個室の喧騒がぱったり止んだ。
皆が入り口の方へ視線を向け、一瞬で恐怖が顔中に広がる。
息をのんだ沈黙の中、初は暗がりの最深部へ歩み、神谷悠真と望月美香の前に立った。震える体を必死に支えながら問い詰めた。
「何してるの?」
神谷悠真が美香の手首を掴み、床に押し倒す。
「母上が決めたことだ。誰にも覆せない」冷たい声が響く。
「それに航に変なことを教え、初を傷つけた。お前を処分しなかったのは、情けだぞ」
美香はみっともなく床に転がり、手足の痛みに顔をゆがめた。初を見上げる目は憎悪に燃えていた。
「そ、そうだよ! 航ちゃんに悪影響で初さんを悲しませたんだぞ! 悠真が情けかけてるだけだと思え!」
一同は安堵の息をつくと、口々に初へすがる。
「航に悪教えやがって、初さんを悲しませるなんて!」
「誰にも初さんを傷つけさせません!」
西野啓太が美香の腕をぐいと掴む。
「初さん、すぐに追い出します!」
ついさっきまでの歓待が嘘のように、美香は奈落に突き落とされた。
美香が激しく抵抗すると、初は偽りの集団を見て吐き気を覚えた。
「望月美香」
初の声が場を切った。
「さっき悠真にすがってたのは、本当に情けを乞うため?」
皆の怒りの視線が美香に集中。初を怒らせるなと無言で迫る。
美香の顔が青ざめた。歯を食いしばり初を睨む。
違う! あんたの男を寝取ってるんだよバカ女!
だが悠真の前で、あからさまに暴露できるわけがない。
悠真が啓太を見やる。啓太は咄嗟に美香を押し倒した。「さっさと初さんに謝れ!」
「謝罪だ!」
周囲が囃し立てる。
美香は膝を床に打ち付けられ、初の前に跪かされた。痛みで涙が零れても、誰も憐れまない。
皆の視線に圧され、美香は一語一語噛み碎くように言った。「ご・め・ん・な・さ・い」
なぜこうなる!? 陰では皆、初を嫌ってたはずなのに。
なのに初の前では何も言わない。
悔しさで歪む美香の顔を、初は見下ろしたまま黙っている。誰も助け舟を出せない。
悠真が初を抱き寄せる。大きい掌が布越しに腰を焼き付くように熱くした。
その腕には、まだ美香の香水の匂いが残っていた。
初は眉をひそめ、胃が逆流しそうになった。
悠真が耳元で囁く。「初、こんな者に目を汚されるな」
啓太が美香を引きずり出す。「初さん、即刻お引き払いさせます」
二重芝居を見て、初は悠真を強く押しのけ声を張った。「待ちなさい」
鋭い視線が美香の手首を刺す。「なぜあのTバックがお前の手首に?」
美香の口元がゆがんで嘲笑に変わった。媚を含んだ目で悠真を見上げる。「愛する人がくれたの。『君の体が一番似合う』って…」声を媚びらせて続ける。「あの時も脱がずに済んだしね…誰かさんとは大違い」
挑発の目が初を撫でる。
美香の視線を追い、悠真の深淵のような瞳と出会った。監視カメラの吐き気を催す映像が蘇る。
美香には際限なく求めながら、自分には―優しさだと思ってたあの気遣いが、今は全て茶番に思えた。
初は胸を押さえた。心が抉られる痛みで、青ざめた唇が震えた。「愛する人って…私の夫のこと?」
室内が水を打ったように静まり返った。
啓太が突然美香の手を握り上げた。「初さん、俺なんです! 実は俺と美香が付き合ってまして!」
「まさかのカップルか! よく隠してたな!」
「道理で守りたがるわけだ!」
囃し声を踏みつけ、悠真が初の前に立つ。平静な表情で言った。「初、啓太の顔立てで近づかせたんだ」「怖がらせてすまない」
初は悠真を見上げ、そして見た―彼の口元に、光で煌めくキラキラした口紅の痕を。
輝きが銀針のように視界を刺す。
初が目を閉じ、熱いものを必死に堪えた。
「でも、高橋家と西野家は婚約中だったよね? 晴は私の親友よ」
「つまり望月美香は、あなたと晴の間の愛人?」
「西野、晴に顔向けできるの?」
初の詰問に、啓太は美香の手を放し慌てた。「お、初さん…こ、これは…彼女が誘惑した…!」「晴には絶対言わないで!」
「警備! すぐ追い出せ!」
警備員が入室した。
美香は信じられない顔で髪を掴まれ引きずられる。「あんっ!」「放して! 私、啓太さんの愛人じゃない! 誘惑なんてしてない!」「悠真様! 助けて! 私はあなたの人よ!」
もがく美香の襟元から、プラチナの指輪がこぼれ落ちた。
初が首からチェーンを引きちぎる。美香は狼狎て俯く。
初が差し出した指輪は皆の目の前で揺れた。内側に刻まれた「YH」が異様に光る。
YHは悠真(YUMA)初(Hajime)のイニシャル。悠真が自ら刻んだものだ。
自分の目の前で、自分のものを使い、あの二人が―そんな現実に初は耐えきれなかった。
「私の無くした婚約指輪が、なぜ彼女の首に?」震える声で悠真を問い詰める。
「望月美香は自分が西野啓太の愛人じゃないって言うわ。あなたの人だって?」
「彼女はあなたの何なの?」
警備に押さえつけられ、髪を乱した美香は見る影もなかった。悠真に従って五年、子供まで産んだ。
初と何が違う? なぜ自分だけが陰に追いやられ、表舞台に出られない?
なのに初は華々しく脚光を浴び、皆を見下ろして好き勝手する。
怒りが理性を焼き尽くす。美香が絶叫した。「私が悠真様の最愛の──」
「やめろ!」
「母上の顔立てで航への悪影響は見逃したが」悠真の声が美香を遮り、初を抱きしめた。「まさか俺と初の証まで盗むとはな」顔に痛切な悲しみ。
「この指輪が俺たちにどれほど大切かわかってのか?」「良くも彼女を傷つけたな」
「警察へ通報しろ」
憎悪を剥き出しにした命令に、凍りついた全員。美香も声すくんだ。
あたかも指輪が美香の盗品で、彼の贈り物ではないように。
悠真が目配せすると、警備員が生気の失せた美香を運び出した。
冷たいものが指に滑り込む。
見下ろすと、悠真が無名指に指輪をはめていた。手を握りしめ断言する。「初、誰もお前のものを奪えはしない」「もう泣くな」「君の涙を見るのは…死ぬほど辛い」
こぼれた一粒を指で拭いながら、無名指の指輪が揺れる。
その一瞬、初は彼が元のままの愛おしい人だと錯覚しそうになった。
少しの理不尽も許さない彼が―自分の災いは全て彼からだったのに。
誰も奪えない?
あの自分だけを一途に見つめた心は、とっくに誰かに盗まれていた。
初が胸を裂かれる痛みをこらえた。彼の手を振りほどき個室を出る。
洗面所の冷水を顔に浴び、ようやく正気を取り戻す。
ドアが急に開き、神谷航が入るとひざまずいた。「ママ…指輪、航が美香さんにあげたの…僕を警察に連れてって…彼女はダメ…」