何事も『最初』に拘る者が居る。人生初、などと。
対して、どんなことでも『最期』を重要視する者も在る。人生最後と、生きてる限り二度と無い……と。
両者に共通するであろう思考に、特定の出来事において、我が人生これが最初で最期と、頑なに固持する場合がある。
例えば、旅先の食事で出された珍味を食したとき。此処に訪れることはあろうとも、二度と喰うものか。なんてことを固く誓う場合。
事に、それが生涯誓う愛であれば……?
♪
実姉の結婚披露宴にも関わらず、内貴が身内の席から離されたのは、未成年という理由だけでは無い。なんとなく、彼はそんな気がした。余興枠のメンバーが集められた席だと思っていた。
着なれた制服は、この日のためにクリーニングに出された。見栄えは良さそうだが、窮屈だ。
「こんな回転するテーブルなんか、わかんないって!」
と、隣の京介が正直なほど声を上げた。確かに、円卓用のターンテーブルに関するテーブルマナーは、彼のような高校生に縁は無かったようだ。
しかし、緊張感に包まれたテーブルは、苦笑でもって和やかになったようだ。彼の隣に座る秋菜が、
「ダイジョーブだって! あたしもわかんないから」
「大丈夫じゃないわ」
秋菜と京介は仲がいい。
内貴は、少しだけ羨む。
「なぁ?」
と、肩を掴んで、京介は内貴を会話の中へ強引に誘いこもうとする。疎ましく思いながら、失笑で躱した。
「京介も少しは、内貴くんを見習って落ち着きなさい」
「無理だってば! アイツは身内だから。そんなに緊張することないって。こっちはもう、いろいろ心配だよ?」
「何の心配よ?」
「音が出なかったら、どうしようとか。歌詞、間違えたり、飛んじゃったらどうしようか」
「京介は歌わないじゃない? もしかして、あたしが何かやらかすと思ってない?」
「不測の事態に備えておくのも大事」
「バカじゃないの?」
「備えてるだけだろうに。なぁ、内貴?」
内貴の緊張感は晴れそうにない。寧ろ、憎悪に近い感情が渦巻いている。それを顔に出さないようにしながら過ごすことは、案外、簡単だった。
もうすぐ式が始まる。
思い出したくないのに、姉の言葉が頭の中を駆け抜けた。
「……ダァとの式には、京介クンと秋菜ちゃん、呼ぶから。あんたら二人で演奏して、秋菜ちゃんに何か歌わしてくんない?」
と、風呂上がりの姉は、タオルを髪にあてながら、部屋にやってきた。
「何か演れって言われても」
「まだ時間はあるから」
あってもなくても、あるから、と姉さんの口癖だ。
「もしかして、京介クン、また喧嘩してバンド辞めたちゃった?」
「そんなことはないけど。ボクは、何を……」
「バックトラック作ってさぁ、式で、DJの真似事でもしてりゃいいわよ。あんたもステージに立つのっ。三人いれば、三位映えもいいじゃない?」
「確かに」
「じゃ、そーゆーことでっ。秋菜ちゃんと京介クンに話しといてね」
姉が部屋を出てった。
残り香を胸いっぱいに吸い込みながら、壁のカレンダーを見る。時間がある、と言われても、大安吉日まで日数は少ない。
オトナの世界よりも、時間的余裕があるかもしれない。
一緒に暮らしているのに、そばにいるはずなのに、時間も空間も飛び越えて、別世界へ旅立ってしまったような。
結婚したら、家を出てゆく。同じ町に住んでいるのに、遠くへ離れてしまう気がする。
だから、今夜こそ、胸中激しく渦巻く衝動を……。
壁一枚向こう側から、わずかに姉の声が聞こえてきた。ダァ、来週には『旦那』となるオトコと電話してる。内貴に聞かせたことが無い声で、甘く、切ない言葉を並べやがる。
頭の中で入念に練り込んできた『計画』を実行すべきときは、いつだろう。
今すぐに、今ここで?
ここで?
そうだ、いつでもやれる。
寝込んだ頃合いを見計らって。隣の部屋へ行くだけだ。
「……おぃっ! 始まるぞっ!」
と、京介の言葉で、妄想は中断された。
内貴の両手は、未だに何も掴んでいない。
「……どーも、どーも。思ったよりウケちゃった。拍手ありがとうございます。嬉しいっ! 楽しんでいただけて、ホッとしてます。あの、えーと。内貴くんとは、音楽仲間で。僕はギター、弾かしてもらってるんですけど。あとね、こちらの、ボーカル、やっていただいてます、秋菜さん。もうねぇ、その美声を御披露いただきまして。いやはや……拍手をありがとうございます。まぁ何か演るってことになっちゃったんで……あ、いぇいぇ。姐さんに脅されたわけじゃないですよ? 強制連行されたりしてません。あ、ここは笑うところですけど……って、秋菜さん。あなた、笑いすぎです……内貴、なんかしゃべる?」
「しゃべってないで、さっさと演ろう」
「はいはいっ。まぁ、こんな仲です。じゃ、次の曲の紹介を内貴くん、お願いしまーすっ!」
いつから好きだった?
いつの間にか、好きになってた?
きっかけとか、そういう『最初』には意味がない?
自分の気持ちを存分にぶつけられる『何か』があるなら、集中して没頭する間は、苦悩も不安も葛藤も置き去りにして、時間が過ぎ去ってくれる。
内貴の姉さんが好きだと言った曲を集めて聞いているうちに、何か自分を届けられる方法はないものかと考えるようになった。
パソコンなら歌も楽器も必要ない。聞こえたものと似たようなものを、機械で『再生』するだけだ。
姉さんの部屋で、初めて作った曲を聞かせたとき、
「あんた、こんな器用だったの?」
褒め言葉の欠片もなかった。自分としては改心の自信作であったとしても、音楽に対して厳しい姉さんの耳には、そこまで届かなったかもしれない。
「あんまり夢中になって、勉強を疎かにしないでよ?」
自分に都合の良いときだけ、オトナの顔になる。
その瞬間が、内貴にとって、もっとも胸が震える瞬間でもあった。姉さんの匂いを、こっそり吸い込みながら、次の言葉を待った。
「ぼさっツッ立ってないで。さっさと出てって」
三面鏡を開いた無表情の姉さんに、ふれたかった。そのうなじに唇を押し当てて血流と体温を確かめたい。
拒まれたら、どうするの?
その細腕で抑えつけられるはずがない?
やってみなければ、わからないだろう?
無防備なとき、後ろから一撃くらわせて?
今、三面鏡が憎らしいでしょう?
聞いてるときに、やればよかったんじゃない?
「……どーも、どーも。ありがとうございます。サンキュー、愛してるぜぇ、なんちゃって……この三人で、何回か人前で演奏させていただいたりして。秋菜さんとは二回目? そうだっけ? 秋菜さんは客席側だったんですか? 見てたの? 知らなかった、ははは。まぁそんな感じで。マニアックな上に、古い曲ばっかりコピったりしてたんですけど。これも姐さんの影響かな? 今回もそんな感じで。なんで、今日の曲も、姐さんに趣味を合わせたんで。もしかして誰も知らないんじゃないかと思ってたんですけど。そうでもなかった。姉さんには、好評? お褒めの拍手いだだきました! ありがとうございます……えっと、時間もアレなんで。次の曲でおしまいです……あら? ありがとうございます。もっと聞きたいって人は」
「しゃべってないで、さっさと演ろう」
「はいはいっ。えーと、今夜一日限り、最初で最期のスペシャルユニット、内貴&京介から、新郎新婦に送ります。史上最高の愛の唄を。それでは聞いてください……」
肩を何度かトントンされて、内貴はヘッドフォンを外して振り向いた。半ば呆れ顔の姉さんが見えて、
「……さっきから何度も呼んでんのにぃ」
「まったく聞こえない」
「だろうと思ったよ? まぁいいよ」
「今日も来るんでしょう? 邪魔しないよ」
「もう来てるから。あんたも来てよ。こういうのはね、ちゃんとやんなきゃいけないんだから」
こういうの?
一体、何を?
姉さんのダァ、ダーリンが家に来ることくらい、もう珍しくもない。
もしかして?
何か、悪いこと?
疑念に近い視線を姉さんの背中に向けながら、部屋を出た。
そして、両家親族の御対面、初顔合わせとなった。
突然の出来事に驚くことはなかった。薄々気配は感じていた。事実に対する気持ちの整理は、とっくについていた。
週末の夜、隣の部屋から迸る姉さんとダァの濃厚な悦楽を耳にしていれば……嫉妬する気さえ起きなかった。だからといって、諦めたわけではない。
愛し合う二人の姿を想えば、実弟として、いずれ祝福を願いたくもなる。
だが、日を追う毎に、落胆へと変わっていった。
思ってたのと違った?
責めたてられる姿には興奮しない?
逆だったか、あんた、そっちだったか?
姉さん が されちゃんじゃなくて?
姉さん に されたかったんだ?
でも、声だけじゃダメでしょ?
実際に見てみたら、また変わるんじゃない?
「……アンコールをありがとうございます。ホント、いいんすか? 時間、大丈夫なんすか? まぁ、オッケーが出たんで。えーと、ネタはあるんすけど、歌詞が、こうした場にはアレかもしんないんですけど。内貴くんと姐さんと、一緒にライブに行きまして。あ、そんとき、秋菜さんもいたんだっけ? 二日目か? 姐さんが行けなくて、それで来たんだっけ? まぁそんな感じで。何の話だよ……まぁ、それがキッカケで、現在にいたります。ほんと、あのときはチケット、ありがとうございました。あれが無かったら、ギター、やめてたかもしんない。大げさ? 盛ってませんってば」
「準備できたよ。早く演ろう」
「はいはい、はいよっ! じゃ、演ります……」
式は無事に終わった。
未成年連中は、帰路につく。京介は、慌ただしく、去ってしまった。
「……あいつ、さっさと帰るなんて聞いてないよ? このあと、三人でどっか行くと思ってたのに」
秋菜が口を尖らせる。
披露宴で、しかも余興ということで。彼女なりに着飾っただけに、このまま帰宅する気分になれなかったのだろう。
京介が近くにいるときは明るい彼女だ。
こんなふうに二人きりとなると、お互い、必要最小限の会話しかしなくなる。
「……すごく綺麗だったね、お姉さん」
「そうだね」
これ以上、何も言う気になれなかった。
京介と同じく、さっさと帰っても良かった。
だが、今日は家に誰も居ない。ひとり、家の中で音楽に没頭する気分では無かった。余興で、燃え尽きた感がある。虚脱感をまとって自室に引き込むより、帰り道は遠回りをして、少しでも紛らわせたかった。
式場から駅までの帰り道、繁華街を歩きながら、
「ちょっとぉ、歩くの早いよぉ!」
と、彼女が言う。急いでいるつもりは無かった。意識的に避けていることに気づいた。仕方なく立ち止まってみると、距離を開けたまま、彼女は内貴を見つめる。
ドレスアップした姿に、制服姿の姉さんの姿を重ねてしまった。似てると言えば似てる。
秋菜は、
「なんかさぁ、歌い足りない気分なの」
その気持ちが分からないわけでもない。
ひとりでカラオケでも行けばいいだけだと、内貴は思っていた。式の後の高揚感に蝕まれているのか、秋菜は上目遣いで内貴を睨む。
彼女が、内貴の言葉を待っている。
『申し訳ないけど、ちょっと疲れたから。早く帰りたいんだ。悪いけど、失礼するよ』
と、自分でも驚くほど、すらすらと言葉が湧いてくるのに、雑踏とともに風が運んできた、秋菜の香は姉さんと同じものだった。
「そういこうことなら、早く行こう」
内貴はスマホを取り出し、近くの店を検索する。
その傍らに、彼女が飛びつかんばかりに突進してきた。
彼女が内貴に向かって何かしゃべってる。聞こえてはいるが、頭の中にとどめないようにした。耳をふさぎたい気持ちでいっぱいだった。
そして、自分に何度も言い聞かせる。
隣にいるのは姉さんではない、と。
操作するスマホの画面を覗き込む彼女から漂う香に、脳内が沸騰しそうな勢いだった。
「ここ、行こう!」
と、彼女のひとさし指が画面にふれたとき、恐ろしいほど近くに女の身体があったことに気づいた。思いのほか、内貴の鼓動が激しい。
「すぐ入れそう? 別に二時間待ちでも、あたしはオッケーなんだけど」
「予約、入れた。三時間待ち」
「じゃあ、どっかいってなんかしよう」
「……」
「ハンバーガーって気分じゃないんだよなぁ。どっか、なんか、ない? 探して探して!」
自分のスマホで探したりすればいいものを、秋菜はテンション高く、せっついてくる。
言われるままにスマホ操作をしていると、その画面を彼女は覗き込む。
この物理的距離感を懐かしく感じた。
いつの間にか、姉さんと内貴とは、物理的に離れてしまっていた。
無論、やろうと思えば、いくらでも接近できるだろう。
だが、傍に在る肉体は、姉さんではない。
まったくの別人だ。たまたま、同じ香がするだけ。背丈が同じくらいなだけ。学生時代の姉さんと制服が同じというだけ。
ただ、内貴を見つめる眼差しに、胸がときめていてしまったことも事実だった。あの、無言の上目遣い、じっと睨まれたとき。自分が欲してやまなかったものの正体を垣間見た。具体性を帯びてしまった以上、その具現化を望んでしまう。
そして、内貴は秋菜に導かれるように、雑踏を歩き、半強制的に作られた距離感に身を置くこととなった。
ハンバーガーという気分より、ひとまず座って時間がつぶせることを優先する。
そのために、お店で仕方なくオーダーする。
ところが、食べたくなくとも、目の前にあるなら、口に運んでしまうときがある。
その間、彼女は饒舌だった。式の会場のこと、花嫁衣裳のこと、余興のこと、さらに内貴の音楽のことを……。
「あの選曲って、お姉さんのリクエストじゃないでしょ? 内貴くんが選んだんでしょ?」
お見通しと言いたげに、小悪魔な笑みを浮かべて秋菜が言う。反論する気力は無かった。寄せるつもりはなくとも、目の前の女が、姉さんに見えてくる。
「あたしの知らない曲ばかりだったけどさぁ。練習しといてって、京介から曲を渡されたときさぁ。ずいぶんな選び方って思った」
楽しそうに話す彼女の笑顔に、罪悪感を覚えた。
一緒にいたくて、内貴は話を聞いているわけではない。代用品としての設定を終わらせて、学生時代の姉さんと過ごした時期を追体験しようと試みているのだ。
否、追体験ではなかった。
デートめいた雰囲気で、姉さんと過ごしたことなど、一度もない。すべて、願いながらも叶わなかった。
「……え? なんか、ついてる?」
いきなり彼女が自分の耳たぶをさわりはじめた。
バッグからポーチを、ポーチからミラーを取り出して、確認し始める。
「なんかさぁ、耳がどうとかって、言わなかった? よく聞こえなかったけれど」
見つめた先、秋菜の耳の形は、姉さんと違っていた。
姉さんの耳たぶは、あんな感じではない。
秋菜は、
「どう?」
と、顔を突き出した。少し首をふって、両の耳を見せる。白い首筋に目が奪われた。
探したい衝動に駆られつつ、記憶にとどめてある姉さんの姿を掘り起こす。
肩から鎖骨を、その胸のふくらみを、乳輪と乳首まで。そこで思考は止まった。その先は、知らない。
生唾を飲み込む音を悟られないように、内貴はコーラで流し込んだ。
不覚にも、むせた。
「やだっ! 大丈夫?」
姉さんと、ほぼ一致した同じ色の声が突き刺さる。
内貴は、彼女を直視してしまった。
どんな顔を彼女に見られたのか、わからない。
「ちょっと早いけど、行こうか?」
と、彼女が優しい声で言ってくれた。
♪
デンモクにもマイクにもふれなかった。
内貴の隣に座った彼女は、その肩に頭をのせた。
シートに背中を預けたまま、彼は天井を見上げる。彼女から何か言い出すことを待ってみた。
「……辛いナァ」
彼女の何が辛いのか、わからない。
「オンガクやってると、それなりにモテるでしょ? とくに、内貴くんみたいにさ。ストイックで、硬派で。ちょっと近寄りがたいところもあって。ミステリアスでさ。マジメとは違うの。なんかね、ゾクゾクさせるの」
冥利に尽きる御言葉かもしれないが、今の内貴にとって、ノイズでしかない。
「恋しちゃってたんだけどなぁ。でもねぇ、京介くんは言ってから。アイツは道ならぬ恋してるって。冗談だと思ってたんだけど。わりと京介くんはドーサツリョクあるから。気付いちゃったんじゃない?」
アイツの言うことは、今、まったく関係ない。
彼女の膝を見つめるばかり。滑らかな曲線の向こう側に、現実味を感じなかった。
「でも、今日。あたしも確信しちゃった。お姉さんのこと、すごく特別に想ってるんでしょう?」
「そうでもないよ」
全面的に否定も肯定もしない言い方だった。
部分的に否定して、ある意味で肯定している。
でも、秋菜にとって、
「嘘よ。そんなはずない。内貴くんの心の中には、お姉さんが居座ってる。誰がどうやったって、追い出すことなんか、できないよ、無理」
「さっきから何の話をしてるんだよ」
秋菜は首を動かして、その耳に向かって、
「どうしたら、内貴くんはお姉さんを追い出してくれるの?」
姉さんで自分を縛っているのではい。
自分で、自分を縛っている。そのつもりだ。
彼女の手が頬にふれたので、機械的に秋菜のほうへ顔を向けた。近くで見ればみるほど、姉さんには程遠い。もしかすると、秋菜そのものを見慣れたおかげで、きちんと区別がついたのかもしれない。
向かい合った数秒のあと、彼女は、
「帰る」
と言って立ち上がった。
その腕を、無意識的に掴んで、抱き寄せてしまった。
内貴自身、そんなことをした自分に驚いた。
「意味わかんない。どうしてそんなことするの?」
彼女が、もっと激しく拒むことを期待していた。
そう思うことにした。
嫌われれば、逃げられると思ったからだ。
「あたしを、お姉さんの代わりにするつもり?」
そう言われて、彼女を捕まえたわけに初めて気づいた。
代わりなど、こんな女に務まるはずもない。
『秋菜は考えすぎなんだよ』
生まれて初めて、女性に『嘘』をついた瞬間だった。
望んでいるなら、望まれるままに提供するのも、悪くないだろう。
その接吻は、訪れるべくして訪れた予行練習だ。愛しさの欠片もない。
『代わりだなんて、とんでもない』
そういうことなら、秋菜にとって自分は何の代わりなのだと、問い詰めたい。
『そういう君こそ、何を望んでいる? 今、ここで、はっきりさせてくれ』
すると、彼女は正直に答えた。
求められたなら、応じるまで、だった。
案外、お似合いかもね?
♪
あの日以来、内貴と京介は本格的に音楽活動を始めた。二人でオリジナル曲を溜め込むことにした。
秋菜は塾がどうとかで、一緒に活動できなかった。
今夜も、内貴は京介と一緒、ということになっている。もちろん、京介とは口裏を合わせてある。彼は協力的だ。そして、音楽のこと以外は何も詮索しない。
内貴は姉さんの部屋に入るのに、緊張しなくなった。
今日は、見覚えのない家具があった。いつの間に設置されたのか、不思議に思っている暇はない。
部屋に備え付けの大きなクローゼットを開けた。長いこと使っている間、ちょっとガタがきている。洋服がたくさん詰まっている。今夜も身を潜めるに、問題はない。
服に染み付いた姉さんの匂いに包まれている間は、幸せだ。同時に、憎しみが湧いてしまう。
緩んだ蝶番とドアの隙間から、ベッドを見つめる。姉さんとダァが帰ってくるのを、じっと待つ。
姉さんの新居が完成するまでの間、もう少しだけ、こないだまでの生活が続く。
その間に、何か……何かを……姉さんに。
そう思って忍び込んだのに、覗き見するだけで、何もできちゃいない。
これからもそうだろうか?
胸に秘めた衝動の本当の姿を未だに把握しきれてない。
自分はどうしたい? 何がしたい?
何を求めてる?
もっと『好きだ!』という気持ちが大きいものだったなら、自分でも制御できなくなって、どんなことでもできてしまえそうな。
それとも、理性が邪魔してる?
自分のことばかり考えていては、気が滅入る。
姉さんが帰ってくるまで、もっと別なことを考えるべきだ。
例えば……いつぞやは、激しかった。
つねられたり、噛まれたり、叩かれたりすることは多々あったが。ダァが姉さんの首に手をかけたとき、彼女は初めて、彼を拒んだ。
裸体の行為は中断され、変な沈黙が生まれた。
姉さんは身を起こし、なまめかしく髪をかきあげて、彼にしなだりかかって、その耳元に口を寄せる。
囁いた言葉は、内貴に聞こえたはずもない。
だが、わかる。
脅かさないでよ?
殺されんのかと思ったよ?
でも、そういうのも悪くない?
窒息寸前まで絞めるんでしょう?
加減できんの?
旦那に首ぃ折られて死ぬのはイヤよ?
そしてドアが開いた。
記憶の反芻を強制終了させて、息を潜める。
長く待つことはない。自分がしていることに疑念が生ずる前に、目の前の出来事に集中して没頭できる……時間は瞬く間にすぎてゆく。
もし見つかったら?
違うでしょ?
知ってて、知らぬふりをしてるかもよ?
秋菜ちゃんには知られたくない?
そういうことも研究熱心?
コピーじゃなかうて、リスペクトみたいな?
どうしたって違いは埋まらないんじゃない?
でも……繰り返していれば、オリジナルになるかも?
自分だけの、存在に?
だが、そのとき。ダァの挙動がおかしくなった。姉さんの頬を叩いていた。その裸体をゆすっていた。反応のない彼女から飛びのいて、泣きそうな顔で身体を震わせていた。
今まで嗅いだことのない匂いに、内貴はクローゼットから飛び出した。
姉さんの変色した顔を見たあと、混乱している男を睨む。
男が足をもつらせながらも、部屋を出ようとしたから。その背中を蹴った。倒れた頭を何度も踏みつけて、力一杯蹴り上げても、異様な臭いは消えない。
『旦那に首ぃ折られて死ぬのはイヤよ?』
その声に応えるように、死んだ姐に向かって、
「僕が殺すはずだったのに! どうしてっ!」
こうなったのは誰のせい?
もたもたしてたからよ?
だから、こうしてはいられない。
♪
「……どうしたの? なんでこんなところにいるの?」
駅近のビルにある塾の前で、憔悴しきった顔の内貴が待っていたから。
秋菜は、驚きながら駆け寄った。
嫌な臭気に満ちた部屋を出てから、ようやく、秋菜の香にふれて落ち着いた。早鐘を打っていた心臓が、おとなしくなった気がする。
「なんか……普通じゃないよ? お姉さんに何かあった?」
目の前の女に不安と動揺が広がってしまう。
それは避けなければならない。
だからといって、強引な真似をするわけにもいかない。
時間だって、限られている。
「とにかく、行こう。ね? ここで黙って立ってても、しょうがないから」
女の優しい言葉に促されながら、駅前を歩いてゆく。
ようやく絞り出した言葉は、
「今は家に戻りたくない」
「大丈夫よ? あたしも付いてってあげるから」
「さっきから吐きそうで、吐けないんだ」
内貴は、俯いたままで言う。
秋菜は、辺りを見回した。
そして、とあるビルへ向かうことを決めた。
どうにか、そこの多目的トイレに辿り着いて、吐かせようとする。何があったか、わからない。話はあとから聞けばいい。
「大丈夫……顔色、よくないけど」
内貴は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
自分に向けられた彼女の視線が心地よい。
鍵のかかったドアを確かめて、彼女に抱き着いた。その肩に顎をのせ、背中をさすられながら、姉さんの最後の言葉となったしまった言葉を思い返す。
たすけて! なんで、あんた、居ないの?
「ごめん、姉さん」
「……大丈夫、大丈夫だから。何があったか知らないけど、落ち着いたら、帰ろう」
立ち膝で、女の胸に頬をうずめながら、その匂いを嗅いで、壁に押し付けながら、制服の袖を引いた。
「ちょっとぉ、何してんのよぉ?」
持ってきてしまった内貴のスマホがポケットで騒いでいる。もう時間はない。
「さっきから何してんの? 今日、変だよ? おかしいよ?」
急いでやりたくなかったけれど。
姉さんの死に顔を思い出してしいまう。
あれは、見たくない。
じゃあ、どこを見るの?
内貴は、その胸に顔を埋めたまま、女の首にゆっくり手をかけた。
「あぁ、やっぱりそういうことだったのね?」
その声に、内貴は思わず顔をあげてしまった。
冷たくはなくとも哀れみに満ち満ちた視線だった。そんな目で見下ろされたことが嬉しかったから。彼は、誰にも見せたことのない、恍惚とした笑顔になっていた。
「ねぇ……お姉さんに、何か酷いことをしちゃったの?」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、どうしたのよぉ」
言葉よりも、態度と行動で伝えようと思った。
首ではない場所から始めればいい。
頭の中で入念に練り込んできた『計画』を実行すべきときは、いつだろう。
今すぐに、今ここで?
ここで?
「綺麗じゃないかも」
「体育館の用具室や廃神社の裏よりマシ」
「困った人ね」
秋菜は、立ち膝の彼を立たせると、ゆっくりと唇を重ねてくれた。こんなときもあるんだな、と思いながら。
まだ時間はあるからと、内貴は、姉さんの口癖を思い返していた。
自分の気持ちを存分にぶつけられる『何か』があるなら、集中して没頭する間は、苦悩も不安も葛藤も置き去りにして、時間が過ぎ去ってくれる。
例え、どうあれ、この夜は一生に一度だけ。
「こんなところで、こんなことするのは……最初で、最期」
首の骨の砕ける音ってのは、厭なものだった。
(了)