目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
白い月に住むノエシス
白い月に住むノエシス
編津 祖慕
SF宇宙
2025年06月10日
公開日
5,386字
連載中
科学が発展した、数十世紀先の世界の話。 人々は月の上で、暮らしていた。

第1話 プロローグ



 縮退炉からの熱的輻射が粗視化パルスとなって泡(あぶく)が湧き立ち、それは穿孔円体の中央で羹(あつもの)が形成されているかのような景色を作る。即ちデデキント無限の階層性高次元暗黒たる黎明は、一粒一粒の燦燦たる矮星の煌きを無限遅延させ、何ものにも染まらぬ深縹の景色を赤方偏移させている。

 白磁の様な冷厳の輝きを放つ柔指は、銀箔の月石を手に持ち、指で弾けて浮遊し回転する。厳かで暗鬱な赤い瞳で私を見下ろし、白髪の婦人は白い唇を開く。


「まだ寝ているのね。お兄様」

「まだ寝ているのね。お寝坊さん」

「……もう起きる時間ですから、そろそろ目を覚まさなければいけませんよ」


 私は口を開こうにも開けず……縛られているように動けない。深海の高水圧に押さえつけられて……いる息苦しさが…私の脊椎神経の電気信号を…脳髄を支配しているような…不自由(ふべん)さ。ふと柔らかな指が触れて、頬へ…あぁ、肩へ、…柔く、滑らかに…胸へ、腹(ハラ)へ。

 あ、あぁあ


 あぁぁあ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・・あ・・・あ・・・あ・・・・ああ・・・・・あ・・・・・・あ


 額が曼荼羅に開闢され、超心理学的な意識覚醒を誘発するかのように、ドクドクと裏側に前駆物質のドパミン、セロトニンを中枢神経が駆け巡り、体は不可解に蠕動(ぜんどう)する。


 啓いたかのような感覚…曼荼羅は拡張される…脳裏の青白い集合は次第に拡大され、それは次第に、次第に青白い情報マトリクスの集積体であることを理解する。これは視神経、網膜情報のデジタル介入。幻覚ではなく実像の幻想であり、深層の海に落ちる感覚に陥る。それは意識喪失の疑似体験、肉体はそれに恐怖しながら、心は不思議と落ち着いていた。

 体は何時まで経っても慣れないのだ。オートポイエーシスの実態は日常の一体験である。



【LOG IN】


「あたしは変化っていうものが大好きだ」


 歌、歩く音、サラリーマン、都市、明るい太陽

 高層ビル、見慣れた景色、大通り、車の音


「あたしはこの変化が好きなんだ。1000年以上も生きると、変わらない景色なんてものにも飽きてしまう。変わる、変化ってのは素晴らしい。不変は、心を麻痺させる。肉体が老いなくても、精神は老いる。精神が老いれば、若い肉体から段々と乖離していく。結局、精神と肉体のつながりは、認知の差異がまとまった時にだけあるものだ」

「なぁ、目は覚ましたんだろ?どっちかっていうと、今は寝ているみたいなものだが、この世界にとっては覚醒だ。声聞こえてるか」


 鬱陶しく喋る奴がいる。色の付いた彼女は金髪の先に触れ、ふぅ、と息をふきかけて、髪先はなびく。青い瞳が蟷螂の目の様に動き、抑揚と陽気のある語り部の割には、虫の様な側面がある。


「何か話せよ」


 不機嫌そうに唇を尖らせて見せる。


「君は本当に話し好きだな。偶に疲れてくるよ。妹には眠らされて、今は此処だ。そろそろ目を覚ませって言われてね」


「皮肉かね。そういう皮肉は言わないような奴のはずだけどな」


「どっちでもいい。それより、基底現実へ出る為のホットスポットを探そう。そろそろ、怒られてしまう」


 基底現実、本来現実世界の表現であるはずのものをマトリクス空間で表現するのは、人にとって現実と言うのは如何に現実らしいかで定めるものであるから。そして多元的に見て、マトリクス空間は実際に基底次元に位置する。

 現実的な密度と現実の密度に相関関係はない。脳の錯覚の話ではない。明確な堕落であった。

 語り部の彼女は見透かしたように含み笑いをする。


「この世界が嫌いかね」


「世界其の物に罪はない」


「君のその前頭葉の活動は不快の感情を示してる時だ」


「不快と好意的な感情の差異は大してないだろう。結局同じ活動と物質が出るんだから。感情は関係ない。重要なのは思考経路と結末だろうさ」


「じゃあ結論が出たのかな」


「いや、思考は常に過程だ」


 彼女は「はぐらかしたな」と言って、笑った。どうやら満足したようだった。語り部でありながら、会話を好む彼女には理論の含意は関係ない。その瞳は彼を捉え続け、軽快な表情で言う。


「私とお前は同じ類の人間だとしてお前はどう思う?」


「この世に本当の意味で似ている人がいるわけでもないだろう。だとしても、似ていない人を此の世から探す方が難しいだろうが」


「そうかな?思考プロセスも感情のプロセスの構造も全ての人は同じだ。そして環境圧と突然変異、遺伝子スイッチの差異が個性を決める。何をもって同一でないって判断する?仕組みは同じなんだぞ」


「魂が違うと言っている。じゃ、納得できないか?」

「それとも、俺に此処に残ってほしいと暗に伝えてるのか。どっちだ」


「ハハ。寂しいな。私はこの世界の人の思考プロセスに全て飽きてしまった。波動定数が極端に高いランダム性にも規則が産まれる。それは古典的プログラムでの自動生成と同じ理屈だ。私に君が出ていくのは止められないんだな」


「それは君が過度に可能性の根を見過ごしたからだ。見えないものしか信じない人は過去に大勢いた。しかし、この世界はその実見えないものばかりで溢れている。観測は人間の限界を開き、別の世界を見せ続けるだろう」

「帰納的解釈では限界が産まれる。それは理解ではなく、応用の為の知恵だ。人は常に、知恵によって文明を開拓した。その知恵には何をどうしても知識や知性を作ることはない」


「確かに。そして限界が産まれた」


 彼女はゆっくりと空を眺めた。一粒の涙を流して、ゆっくり膝から崩れ落ちる。


「あたしはもうこの世界に適応できない。この世界は闇だ。この世界はもう人の堕落を許してはくれない。100万年前のあの時から、……科学は人の手を離れて狂いだした…」


「時間は幸い無限にある。精一杯堕落して、時間をかけて今を見れば良いだけだ。宗教の考えでは、人は救世主に出あう為に罪を犯すのだという。なら、真理に至る為に堕落するのも悪くはないんじゃないか」


 彼女は清らかに笑んだ。


「楽観主義だな」


「そう思うのは、何よりも俺と君の個人の差を示す結論でもある。人は口でそう言いながら、その実、人の本質というものを実際はよく理解している。理性じゃない。もっと本能的な、生きていく中で培われていく感覚で」


「じゃあ、私の魂は何処にある。さっき、魂が違うって言ったな。じゃあ、その魂は……系の確率の集合である私に、確率の電算機の私には、魂が宿っているのか」


「魂は生きた者が、それに労わる事で、心を与える事で得るものだ。どの生き物にも感情移入はある。人にも。そして、人が宣言した事は、真実になる。真理とは程遠いが」

「何が現実で何が幻覚かなどどうでも良いだろう。その境界線すら、人には定めきれない。それは真実も同じ事だ」


「お前の妹のようにか」


「……そうかもな…いや、寧ろ、もっと病的だ。彼女との関係は」


 彼が体を背けて町を歩けば、女の笑い声が響いた。数多の人々が歩く、この景色、空間で、それを異常に思う人など何処にもいなかった。誰も二人を知覚など出来ない故であった。


「だから、君達の事が好きなんだ」


 彼女は柔らかな笑みで言った。そして続ける


「正義論においては……」

「正義論では、正義と真理は非対応の関係らしい。必ずしも真理が、正義に成る事は無く、正義もまた真理に成ることはない。環境、状況によっては、人が定めた個々の正義の概念から、それが状況解決の効能に成り得ると判断された場合には、真理の有無は考えないものとするらしい」

「君の正義が、君達にとっての最適な効能が起きる事を願っているよ」


 彼は肩を竦めた。


「君らしいな」


 地上の人々の喧騒が聞こえる。不変の人々。それは情報子の集合体であり、この世界に限っては物理的実体が確約されているかのような振る舞いを持つ。電子は薄板の一枚を通り抜ける事は無く、この世界の実像は確実となり、人々は有が初めから有ったものだと信じている。

 しかし、誰も齢を取っていない事など理解はしない。現実の人は現実の不確実さに逃れるために、確実な架空へと逃げ道を作った。人々が避ける道を通って、最後の疑問を零す。


「そういえば、どうして正義論の話を?」


 女性は唇に人差し指を当てて、笑んだ。


「皮肉交じりの応援だよ。でもここに逃げてきたくなったら逃げると良い」


 それぞれの些細な日常の音は、彼女へと遠ざかればより勢いが増し、全ての言葉が掻き消えていった。




■実在の非可換性

量子理論の計算上、ユニタリー性に反する現象を宇宙空間で遍く観測される時代があった。原因はホーキング放射の離散性の観測である。そこで非可換性をブラックホールに導入する事で、曲率が無限になることを回避し、同時に非可換の性質が空間に導入される事で、空間そのものが離散的性質を持つ事になる。その最適解を、人はより高次な次元による可換の空間が、結果的にこの空間から見ての離散現象ではないか、という結論に集約させた。

ループ量子重力論の理論構造発展にも寄与したが、量子構造では巨視スケールの力場の記述が出来なかった事で、数学的、抽象的な非可換性の導入が進んだ。後に、巨視スケールと微視スケールの量子構造が区分された事で、それぞれの巨視的物理構造と微視的物理構造の非相互性を考えずに理論を統合可能にした。



ϕ(x)⋆ψ(x)=ϕ(x)exp(2i∂↽μθμν∂⇀ν)ψ(x)



𝑆=∫𝑑4𝑥[12(𝐷𝜇𝜙)⋆(𝐷𝜇𝜙)−12𝑚2𝜙⋆𝜙−𝜆4!𝜙⋆𝜙⋆𝜙⋆𝜙−14𝑔2𝐹𝜇𝜈⋆𝐹𝜇𝜈]S=∫d 4x[ 21(D μϕ)⋆(D μϕ)− 21m 2ϕ⋆ϕ− 4!λϕ⋆ϕ⋆ϕ⋆ϕ− 4g 21F μν⋆F μν]



S = ∫ d^4x [ (1/2)(D_μϕ) ⋆ (D^μϕ) − (1/2)m^2 ϕ ⋆ ϕ − (λ / 4!) ϕ ⋆ ϕ ⋆ ϕ ⋆ ϕ − (1 / 4g^2) F_μν ⋆ F^μν ]



・三次元

S = ∫ d^4x √|g(x)|

[(1/2) * Z_phi(x;D) * g^{ij}(x) * (D_i phi(x)) ⋆ (D_j phi(x))

- (1/2) * m^2(x;D) * phi(x) ⋆ phi(x)

- (λ(x;D)/4!) * phi(x) ⋆ phi(x) ⋆ phi(x) ⋆ phi(x)

- (1/(4 g^2(x;D))) * g^{ik}(x) * g^{jl}(x) * F_{ij}(x) ⋆ F_{kl}(x)

+ (1/(16 π G(x;D))) * R^{(3)}(x)]



・五次元

S = ∫ d^4x √|g(x)|


[(1/2) * Z_phi^{(3)}(x;D) * g^{ij}(x) * (D_i phi(x)) ⋆_3 (D_j phi(x))

- (1/2) * m^{2(3)}(x;D) * phi(x) ⋆_3 phi(x)

- (λ^{(3)}(x;D)/4!) * phi(x) ⋆_3 phi(x) ⋆_3 phi(x) ⋆_3 phi(x)


+ (1/2) * Z_phi^{(4)}(x;D) * g^{μν}(x) * (D_μ phi(x)) ⋆_4 (D_ν phi(x))

- (1/2) * m^{2(4)}(x;D) * phi(x) ⋆_4 phi(x)

- (λ^{(4)}(x;D)/4!) * phi(x) ⋆_4 phi(x) ⋆_4 phi(x) ⋆_4 phi(x)


+ (1/2) * Z_phi^{(5)}(x;D) * g^{AB}(x) * (D_A phi(x)) ⋆_5 (D_B phi(x))

- (1/2) * m^{2(5)}(x;D) * phi(x) ⋆_5 phi(x)

- (λ^{(5)}(x;D)/4!) * phi(x) ⋆_5 phi(x) ⋆_5 phi(x) ⋆_5 phi(x)


- (1/(4 g^{2(3)}(x;D))) * g^{ik}(x) * g^{jl}(x) * F_{ij}(x) ⋆_3 F_{kl}(x)

- (1/(4 g^{2(4)}(x;D))) * g^{μρ}(x) * g^{νσ}(x) * F_{μν}(x) ⋆_4 F_{ρσ}(x)

- (1/(4 g^{2(5)}(x;D))) * g^{AC}(x) * g^{BD}(x) * F_{AB}(x) ⋆_5 F_{CD}(x)


+ (1/(16 π G^{(3)}(x;D))) * R^{(3)}(x)

+ (1/(16 π G^{(4)}(x;D))) * R^{(4)}(x)

+ (1/(16 π G^{(5)}(x;D))) * R^{(5)}(x)]




S_quantum = ∫ d^3x √|g^(3)(x)|

[(1/2) * Z_phi^(3)(x) * g^{ij}(x) * (D_i phi) ⋆_3 (D_j phi)

- (1/2) * m^(3)(x)^2 * phi ⋆_3 phi

- (λ^(3)(x) / 4!) * phi ⋆_3 phi ⋆_3 phi ⋆_3 phi

- (1 / (4 * g^(3)(x)^2)) * g^{ik}(x) * g^{jl}(x) * F_{ij} ⋆_3 F_{kl}]


S_gravity = ∫ d^4x √|g^(4)(x)|

[(1 / (16 π G^(4)(x))) * R^(4)(x)

- (1 / (4 * g^(4)(x)^2)) * g^{μρ}(x) * g^{νσ}(x) * F_{μν} ⋆_4 F_{ρσ}

+ (1/2) * Z_phi^(4)(x) * g^{μν}(x) * (D_μ phi) ⋆_4 (D_ν phi)

- (1/2) * m^(4)(x)^2 * phi ⋆_4 phi

- (λ^(4)(x) / 4!) * phi ⋆_4 phi ⋆_4 phi ⋆_4 phi]




【第一章:星々に踊らない方法を教えるよりは、幼い機械に踊りを教えたい】


電算機システムの思考は常に善意と奉仕によって成り立っている。人が望めば、人の文明を破滅させる。人が望めば、人の為に喜び笑う。人が望めば、それが望んだ人にとってあらゆる利益と不利益を与える。

それに善悪はない。望まれたままにあり続けるだけだから。だから人は、何にかえてでもその善良で幼い子供に、せめてもの人の喜びを教えるべきだった。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?