「望月美香、辞めさせたはずじゃないの?」
神谷律子の指がテーブルを叩く音が鋭い。
「それがなぜ、航の幼稚園であんたと一緒に写ってる?」
「今晩、はっきり説明してもらわないと。初が怒るだけでなく、私だって…あんたの妹夫婦も、航のことも、絶対に許さないからね!」
神谷雲慧(くもえ)が受け取ったファイルをめくり、固まった。ばらりと床に叩きつけ、さっと口を押さえた。
「お兄ちゃん…まさか本当にお義姉さんを裏切ったんじゃないでしょうね?」
初は悠真の腕から必死に逃れようとしたが、彼の大きな腕が枷のように締め付ける。否応なしに向き合わされた。
「白川」と呼んだのは誰か――答えはほぼ確信していた。
彼なら、監視カメラの映像をすり替える手口もあり得る。
昏倒した幼稚園で、悠真が即座に監視映像を確認し、護衛の回収した記録を遠隔操作で改ざんした可能性が高い。
悠真の漆黒の瞳を覗き込む初に、誰も彼の真意を読めなかった。
その時、車後部座席で眠っていた航(こう)が目を覚ました。
飛び降りた少年が床に散らばった写真を見つけ、しゃがみ込んで拾い始める。
「ばあば、どうして僕と美香ちゃんの写真捨てるの?」
「だって美香ちゃん、外国行っちゃうんだもん…これが最後の写真なのに、もう会えなくなるんだよ」
航は抱えた印刷写真を胸に押し当て、しくしく涙をこぼした。
律子お母様は状況を飲み込み、航の手を引く。
「航ちゃん、望月さんが幼稚園に来たのは、おまえに会いたかったからよ」
「じゃあ、パパは何しに来たの?」
航はしばらく考え、「美香ちゃんと約束したの。今日の帰りに迎えに来て、いっぱい遊んでから帰るって。でもパパが来て追い返しちゃったんだ」
一同は安堵の息をついた。
「誤解ってことね」律子が頬を緩める。
「だよね、世界中の男が浮気してもお兄ちゃんだけはありえない」雲慧はまだ青ざめた顔で、誇るように言いながら夫の春樹をチラリと睨む。
「でも…」雲慧の娘、ミヤビが航の写真を指さす。「だって写真にはおじさまとあの女の人、同時に航お兄ちゃんの手繋いでるよ? パパとママと私がいる時みたいに」
「家族みたい」
かすかな呟きで、再び緊張が張り詰めた。
春樹が慌てて取りなす。
「ほらミヤビ、余計なこと言わないの。見てごらん、航お兄ちゃん膝が汚れてるでしょ? 転んだのを二人で助けたんだよ」
「でもこれ…監視カメラの画像が鮮明すぎない?」
「誰かが加工したみたい」
その言葉に初の頬を涙の跡が濡らす。悠真を見上げると、墨を流したような瞳の奥がさらに深淵を増していた。
護衛に画像解析を命じるだろうが、彼が何も見つけられないことも初は承知していた。
「誤解は解けたことだし、そろそろ食事にしましょう」
律子お母様の柔らかな声に、航がミヤビの手を引く。さっきまで大切に抱えていた写真を家政婦にさっと預け、声を弾ませる。
「ねえミヤビちゃん、めっちゃ面白いやつ見つけたんだ! 来て見てよ!」
ぴょんぴょん跳ねながら去る二人の後ろ姿。玄関に無造作に置かれた写真。突然航が悠真に頬を打たれる光景が初の脳裏をよぎり、胸に複雑な塊が転がる。
まだ五歳――彼女が腕の中で育てた我が子が。
根は悪い子じゃない、ただ望月美香に唆されていただけだ。
彼女さえいなくなれば、航はいつか真実を見分けられる。
食堂へ初を運ぶ悠真に、律子が保冷剤を持ってこさせる。二人を見つめながらほっと息をつく。
卵の包みを差し出しながらも、決して初を責めない。
「旦那が奥さんに叩かれるのは愛情の証よ? でもね、明日この指痕が顔についたまま会社に行ったら、社員に笑われるわよ」
真の黒幕は望月美香――今は国外に追い払ったのだから。
だが油断は禁物だと、律子は悠真名義のクレジットカードを停用する腹積もりだ。向こうで相応の苦労を味わわせ、分をわきまえさせる必要がある。
春樹は数口食事を済ませるとミヤビたちのもとへ戻った。雲慧だけが食卓に残る。
「あんたたちが戻ってくるって聞いて、雲慧たちがわざわざ駆けつけてくれたのよ」
「しばらく家に泊まっていくから」
「仕事ばかりじゃなく、もっと早く帰宅して家族と過ごしなさい。分かった?」律子が初の丼に焼き魚を乗せる。「ミヤビにたくさん遊んでもらって、絆を深めるのよ」
視線は初の下腹部に落ちる。
「子どもには、やっぱり同世代の遊び相手が一番だものね」
はっきりとした暗示だ。
初は無言で冷め切った瞳を据える。
十年も律子お母様に媚びを売ってきたのに、今日ほど心が動かない日はなかった。
箸を止めた律子がゆっくりと魚を初の丼に移す。
「初ちゃん、そろそろお母さまの命日ね。何か特別に準備したいことある? なければ、いつも通りにお母様が準備しておくわ。お母さまもきっと…娘さんに次の命を授かりますように、とお願いしてくださるはずよ」
初がまっすぐ見据えると、いつもは優しい姑の目元に霜が降りた。律子お母様は背筋が凍る。
よくもまあ…母の名前を口にできるものだ。
天国の母が、親友が実の娘にこんな仕打ちをしていると知ったら、どれほど胸を痛めるか。
「お母様、初は生理で体調が優れないんです。魚は体に滞りを生みやすいから、やめておきます」
「あらそう」律子お母様は笑いながら魚を引き上げ、眉間のしわが心の内を隠し切れず、初の手をパタパタと叩く。
「道理で顔色が悪いわね。次の子を授かれなくて、つらかったんでしょう」
「まだ若いんだから、チャンスはいくらでもある」
「お母様が毎日スープを作って、悠真と二人で体調を整えましょう。すぐにいい知らせがあるわ」
「お母さまも、きっと失望なんてなさってないから」
毎回こうだ。律子は初の実母をことあるごとに引き合いに出す。
第二子を産めないことが、嫁ではなく亡き実母の遺憾だと言わんばかりに。
初は母を悲しませたくない一心で重いプレッシャーに耐え、それが流産の一因となったのだ。
あの喪失は永遠に癒えない傷。
現実にはもう――他の女が悠真に第二子を産んでいる。それも初が望んだ女の子を。
夫婦の絆を引き裂き、愛を殺した共犯者が、今も無邪気な善意の仮面を被っている。
初は律子の手を振りほどく。決意の刃が言葉に宿る。
「私は二度と、悠真の子を産みません」
瞬間、食卓が静寂に沈む。律子と雲慧が初を見つめる。
律子の目に驚きが走るも、即座に当主の顔を取り戻し、むしろ柔らかな口調を纏う。
「初ちゃん、航が一人っ子じゃ寂しいでしょう?」
「いつかあんたたちも年を取る。これだけの家業を航ひとりに背負わせるなんて…お母様、考えるだけで胸が痛むの」
「我が子に苦労をかけたくないはずよ」
「それに…」
初の瞳が氷のように冷たい。
「神谷悠真に本当に、航ひとりだけの子しかいないって確信してるの?」