拝啓、どなたか助けてください。
僕の名前は浮島鷹貴。正真正銘の純正日本人。今年で十一歳、小学五年生。勉強もダメ、スポーツもダメ、さらに社交性ゼロの人間だ。
五月、太陽がまだぜんぜん高い四時頃の事だった。何か部活に入っている訳でもなく塾にも通っていない僕は早くライフワークであるテレビゲームに勤しむためいつものように急いで帰宅した。玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ捨て廊下を走り階段を駆け上がる。まずは忘れないうちにテキトーに宿題やらなくちゃと思いつつ自室のふすまを開ける。僕はそこで自分の目を疑った。
僕の部屋は南向きの窓に向かって勉強机があり、壁に沿ってマンガだらけの本棚がありタンスがあり、続いてテレビがあってゲーム機がありベッドがある。それらについてなんら異常はなかったのだが、床に敷き詰めた深紫色の絨毯に異常が見られた。これって六芒星だったかな、アニメなんかで主人公が地面に描く魔法陣みたいなものが何故か僕の部屋の絨毯の上で光っている。
これから何が起こるんだろう。魔法陣は僕の期待を膨らませるかの如く線に沿って霧状のものを噴き出し始めた。ああ、きっと僕の辛く険しい人生も今日を皮切りに劇的に変わるんだ。たぶんこれからこの魔法陣から優しい魔法使いが現れて、それこそドラ○もんのごとく毎日僕の世話を焼いてくれるんだ。神様ありがとうっ。
まばゆい閃光と同時に腹に響く雷鳴。比較的近場に落ちたのではないかと思しき落雷が窓ガラスを震え上がらせる。魔法陣の光に気をとられて気が付かなかったが外は暗くなっていた。大型台風でも来たのかと思わせる真っ黒な雲がゴロゴロ、ゴゴゴゴと音を立てていて、外はいつ大雨が降ってもおかしくない状況だ。時たま唸る稲妻の光が部屋の置物の影を浮かび上がらせている。僕はワクワクしながら怪しい霧を出し続ける魔法陣を凝視していた。
再び強烈な雷光が僕の視力を奪う。室内では窓の外のフラッシュとシンクロした、まるで大きな紙袋を破裂させたような大きな音がした。やっと視力を回復した僕の目にぼんやりと映ったものは魔法陣の中心からあがった大きな煙だった。
「けほっ、けほけほ、けほんけほん」
なにやら分厚い煙の中から煙にむせたのだろうか、激しく咳き込む声が聞こえる。やがて灰色の煙はゆっくりとおさまりそこにぼんやりと人の姿が見えた。
魔法陣の中心に立っていたのは僕と同い年くらいの女の子だった。ただ明らかに日本人ではなかった。彼女の腰のあたりまである髪は金髪と言うよりは白に近い色をしていた。それが最近一部中高生に流行のヘアーカラーリングでない証拠に眉も同じ色だった。そして格好がまた奇抜だった。頭の深緑色のリボンの他は真っ黒な服で一切飾り気のない魔女っ子スタイルだ。
さてどうしよう。話しかけるべきなのか、だとしたらやはり英語の方が良いのだろうか。てんでしゃべる自信はないが。やはり登場が怪しすぎるので逃げるべきなのか。
僕が悩んでいると、彼女は突然僕の胸倉を引っつかんで足払いを掛けてきた。何? 何? 何がどうなってるの? 僕は柔道の受身のような形で床に叩きつけられたのだ。そして彼女は素早く僕に馬乗りになると、白い両手で僕のほっぺを押さえつける。まさかチュー? しかも魂を吸い取るような邪悪なもの? やだやだやだ、まだ死にたくないよー。僕は両手で彼女の肩を押しのけようとしたのだが、腕が上がらないことに気づく。絨毯の毛が、ぞわぞわと僕の手を拘束しているのだ。無表情な彼女の青い瞳がどんどん僕に近づいてくる。きゃー。もうダメだ。僕は目を閉じた。
ぴと。
瞳を閉じたまま、僕はおでこに温かさを感じだ。それ以上は何もされなかった。
「あはは。どきどき、した?」
おでこを離して僕の体から降りた彼女の最初の言葉がそれだった。気がつくと絨毯も元に戻っていた。目を開けると、彼女はいたずらっぽい顔して楽しんでいるようだった。なんだ、カワイイ女の子じゃないか。ドラキュラか何かかと思ったぞ、全く。それに初対面の人に対してなんて乱暴なんだ。可愛いければ何でも許されると思ったら大間違いだぞ。体を起こした僕は黙っていた。しかもなんだよ、日本語言えるのかよ。なおも黙っていると彼女の第二の言葉が聞こえた。
「あたしが何者か知りたいんでしょお」
それについては確かにそうだ。質問は山積みだ。
「まあ、聞きたいね」
すると彼女は右のほっぺをぷくっと膨らませてからこう言った。
「人に名前を尋ねるときはまず自分から」
うっ。確かにそうだ。僕は釈然としないまま、口を開いた。
「浮島鷹貴」
僕は必要最低限聞かれた事だけを告げる。
「ふーん。タカキね。アタシはププイ。ププイ・ドロシー・ブライト。ププイでいいわよ。よろしくぅ」
「う、ああ」
よろしくない。が彼女の茶目っ気たっぷりのウインクに思わず生返事を返してしまった。
とりあえず質問を続けよう。
「何のためにここに来たの?」
本当は会話のはじめに相手の名前を入れた方が良い事くらいは分かっていたが、なにぶんクラスの女子の名前すら呼んだ事がないのに例え異次元から来ようが異世界から来ようが目の前の女子も例外ではなかった。
「アンタをまっとうな人間にするためよ」
そう言うと彼女は先ほどの笑顔はどこへやら、ため息まじりに視線を床に落とす。
そして彼女の語った内容は僕の想像を絶するものだった。それは1991年現在から1500年くらい未来の話だった。
西暦3525年。過去幾度ものエネルギー問題に悩まされた地球は、地下資源が枯渇して退化していた。1305年前に起こった核戦争で人類の大半は命を落とし、気象、環境の激変の中わずかに生き延びた人類はエネルギーがなかったころの歴史をなぞるように生活していた。
だが歴史は繰り返されなかった。エネルギー不足の関係で科学技術を失い、または使用不能になった世界で幅を利かせているのはごく一部のサイキッカー(超能力者)達であった。その戦力は非サイキッカー(普通の人間)達とここ何百年間も均衡を保ち続けていた。
そして痺れを切らしたサイキッカー達は最高位のサイキック能力を持つ数名の力により、サイキッカーを時空間転移させ遠い過去の世界で人類にダメ人間を増やすことによって退化、未来で闘争心のある人間の絶対数を減らそうとたくらんだのであった。
ただ、それをよしとしない団体があった。
サイキッカーと似た力を持ち少数で彼らに対抗出来うる組織、それが魔法使い連盟であった。非サイキッカー側がサイキッカー共になかなか制圧されない理由も、非サイキッカーに加担する彼らのお陰であった。彼らは過去に散らばったサイキッカー共の活動を抑止するため同じように過去の世界へ派遣されたらしい。
その話が本当なら時空移動は一方通行で、もちろん帰れないと言う事なのだろうか。そうなると彼女はここに住むとか言うのだろうか。僕的には彼女のようなカワイイ魔女と一緒に暮らせたら毎日が楽しいだろうと思うが。そういう安易な妄想はすぐに崩れ去る事になる。
「ひょっとしてそのダメ人間育成みたいな奴の標的になっているのが僕って事?」
「そ。ったるい話よねー。何だってこの絶世の美少女にして最強の大魔法使いが見た感じからダメダメなオスガキのお守りをしなきゃなんないのよって感じぃ?」
けっ、とか言いながら彼女は勉強机の上に腰掛けると脚をぷらぷらさせながら続ける。
「アンタが将来結婚できるくらいに成長してくれればいいのよ。そのために今のアンタが立派なオスガキになってくれればオールオッケー。とっとと大人の階段を二段はずしで駆け上がりなさい!」
僕が結婚しようがしまいが勝手だろう。
「何よ、その反抗的な目は。アンタが結婚しないことによって子孫が繁栄しないで、1500年後の人間がばたばた消えてんのよっ」
しらねーよ。
「帰ってくれよ」
「アタシだって帰れるなら帰るわよ。ところがどっこいアンタが立派にならないと帰らせてもらえないのよ。よって、ビシバシとスパルタ式に鍛えてやるからそのへん諦めな」
なんて一方的な話なんだ。ふざけんな。追い出してやる。でもまず情報収集からだ。
「一応確認するけどやっぱり君は魔女なのかな?」
人が質問していると言うのにこのヤンキー魔女は僕の顔より部屋とか外とかばっかり見ていた。
「確かにアタシは魔女よ。だから魔法陣から出てきたし、おでこをくっつけただけでその人の言語を理解したり出来るの」
もっともな回答が帰ってくる。
「それとっ」
僕の質問に答えるや否や彼女は僕に向き直り怒る。ぷんすかぷんと音が聞こえそうなくらい怒っている。
「せっかく名前を教えたのに《君》ってなによ。こんどから名前で呼ばないと返事したげないからっ」
「じゃあププイさんは……」
「《さん》は要らない。ププイでいいって言ったでしょ」
「だって年が分からないし。年上だったら《さん》はつけるかなと」
そういって僕は口ごもっている。
「あんた何歳よ」
「今年で十一歳だけど」
「アタシも十一歳よ」
最初の直感通り同い年のようだ。
「誕生日はいつよ」
「六月十四日だけど」
腕組みをしてふーんと考え込む。
「じ、じゃあ、プ、ププイの誕生日はいつ?」
「アタシの誕生日は、じゃあ六月十五日」
意外にあっさりと、緊張のあまりどもりまくりの僕を馬鹿にする事もなく答えてくれた。
「じゃあって何だよ。まるで取って付けたような誕生日に聞こえるんだけど」
机から降りて、僕の両耳をひっぱると彼女は言った。
「未来から来たって言ってるでしょ。ここでは同じ年だけど本来ずーっと後に生まれてるんだから誕生日があなたより先でも後生まれよ。だからとりあえず次の日にしとくわってこと。分かった?」
うーん、確かに。
時計の針は五時十五分を指す。母さんはどんなに遅くてもこの時間に帰ってくる。目の前にいるトチ狂った少女の事をなんと言おう。
「なに悩んでんのよ」
「ププイはここに住むとか言わないよね?」
「なんでよ、住むに決まってるじゃない」
「どうやって両親に説明するんだよ。僕は説明できないよ」
僕はわざとイジワルに言ってやったのだが、彼女はフフッと笑うと彼女は恐るべき事を言いやがった。
「もうこの家全体にチャームミストが充満しているわ。アンタにはなぜか効かなかったけどお袋さんと親父さんには効くでしょう。アタシの味方になる魔性の霧が」
「そんな洗脳みたいなことするなんて、お前はやっぱり悪い魔女だな。換気してやる」
僕はベランダの入り口を開けようとするが、びくともしない。
「ムダよ、内部から開けられないように封鎖したから。もちろん窓を破ることも出来ない」
チッチッチと指をふる魔女。コイツ泣かしてでも術を解除させてやる。しかし僕が間合いを詰めるより早く彼女は半身に構えると僕の手を右に左に巧みにかわす。あまりのすばしっこさに僕は頭に血が上った。もういい、よこっ面を思いっきり引っぱたいてやる。やっとこさ魔女の胸倉を捕まえると思いっきり平手を振り上げる。
バッチーーン!!
振り下ろした平手の痛さに僕は思わず目をつぶった。人を殴れば殴った方の心が痛むとよく学校で言われているがこの痛さは心の痛さではなく正真正銘物理的な痛さだ。なんていうかこうまるで鉄板を平手で引っぱたいたようなびりびりした痛みが手のひらから全身にほとばしり僕は飛び上がった。真っ赤になってジンジンしている右手にふーふー息をかけながら魔女を見ると、そいつは巨大なスプーンを持っていた。おそらく僕のビンタはその巨大スプーンに阻まれたのだろう。痛いはずだ。
僕がぴょんぴょんしている間に魔女はそのスプーのン柄を僕に向けてなにやら呪文を唱え始めた。
「我が手に収まるもの形なすもの・寄り添い集まりて弾丸を成せ……」
彼女の呪文の効果なのか本やら目覚まし時計やらそのくらいの大きさの物がスプーンの柄の先端に集まり球形になる。
「アタシの胸倉つかんでビンタかます奴、久しぶりに見たわ。ごほーびあげる」
魔女の魔法によって集まった球形はもう石油ファンヒーターくらいの大きさになっている。まさか、それを
「ゴメン、悪かった、我ながら野蛮だった、謝るよ」
「うっせー! ギャザークラッシャー!」
「ぎゃあ!」
どん、という音とともに発射されるガラクタの砲丸。僕は腹部に鈍い痛みを受け取りながら部屋の外の壁に激突する。ふすまを閉めてなくてよかった。床に落ちた目覚まし時計がチーンと鳴って僕のKО負けを告知する。
余裕の表情を浮かべる魔女。こうなったら玄関の扉を母さんに開けさせないぞ。僕は階段を駆け下りる。が魔女も僕の狙いに気づいたか
「運べよ、段差、クルリ・パ・ルゥ」
ウイィーン
ぎゃあ、階段が上りエスカレーターみたいに動き出した。しかもかなりの高速で。仕方がない、飛び降りるか。それっ
「弾け、風船、クルリ・パ・ルゥ」
ぶにゅ、ぼよよーん
どさっ。僕は突如空中に現れた青い風船に跳ね返されて高速上りエスカレーターに尻もちをつく。後ろでは魔女が「オーライ、オーライ」などと言って流されてくる僕を手の骨を鳴らしながら待っている。ぎゃあぁ。
がちゃ
「ただいまー」
バタン
玄関が開いたとたんに風船はなくなり階段も元に戻った。魔女は満足げに部屋に戻る。階段の上にぶちまけられたガラクタもぴょこぴょこと跳ねて部屋に戻って行く。母さんが帰ってきてしまった。いつもの僕ならふすまを開けて「お帰り」というだけだが、今日は玄関まですっ飛んで行った。階段を転げ落ち、あわてて駆けて来る僕に、母さんはびっくりしていた。
「そんなに慌ててどうしたの」
途中で買い物をしてきたらしく両手にはパンパンに膨れ上がったビニール袋を提げていた。僕は母さんの手から差し出された結構重いビニール袋を受け取ると頭をひねりながら今の状況を説明した。
「母さん、洗脳されてない? 悪い魔女なんだ。魔法陣から煙が出てピカッと光ったらそこに魔女がいて……」
僕が説明を終わらないうちに母さんは靴を脱ぎ、廊下を歩いてダイニングキッチンに向かう。
「僕の話を聞いてよ」
「どうせ、ゲームか何かの話でしょ。卵とか牛乳とかアイスクリームとか早く冷蔵庫に入れないといけないからちょっと待ってね」
つかれた笑みを見せながらソフトに僕を邪険にする。仕方がないので僕はまずその作業を手伝う。とりあえず全ての食材を冷蔵庫に収め終わると母さんは「ふう」とため息をついて首を回し始めた。
「で、なんだっけ」
聞いちゃいねー。しかたなく、僕は部屋に魔女がいて母さんを洗脳しようとしている事を再度話した。すると
「見られたくないものが部屋にあるのね。散々な点数のテストとかっ」
くわっとお叱りモードにチェンジする母さん。
「そんなことないから、一回外で大きく深呼吸して……」
「そんなに悪いのっ」
ああっ誤解だよ。母さんはのしのしと僕の部屋に向かう。再三停止を呼びかけたのだが構わずふすまを開ける。
ふすまの向こうのププイと母さんの目が合う。ご対面……。
「きゃー」
母さんの悲鳴。ただそれは恐怖の悲鳴ではなく歓喜の悲鳴だった。ふすまを開けたとたんの悲鳴に、今までぺたんと座りこんでいたププイも驚いて立ち上がる。ひとしきり歓声がやみ母さんが軽く挨拶をし終わるとおずおずとププイが自己紹介を始める。
「は、はじめまして、ププイ・ドロシー・ブライトと申します。魔法の国からやってきました魔女っ子です。よろしくお願いします」
「これはこれはご丁寧に」
母さんはにこやかにそれに答えると、バシンと僕の背中を叩く。
「あんたがあんまり情けないからとうとう魔女っ子が現れちゃったじゃないの」
えっ、なんで分かるの? 僕がそう思っていると母さんは続ける。
「ドラ○もんだって主人公が不甲斐ないから現れたんでしょ。あなたもアニメの主役になるときが来たって事よ」
そこまで言うと母さんは「はあ」とため息をつく。僕も強気に否定できないところが痛い。すっかりブルーな気持ちになった僕をよそに母さんはさっきとは打って変わって元気になる。
「ねぇねぇ、ププイちゃんってほんとに魔女っ子なの? ねぇねぇねぇねぇっ」
ププイの両手を握ってぶんぶん振り回しておねだりしている。もうまるっきり幼児退行しているようだ。そして熱烈な要望にまんざらでもない様子のププイは
「じゃあ、ちょっとだけ見せたげるね」
といって母さんにスマイルを見せた。
まず彼女は右手の人差し指と中指をくっつけてふっと息を吹きかけた。するときらきらと光をともなって二十センチくらいのスプーンが現れた。何故にスプーン? まあこれだけでも十分に驚きなのだが、まだ続きがあった。彼女はスプーンの柄で宙に円を描きながら呪文を唱える。
「部屋の埃を集めよ、クルリ・パ・ルゥ」
短い詠唱の後振り下ろしたスプーンの柄の先にどこからともなくみるみる塵や綿埃が集まって球形になる。その集積効果は玉が硬式野球のボールほどの大きさになると止まった。
「これがこの部屋にあった埃よ。エッヘン」
彼女はそういうと空中に浮いた灰色の球形を「えいっ」と気合だけでゴミ箱にシュートした。母さんは目を丸くしてその様子に見入っていたが、気を取り戻すと僕の頭をはたいた。
「自分の部屋をちゃんと掃除しないとダメでしょ。恥ずかしい!」
そっちですか。母さんは僕を一通り叱り終わるとププイを抱きしめて頬ずりし始めた。
「わぁ、本物だぁ。本物の魔女っ子だぁ」
母さんの感動はひとしおだった。無理もない。母さんの魔女っ子好きは筋金入りで、中でも“魔法使いサリー”と“ヒミツのアッコちゃん”の大ファンだ。それらが録画されたビデオテープが第一話から最終話までそろっていて、化粧台の周りは魔女っ子系のぬいぐるみでいっぱいなのだ。母さんの中では魔女っ子イコール正義のヒロイン(いい子)という構図が常識になっている。ププイはと言うとまるで五歳児に捕まった子猫みたいにもみくちゃにされて少し母さんを持て余していた。母さんはププイの事を気に入ってしまったようだ。僕はププイがどうしてここに来たかは母さんに説明しなかった。もちろんチャームミストの事は説明したのだが、ププイに都合の悪い事は母さんには全然聞こえないらしい。母さんは「可愛そう」といって彼女を一層抱きしめた。どこをどう聞けばそうなる? やはり魔性の霧のせいか。せめて父さんには玄関を開ける前にこの危機的状況を説明せねば。
父さんが帰ってくるまでにはまだ時間があった。その間に母さんはキッチンで夕飯の支度を始め、ププイは手伝うとか言ってついて行った。キッチンでは母さんとププイが白いエプロンを付けてスパゲティーを作っている最中だった。特にププイは三角巾なんか頭に付けて初心者っぽかった。後姿だけ見ればほほえましい親子に見えなくもない。
「ねえママぁ、アルデンテってこのくらい?」
「んー、どれどれ、んーバッチグーよ」
ママですと? カッチーンときたぞ。馴れ馴れしい奴だな。それに母さんも母さんだ。女の子にママぁとか甘えられていい気になってんじゃねーぞ。いつの間にその呼び名を許したんだ。僕はそう思いながら「あーん」と一本のパスタを口で受け取っている母さんをキッチンの椅子に座って睨んでいた。もうそろそろ父さんが帰ってくる時間だ。ププイの見ていない間に玄関に張り込みだ。
がーん!
玄関から五メートルくらい廊下にトゲトゲが突き出していてとても歩ける状況じゃない。底の厚いスリッパを履いてもかるがる貫通するであろう長さだ。母さんは呼んでも来てくれない。僕がどうしようか悩んでいると玄関先に人影がっ。
ガチャ
「んんっんんんんー」
はいっちゃだめだー、と叫んだつもりが口元にいつの間にか猿ぐつわが現れていて言葉にならない。皮肉にも代わりに床のトゲトゲがなくなっていた。僕の後ろには意地悪く微笑む魔女の姿がっ。
「ただいまー」
父さんが帰ってきた。入ってしまった。この頃には猿ぐつわも消えていた。あわわわわ。
「父さんダメだ。外に出て!」
「何で?」
見た感じ『早く椅子に座って麦茶を飲みたいぞ』って感じがした。
「魔女が来て、洗脳の霧をばら撒いたんだこの建物は危険なんだよ!」
「女の子の靴があるけど、お客様かい?」
必死に説明する僕に怪訝な表情で父さんは的外れな質問する。アイツは部屋に突如現れたはずなのになぜか玄関に女の子の靴があるぅ!?
「悪い魔女が来たんだ……」
「女の子が遊びに来てるからってそんなに恥ずかしがるなよ」
ちがうよぅ。
父さんがダイニングキッチンまで入ってきた。そして当然、キッチンに立つ母さんと見知らぬ少女を見る事になった。
父さんは最初エプロンに三角巾姿のププイを見て小さく驚く。
「おや、こんにちは」
次にニヤニヤして僕の方を見て
「こんなにカワイイ子と知り合いだとは意外だねぇ」
最後に母さんを見てる。
「母さん、その子近い将来ウチの娘になるかもしれないんだから優しくしてやってな」
いつもの事だけど勝手に解釈している父さんだった。そして僕の肩をポンポンと叩くと
「やーカワイイ子だね。まさか『鷹貴を立派な人間にするために未来から来た魔女』とか言うんじゃないだろうね」
冗談だろ。なんでそこまで想像出来る? もしや魔性の霧の効果か。僕は母さんと争いながら彼女の紹介をした。僕の部屋に突然現れたと言うこと。怪しい霧の魔法で父さんや母さんを洗脳して味方に付けようとしている事。あと母さんが言って聞かないのは彼女がここに来たのもひとえに僕が不甲斐ないからであるだろうと言うこと。
この説明で父さんは理解してくれただろうか。僕は少しでも父さんのご機嫌を取るため、タオルを水でぬらして固く絞って手渡した。父さんはそれを「ありがとう」とと受け取るとメガネをはずして顔を拭き始めた。父さんはひとしきり顔を拭き終わるとスーツの上着を脱いで椅子に掛け
「お料理もすんだようだから、まあいったんみんな座りなさい」
と静かにいった。ちょうど四つある椅子は満席になった。そこで父さんが沈黙を破る。
「ププイ君とかいったね。単刀直入に聞こう。母さんの言ってる事は本当かい?」
ああっ、やっぱり僕の言葉は聞こえてない。しかしやはりそれは重要な質問だった。それに対して彼女は凛々しく「はい」とだけ答えた。
「せっかく鷹貴のために未来からわざわざ来てくれたんだからウチにおいてあげましょうよ」
と母さんはププイをこの家に迎え入れようと提案する。母さん目を覚ましてくれ。母さんは大丈夫よ、と隣に座るププイの肩を抱く。ププイは黙ってうつむいている。
父さんはテーブルにあった麦茶をコップで一気に飲み乾すとププイに向かって語り始めた。
「ウチの鷹貴は男の子のくせに気が小さくて引っ込み思案なので私達も悩んでいたんだ。ところが君が来たとたんに元気にしゃべるようになって正直驚いているんだよ。だから、君が元の世界に戻るまでの間、是非ウチで息子と仲良くしてやって欲しいんだ。お願い出来るかな?」
父さんの話し方は、ホームステイさせてやろうという強い立場ではなく、君からも恩恵を受けるだろうと対等の立場に立って少しでも彼女の気疲れをなくしてあげようといった優しいものだった。その言葉にププイも思わずうっ、と涙ぐむ。
「ありがとうおじさま」
「今日から君はウチの子同然だ。私をパパと呼んでもいいんだよ」
「ありがとう、パパっ」
言って父さんの腕に抱きついているププイ。
「よかったわね、ププイちゃん」
母さんも感極まって泣いている。僕がどんなに悪い魔女だ、洗脳の霧だ、とわめいても全然父さんにも母さんにも聞こえていないみたいだった。心の中でこれは嘘だ、悪夢だって自分に言い聞かせた。
「一度女の子にパパって呼ばれてみたかったんだ」
父さんはでへへへと鼻の下を伸ばしていた。父さんにはそういう願望があったのか。
僕より誕生日が遅い彼女は我が家で妹的存在となり、こうして僕の家庭は魔女に寄生されたのだった。
「この部屋ちょーだい」
四人でトマトのパスタを食べ終わりPM7時。僕の部屋でのププイの一言。歩いて部屋の寸法を測ると絨毯の中央で「ちょっと手狭だけど用は足りるわ」とかなんとか至極つまらなそうに言いながらほぼ命令口調でそう言ったのだ。僕は初め自分の耳を疑った。はあ? 何言ってんのコイツ。客だったら何でも許されると思ったら大間違いだぞ。そういう意味を込めて「何でだよ」と短く答える。
「女の子には自分の部屋が必要なのっ」
彼女は腰に手を当てさも当然の事のように豪語する。僕はマジですか? とその瞳を見つめ返す。ちょうどそのときだった。何もない空間から複数の風呂敷包みが現れ、ドスンドスンと部屋を揺らした。
「なんだよこの荷物は」
と手を掛けようとした瞬間
「さわんな、スケベっ」
びくっ。スケベと言われて慌てて手を引っ込める。女の子にスケベと言われるととってもびっくりする。一種の条件反射のようなものだ。やっぱりスケベと言って怒るからには当然女の子の下着などが入っているからなのだろうな。デパートなどでチラッと見た事のあるそれらの色や形状が僕の脳裏をかすめる。コイツ胸ペッタンコだからブラジャーなんて持ってないだろうな。で、下の方は純白に赤いリボンのがスタンダードだが、ないないない。コイツの性格上魔性の女っぽくやはり黒主体なのかな。これで白地にパイナップルの絵柄だとか、水色に花柄とか、薄ピンクにピンクの水玉模様だったらそういう柄かよって指差して笑ってやる。
「何赤くなって固まってるのよ。アンタ本当にスケベね」
ああっもうスケベスケベうるせーよ。僕はむくれて部屋を見渡す。一つ持ち上げるのが限界なほど大きな風呂敷包みが計七つ程僕の部屋を占拠した。机の上、ベッドの上にもストンと乗っかっている。何だってこんなにも荷物があるんだ。この部屋にもともとある荷物より数倍多いだろ。
「ほら、アタシの荷物も多いことだしこの部屋譲ってよ」
やなこった。僕は正直なところ両親とあまり仲がよくない。口を開けば勉強しろ、体を動かせ、テレビゲームは程々にしろ。この三つ以外あまり聞いた事がない。この部屋を失って両親と居間で生活するようなことになったらそれこそ精神衛生上よくない。
「お前新参者のくせに生意気だぞ。ここは僕の部屋なのに何で僕が出なきゃいけないんだ」
僕は間違ってない。コイツがおかしいんだ。すると彼女は冷ややかな目で僕を見てため息をついた。
「穏便に和解出来たらいいなと思っていたけどムリみたいね」
穏便にってあからさまに強引じゃねーか。
「いいわ。分かった」
そういうと彼女は僕の横を通って部屋を出た。そしてとててててっと階段を駆け下りていった。父さんか母さんに何か言うつもりなのだろうか。
どすどすどすどす
ほどなくして力強く階段を上ってくる恐ろしい足音が聞こえて来た。嫌な予感がした。
がらっ!
「鷹貴っ!」
勢いよくふすまを開けて入ってきたのは母さんだった。その後ろにププイがピッタリへばりついている。母さんは僕に限界まで接近すると凄い剣幕で顔を近づけてくる。
「あなたにはガッカリしたわ。母さんはあなたをそんな冷たい人間に育てた覚えはないわよっ」
十分優しく育ったと思うんだが自分では。少なくてもそこにいる魔女よりは。そう思いながら母さんを睨み返す。
「ププイちゃんが『荷物を開けたいからちょっと外に出て』って丁寧に頼んでいるのに『ここは僕の部屋なのに何で僕が出なきゃいけないんだ』とは何ですか。この年頃の女の子は敏感なんだからもっと優しくしてあげなさいっ」
やっぱりそういうウソで来たか。僕の言葉を引用しているのが無性に腹が立つ。僕は母さんに本当の事を言う。
「ププイは僕にこの部屋をちょうだいって命令したんだ。荷物開けるとか聞いてないっ」
母さんは僕の大声に少し後ずさりした。僕がこんなに反抗した事はあまりないのだ。だが大きく息を吸い込んだ母さんがまだ魔女の話を鵜呑みにして叫ぶ。
「いい訳なんか聞きたくありませんっ。あなたがこうして部屋を出なかったことが全てを物語っているじゃない、この頑固者っ。それを怒ってるの母さんはっ」
昔からヒステリーを起こした母さんは人の言う事を全然聞かない。その上今回は女の子の味方だ。なおさらエキサイトしている。僕はこういうときは意見を言わず、しかし謝らないようにしている。それが唯一の反抗だ。すると母さんは部屋に点在する荷物を見て
「確かに多いわね。じゃあこのままこの部屋をププイちゃんにあげましょう。鷹貴は私が責任を持って保護観察処分にするわ」
やっぱりそうなるかちくしょう。このアマ、それも計算に入れてやがったのかな。問題の魔女は母さんの後ろで僕にアッカンベーをしていた。裏表の激しい奴め。
結局母さんの指示の元で僕は必要最低限の荷物を両親のいる一階の居間に移すことになった。まあ、勉強道具一式とタンスの中の物とゲーム機類一式だ。かくして僕は自室を追われ、これからは一階の居間で両親と三人で生活することとなった。今から気が重い。
僕はもくもくと荷物を居間に降ろしながら考えていた。何故父さんや母さんに対して猫をかぶった態度なのに僕にだけ本性を晒すのか。僕に対しても猫をかぶっていれば、部屋の事にしても下手にでて頼んでくれば波風立たぬと思うのだが。まあそれでも簡単に部屋をあげようとは思わなかったと思うが。ああっもうこのままじゃ今夜は気になって眠れないぞ。こういう時はやっぱり本人を問い詰めるに限る。
僕はわざとどすどす音を立てながら階段を上ると、ふすまの木枠の部分をノックする。ドゴドコという決してスマートとは言えない音がする。腹立たしいがここはもうププイの部屋なのだ。
「入って」
簡素な答えを聞いた後僕はふすまを開ける。
部屋の中心よりややベランダよりに体育座りしている彼女は、僕の方を一顧だにせず空にぽっかり浮かんだ三日月を見ていた。僕は部屋に入ってふすまを閉めると同じように座った。僕は気になる質問から始めた。
「どうして父さんや母さんの前では猫をかぶっているのに僕にだけ本性丸出しなんだよ」
すると彼女はくいっと首だけ曲げて僕を見ると事も無げに言い放つ。
「どうして同年代に気を使わなきゃいけないのよ」
それはそうかも知れない。いや、多少は気を使えよ。そう思っていると
「嬉しかった、そして悔しかった」
視線を床に這わせながら彼女は聞き取れるか聞き取れないか程の小さな声でそう呟いた。
「何が?」
空想力も推理力もない僕は尋ねる。
「アンタのママに抱きしめられたとき、なんか知らないけど温かくてとっても嬉しかった。でもこの人はアンタのママなんだって思ったら羨ましくなってアンタが憎らしくなったの」
あはは、柄でもない事言ってるよね。そう言って彼女は窓兼ベランダ入り口のそばにある学習机の脚の部分である板に背中を預けて座りなおすと右ひざを抱く。利き手の人差し指と中指の間にタバコを持たせたら即不良に見える座り方だった。しっかし言うほどいい母親か? 自分の息子の言う事は全部いい訳扱いだぞ。
「ププイの父さんと母さんは?」
「アタシが六歳の時、二人ともアタシの目の前で死んだ」
コイツ、寂しかったんだな、と僕は思った。まだ聞きたい事はあるけど今日はいいか。結構かよわいところがあるって分かっただけでも僕の怒りは何処かへ吹き飛んでいた。
「あとチャームミストの事なんだけど、あれは洗脳の術じゃないから」
「じゃあ何?」
「保護欲を強化する術。だからアンタの父さんと母さんは今まで通りアンタの親よ」
コイツがここに居座るために都合をよくする案外ソフトな術ということか。
「ププイちゃーん。お風呂入らないー?」
「はぁーい」
階下から母さんの声が聞こえ、彼女はかわいらしい声で答える。いつまでその化けの皮がもつか密かに楽しみかも。
居間に戻った僕は父さんとテレビを見ながら久しぶりに語り合った。いつもなら部屋でテレビゲームをしている時間だが、ゲームなら学校が終わってから五時頃までやればいい。何度も何度も自分に言い聞かせながら現状に慣れようとしていた。でもゲーム友達の友喜と話が合わなくなるかもしれないなぁ。僕は彼しか友達がいないので結構死活問題かも知れない。
居間に下りてきて四十五分くらい経っただろうか。とてとてとてぱたぱたぱたという裸足の足音が階段を上り終えたので、僕も風呂に入る事にする。
浴室内は甘酸っぱい桃の匂いで満ちていた。どうやら母さんがププイのために新しいシャンプーを開けたようだ。浴槽にはやわらかいプラスチックの黄色いアヒルが浮かんでいた。おそらくププイの忘れ物であろうコイツは果たしてどんな役に立つのだろうか。握って見ると「ピーブー」と鳴った。お湯につかってじっとそいつを見ているとなんか和んできた。浴槽が湖に変わったような気がした。ふーん。おそらくコイツはそのために浮かんでいるのだろう。以後コイツはここに住みつく事になった。
今日は珍しく父さんとも母さんともしゃべったな。母さんとはケンカになってしまったけど結果的に僕が引いたのだから謝る必要もないだろう。魔女がウチに居座る事に関しても、『ま、いっか』くらいにしか思わなかった。案外面白い事になりそうな気がしたから。
僕の家庭に桃色の風が吹き込まれたような気がした。
後にそれがハリケーンとなって学校を強襲することになろうとはこの頃の僕には知りようがなかった。今日もっと質問しておけばよかったのだ。