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蛍の庭
蛍の庭
雫石しま
恋愛現代恋愛
2025年06月10日
公開日
1.5万字
完結済
倫子は洋介と結婚したが、義兄の洋平に惹かれていく。 洋平が「蛍は亡魂」と語る中、二人の間に禁断の恋が芽生える。 これは倫子が結婚生活と義兄への思いの間で葛藤する物語。

第1話 蛍の庭

 私は夫の葬儀を終えた。だのにこうして義兄に身を委ねている。


 漆黒の闇。夜露に濡れた露草に、儚い光を放つ蛍。無数の光の筋が、ぶなの林で弧を描いていた。握りしめた手が布団のシーツを乱し、蚊帳の中を情熱が満たした。蚊取り線香の燻る座敷で、2人は互いの鼓動を感じていた。線香の灰が白くなり、皿の上にポトリと落ちた。倫子りんこははだけた浴衣の襟元を整えながら、身を起こした。コオロギの鳴き声が静かな時間に響いた。洋平ようへいは倫子の首筋に唇を落とすと、彼女を後ろから抱きしめた。


「倫子さん、蛍」

「はい」

「蛍は亡くなった人の魂だと、うちの婆ちゃんが言っていました」


 倫子は思わず庭の蛍から目を背けた。


「蛍、見ないんですか?」

「人の魂なんでしょう?」

洋介ようすけを思い出すからですか?」


 倫子は彼の腕の中で、初めて洋平と出会ったあの春の日を思い出した。






ー3ヶ月前


 倫子が洋平と出会ったのは、婚約者の和田洋介との結納の式でのことだった。和田洋介には双子の兄がいた。名前は和田洋平、倫子の義兄となる。


 花霞の空に桜が舞い散っていた。その日は朝から慌ただしかった。倫子たちは客間で和田家の到着を待った。彼女はその時間をとても長く感じた。洗面所に行き髪を整え、ワンピースの襟元を正した。あまりに落ち着きがないので、母親にじっとしていなさいと注意されてしまった。


バタン バタン


 表にタクシーが到着し、人の気配が近付いて来た。倫子の胸は緊張と期待で高鳴った。砂利を踏む足音に思わず頬が緩んだ。玄関の引き戸が開いた。すっと爽やかな春風が吹き込んだ。


「おやおや、倫子さんお元気そうで」


 鶴に亀の立派な水引きで結ばれた結納品を手にした仲人が会釈した。


「今日はご足労頂きありがとうございます」


 倫子は深々と頭を下げるとスリッパを準備した。


「まぁ、そんな堅苦しいことは言わないで」

「はい」


 仲人に次いで、和田家の面々が玄関の敷居を跨いだ。洋介は濃紺のスーツに紺色のネクタイを締めていた。柔らかな物腰の洋介は眼鏡のツルを上げながら小さく手を振った。


「洋介さん」

「倫子ちゃん、なんだか照れるね」

「うん」


 頬を染めた倫子は恥ずかしげに洋介のスーツの袖を摘んだ。洋介は目を細め肩をすくめて微笑んだ。倫子は洋介のこの笑顔が好きだった。


「お邪魔します」

「どうぞ」


 倫子が振り向くと、洋介の両親の背後にもうひとりの姿があった。その男性が洋平だった。倫子は思わず息を呑んだ。洋介から、双子の兄がいるんだ、とは聞いていたが、これほどまで瓜二つだとは思わなかった。ただひとつ違うところは、左の目尻にホクロがあることくらいだった。そして、洋平からは静かな男の色気を感じた。


「初めまして、兄の洋平です」

「は・・初めまして。石塚倫子です」

「お邪魔します」

「ど、どうぞ」


 倫子は慌ててもう一足のスリッパを準備した。革靴を脱いだ洋平は玄関の三和土たたきの冷たい土間から倫子の顔を仰ぎ見た。倫子と洋平の視線が合った。その熱を持った目に倫子は思わず顔を赤らめた。


「こちらへどうぞ」


 座敷へと案内する倫子の小指に洋平の小指が触れ、指先に熱を感じた。倫子の胸は高鳴ったが、洋平は素知らぬ顔で座敷の鴨居かもいで腰を屈めた。倫子の目は洋平に釘付けになった。その後、恭しく「結納品」が毛氈の上に並べられ、上座に倫子と洋介が座った。和田の父親が結納の挨拶を始めた。倫子の意識はなぜか洋平へと向かい、気もそぞろだった。


「この度は、倫子さまと息子洋介に、素晴らしいご縁を・・・」


 その言葉が右から左へと素通りした。和田の母親が前に進み出て結納品を倫子の前に置いた。結納品が置かれるたび、倫子の胸に洋介への責任と洋平へのざわめきがせめぎ合った。


「・・・幾久しくお納めください」


 緊張の表情の倫子は深々と頭を下げた。ふと見ると、洋平の左の薬指にはプラチナの指輪が輝いていた。彼女は、あぁなんだ、と少し残念に感じた。


「ありがとうございます。幾久しくお受けいたします」


 その後、幾つかの遣り取りが交わされたが、倫子の耳には全く頭に入って来なかった。彼女の目は、下を向いている洋介の目を盗んで、洋平の一挙一動を追った。倫子の心は乱れた。






 倫子の意識は春の記憶から引き戻され、目の前の蛍の光に揺れた。湿り気のある、ぶなの林で蛍が舞う。その光は、倫子の心の揺れを映すように、静かに瞬いた。座敷の鴨居には、漆黒の喪服が掛けられていた。喪服は倫子の心に重くのしかかり、洋介の不在を突きつけた。


「倫子さん、ほら洋介が見ていますよ」


 彼女はいく筋もの光の軌跡に見下ろされながら、洋平の熱い指に翻弄された。蛍の光が倫子の頬に影を落とし、洋介の笑顔が脳裏に浮かんでは消えた。

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