寺の本堂には読経が流れ、線香の香が燻った。倫子は参列者にお辞儀をしながらハンカチで涙を拭いた。彼女は洋介と過ごした僅かな時間を手繰り寄せ、遺影の穏やかな微笑みを見上げた。遺影を見上げた瞬間、倫子は洋平のプロポーズと洋介の裏切りの間で揺れた自分の心を思い出し、涙がさらに溢れた。参列者のざわめきの中で、中村莉子の名前が囁かれ、倫子は一瞬白檀の香りを思い出した。
親類縁者の席には遺影と瓜二つの顔の洋平の姿があった。その口元は、悲しみの中に微かな笑みを浮かべていた。彼の笑みは、洋介の遺影と一瞬重なり、倫子にはどちらが本物の笑顔か分からなかった。
洋平は、洋介に婚約者である中村莉子を寝取られたことを恨んでいた。そこで洋介が不倫していることを承知の上で、そのことを倫子に話さなかった。初めは逆恨みで洋介の家庭が壊れれば良いと思っていた。ところが、倫子を油絵のモデルに誘い接近するうちに彼女に惹かれていることに気がついた。そんな時、洋介が事故に遭い急逝した。洋介の車に同乗していた中村莉子は即死だった。過去はすべてリセットされた。洋平は洋介に勝ったと笑みを浮かべた。
(洋平さん、まさか笑ってる?)
倫子が洋平の笑みを見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
漆黒の闇。夜露に濡れた露草に、儚い光を放つ蛍。無数の光の筋が、ぶなの林で弧を描いていた。洋平は倫子の首筋に唇を落とすと、彼女を後ろから抱きしめた。
「倫子さん、蛍」
「はい」
「蛍は亡くなった人の魂だと、うちの婆ちゃんが言っていました」
茶箪笥の洋介の遺影は裏返されていた。
「蛍、見ないんですか?」
「人の魂なんでしょう?」
「洋介を思い出すからですか?」
洋平は陰のある笑みを浮かべると、無言で浴衣の胸元に指を滑り入れた。洋平の指が彼女の肌をなぞると倫子は息を呑んだ。
「蛍が倫子さんを見ていますよ」
倫子は今夜も洋介の面影を追いながら洋平に抱かれた。彼女は身体の芯に火を灯すそれが誰なのか、蛍の瞬きに問い掛けていた。
了