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第16話:弟の未来は、彼にとって橘真希の飼い犬ほどの価値もない


「タクシーなんて呼んでたら間に合わないわ!」

玄関から鍵を取り出し、青子は彼女に手渡す。

「あんたが一秒でも遅れたら、恒が一秒長く苦しむのよ、早く行って!」

今の状況では本当にタクシーでは間に合わない。

恒のことを思い浮かべ、梨々は腕の痛みも忘れてキーを握りしめ、階段を駆け下りた。


一時間後、港区にある周防法律事務所。

高級オフィスビルの一角に構えるこの場所は、落ち着いた外観と信頼の看板を掲げる業界でも名高い大型法律事務所だった。

車を降りた梨々が目にしたのは、見覚えのある後ろ姿。

東雲琢磨。

今日はラフな白いシャツ姿で、上着さえ羽織っていない。海風に裾がなびき、腕まくりした袖口からは、血管の浮いた手首と骨ばった手の甲が覗いている。

彼の腕には橘真希が寄り添っていた。疲れたように、しなだれかかっている。

その向かいには、琢磨の長年の友人であり、弁護士業界の重鎮でもある周防仁一が立っていた。

「琢磨、俺に無理を言うなよ。神崎恒の件はもう把握した」

周防の声には疲れが滲んでいた。

しかし琢磨は即座に言い返す。

「把握しただけだ。まだ正式な委任契約はしていないだろう。

真希の案件は、君が直接やってくれないと困る」

その一言に、橘真希はさらに琢磨の腕をしがみつく。頼りなげな表情がまた彼を引き止める。

周防は眉間を押さえ、ため息をつく。

「俺は前世でお前に何かしたのか……?」

橘真希は小さな声で言った。

「琢磨くん、無理しなくても……周防先生じゃなくても、他の弁護士で大丈夫だよ。大した事件じゃないし……」

「いや、俺が安心できるのは仁一、お前だけだ」

琢磨が周防の肩を叩く。

その一言で、周防は何も言えなくなった。

そうして、東雲は橘真希を連れて車へと向かう。


階段下から見上げる梨々。

今交わされた会話を、彼女は一字一句聞き漏らしていなかった。

──遅かった。琢磨に先を越されしまった。


すると、琢磨は一度立ち止まり、周防に視線を送る。

周防はすぐに察し、彼女の方へと階段を降りてきた。

「彼女には適当にあしらえ」

──言葉にしなくても、そういう指示だったのだ。

梨々の目の前で、東雲は橘真希のためにドアを開け、安全ベルトを締め、何も言わず運転席へと回り込む。彼女を見ることはなかった。

車は走り去った。二人の姿は視界から完全に消えた。


「神崎さん」

隣に来た周防仁一が静かに言った。

「弟さんの件は、事務所でもっとも経験のある弁護士をつけさせていただきます」

梨々は目を伏せ、鼻をすんと鳴らしながら言った。

「……先生ご本人にはお願いできませんか?」

しばしの沈黙。

周防は手元の書類を開いた。

そこに記されていたのは、新たな委任状──依頼人は「橘真希」。

内容は、彼女の飼っている純血種の犬が近所の住人に蹴られて肋骨を折った件。加害者への慰謝料および治療費の請求。

──犬。

東雲琢磨は、この案件を最優先にした。

義弟・神崎恒が世間の糾弾を受け、刑事告発されているというのに。

この書類はまだ署名されていない。だが、いずれ必ず署名される。


「神崎さん」周防がトンを抑えて続けた。

「私も一通り目を通しました。確かに、相手方には当たりやの疑いもあります。ただし既に全国放送で報じられ、世論が形成されてしまった今、この手の事件は覆すのが難しい。しかもご弟弟が高級車を運転していたことで、『富裕層が弱者をいじめる』という構図ができてしまった」

梨々の心が軋んだ。

その最初の一言で、すべてが分かっていた。

東雲琢磨の後ろ盾を頼りにしてきたこの数年間、彼の「庇護」を自分のものだと錯覚していた。

けれど、彼は一度たりとも自分のために「戦って」くれなかった。

そして離婚を控えた今、自分は「何者でもない」。


梨々は静かに頷いた。

「……よろしくお願いします」


* * *


午後、梨々は案件を引き継ぐ弁護士と面会した。

名は山口誠一。周防事務所でも名の知れたベテラン。50代、法廷経験30年の実力者。

彼は申し訳なさそうに言った。

「本来は周防先生が担当されるはずでした。委任状も用意されていたのですが……

急遽、私に変更となりました。全力は尽くします」

資料をめくりながら、彼のため息が続く。

「神崎さん、率直に言わせてもらいます。この手の飛び込み型の事故は、証明が非常に困難です。ドライブレコーダーの映像は不完全、監視カメラもない、被害者が自ら飛び込んだ証拠がなければ無罪の主張は厳しい。過去の前科や背景が見つかれば別ですが……」

「理解しています」

梨々は唇を噛み、拳を握りしめた。

「ですが、引き受けた以上は全力で動きます」

山口は委任状を差し出した。

梨々は黙って署名した。

握手を交わし、山口はきっちりと言い添えた。

「これからは分担です。私は被害者側の背景を調査します。あなたとご家族は、相手遺族との接触を試みてください。謝罪や和解が成立すれば、我々にとって大きな追い風になります」

梨々は頷いた。

そして事務所を出ようとエレベーターに向かったところで、偶然耳に入った若手弁護士たちの会話。


「うちの事務所、犬の訴訟までやるようになったんだな……」

「橘真希さんちの犬らしいよ。東雲社長の関係ってことで、周防先生が直々に動いてるんだと」

「えっ、あの周防先生が?離婚案件ですら断ってたのに、今度は犬かよ……」

「でもさ、あの犬、血統書付きの超高級犬で、一匹数百万するらしいよ」


エレベーターのドアが開く。

梨々は真っ青な顔で乗り込んだ。

──分かっていた。

弟の未来は風前の灯。

けれど、自分が愛してきたあの男は、平然と弟を、橘真希の飼い犬よりも「下」に置いたのだ。

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