッと見つめていた。
「あ、あの……」
たまらず晴也が問い掛けた瞬間、化物が勢いよく立ち上がり咆哮した。
『おのれレガリア使いめ!』
化物は地面を強く蹴り駆け出すや女性の鎧に包まれた身体を引き裂こうと右手を振り上げる。
月光に閃く五指の爪。しかし、それよりも美しく閃く短剣が綺麗な軌跡を描く。いや、晴也が気付く頃にはすでに描き終わっていた。
化物の右腕の肘から先が宙を舞う。化物はまるでヘドロのような血を噴水のように出して膝をつき悶絶する。
状況から察するに『レガリア使い』と呼ばれた鎧を纏った女性がどこから取り出したのか短剣を振るい、化物が攻撃するよりも速く右腕の肘から先を切断したのだ。あまりに鮮やかで、そして素早い動きに晴也は目で追うことも気付くこともできなかった。
「これで、とどめだ!」
鎧を纏った女性が短剣を振り上げる。
だが、化物もまた生存本能だろうか葬られまいと右腕を横薙ぎしてヘドロのような血をまき散らす。
女性は舌打ちをして後方に飛び退くがその隙をついて化物は消えてしまった。
「しまった!」
女性は慌てて化物が消えた場所に駆け寄るが時すでに遅かった。逃がしてしまった。その事実が憤りとなり拳を強く握らせる。だが、その怒りは次の機会に取っておこうと最後には振り払っていた。
そんな女性の背後で晴也は命の危機を脱したことを直感するも恐怖で身動きが取れないでいた。
女性はやれやれと言った雰囲気を醸し出しながらゆっくりと歩み寄る。
「相変わらずビビりなままだね」
「え?」
「それじゃ。もう夜の町を出歩かないようにね」
そう言って女性は跳躍し、夜の闇へ颯爽と消えていった。
残された晴也がようやく歩き出せるようになったのは夜空が白んできた頃だった。