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第12話 運動会

 運動会が終われば、中学3年生は本格的に受験勉強に取り組むことになる。伊月はあの夏の日、咲いては消える打ち上げ花火を見上げながら『美術芸術系の高校に入学したい』と言った。そして、父親の勧める進学校『金沢大学附属高校には行きたくない』と、その期待を振り切るように、唇を噛んで声を震わせた。そんな伊月の目は花火ではなく、どこか遠くを見つめていた。陸斗は、伊月の苦しそうな横顔が忘れられなかった。陸斗自身、進路なんてまだぼんやりしたものだったのに、伊月の言葉はなぜか胸をざわつかせた。




10月中旬、運動会が催された。



「用意!」 パーン!


 競技スタートの空砲と、運動会定番の”天国と地獄”の楽曲が鳴り響くグラウンドには、色彩豊かなフラッグが風にはためいていた。陸斗の3-Aは赤組で、伊月の3-Cは青組だった。上背のある伊月は応援団に駆り出されていた。ただ、目立つことを得意としない伊月らしく、ベンチの端に隠れるように縮こまっていた。伊月は青い鉢巻を指でいじりながら、油絵の具のターコイズブルーを思い出していた。


(伊月、だっせぇ)


 グラウンドでは鉢巻を締め、カゴを背負った各クラスの主将が所狭しと駆け回っていた。生徒たちはその背中を追いかけ、勢いよく玉を投げ入れている。応援団の太鼓と力強い声援、そして、普段の鬱憤を晴らすかのような明るい笑い声が各クラスのベンチから響いた。


「3年男子短距離走、選手はテント前に集合してください」


 放送部のマイクが、陸斗が参加する競技を読み上げた。陸斗は首に掛けていた赤い鉢巻を、ギュッと力を込めて頭に結んだ。


「お、俺だ、俺」

「陸斗、頑張ってこいよ!」

「任せとけって!一位だ、一位!」


 雲ひとつない澄んだ青空、照り付ける日差しは強かった。陸斗は生徒の椅子を避けながら、集合場所へと向かった。


「お!」


 テント近くの青組のベンチで、ひと休みしている伊月と目が合った。伊月は陸斗の顔を見ると頬を赤らめた。陸斗が目を細めて手を振ると、伊月は緊張の面持ちで、学ランの襟元を気にしながら白い手袋で小さく手を振った。


「伊月、学ラン似合ってるぜ」

「そ、そうですか?」

「じゃ、行ってくるわ」

「はい」


 伊月は耳まで赤くなり、そわそわと髪を掻き上げた。





 陸斗は高校受験すら考えていなかった。ただ、伊月が進学したいと言った(県立工業高校)には陸上部の推薦入学制度があることを知った。


「先生、推薦入学いけそうですか?」

「長谷川は去年の県大会で2位だったよな、普段の成績も悪くない。推薦も夢じゃないぞ」

「マジか!」

「言葉遣い!」


 グラウンドを駆け抜ける疾走感、跳ねる鼓動。高校に進学しても陸上を続けたいと思っていた陸斗にとって、叶えたい夢が出来た。これまで、掴めなかった雲のようなゴールが定まった気がした。




「用意!」


 陸斗は地面を見つめ、息を整えながら、ふと夏の花火の夜に見た伊月の真剣な目を思い出した。


「ちょっとごめん」


 伊月の足は自然と前に進み出ていた。陸斗の赤いランニングシャツに目が釘付けになった。陸斗の姿を見つめていると、まるで自分がスタート地点にいるような緊張が腹の底から込み上げた。


パーン!


 空砲が鳴ったその瞬間、陸斗は獲物を狙う豹のような面差しでゴールを見据えた。両手が宙を切り、脚が地面を蹴り上げた。グラウンドを取り巻く声援は、陸斗の耳には届かなかった。ただ、前へ!前へ!と風を切り、白い紙テープを目指した。


(負けたくねぇ!)


 陸斗はゴールを見据えながら、伊月の言葉を思い出していた。『行きたい高校があるんです』その真剣な眼差しに、負けられないと思った。そして伊月にとって、陸斗の走る姿は、まるでキャンバスを切り裂くペインティングナイフのようだった。


(陸斗くんはいつもまっすぐ走る。僕もそんな風に進みたい!)


 陸斗の走る姿に、なぜか胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


パーンパーン


 紙テープを引き千切る感触が陸斗の情熱を受け止めた。陸斗は二位を大きく引き離してゴールした。


(陸斗くんは、やっぱりすごい!!)


 羽根が生えた豹は伊月の心臓を鷲掴みにした。陸斗は腰に手を当て流れる汗を拭うと、生徒の群れの中にターコイズブルーの鉢巻を巻いた伊月を見つけた。


(伊月)


 陸斗は親指を立ててニカっと笑って見せた。伊月の胸に温かなものが寄せては返し、少しずつ広がっていった。陸斗は胸に一位のリボンを付けて、伊月へと近付いてきた。


「陸斗くん、陸斗くんはいつも真っ直ぐに走ってすごいです」

「あとで借り物競走にも出るけどな」

「そんな意味じゃありません!」


 伊月は唇を尖らせると眉間にシワを寄せた。


「分かってるよ。でも伊月、おまえだって真っ直ぐ走ってるじゃねぇか」

「なにがですか?」

「絵を描きたいって気持ちだよ」

「そう、ですけど・・・高校が」


 陸斗は伊月の肩を軽くポンポンと叩き、真剣な目をして小さな声で言った。


「伊月、父ちゃんにちゃんと話してみろよ。自分の人生、お前が決めるんだろ?」

「自分の人生」

「そうだよ」


 陸斗は赤い鉢巻を取ると、後ろでに手を振りながら赤組のベンチに戻って行った。『陸斗!やったな!』クラスメートに声を掛けられ、髪をもみくちゃにされている姿は眩しかった。けれど、陸斗を囲む少女たちの姿を見るのは辛く、背中を叩いてふざける遠藤美樹の笑顔に、伊月は目を伏せた。


(なんだ、これ)


 伊月は胸に手を置いて、離れてゆく陸斗の背中を見送った。





「応援合戦が始まります、各自、席に着いて下さい」


 そして午後の競技が始まった。伊月は応援合戦で、不慣れな声を張り上げた。伊月は緊張と恥ずかしさで、脇に嫌な汗をかいた。グラウンドの砂が風に舞い、遠くで次の競技の準備が始まっていた



「次のプログラムは借り物競走です。選手はスタート位置に集まって下さい」


 グラウンドには大きなプラカードが何枚も並べられた。応援合戦が終わり、伊月はようやく、学ランとターコイズブルーの鉢巻から解放された。ベンチに座り一息ついていると、借り物競走の走者がスタート地点に集まり始めた。


(・・・あ、陸斗くんだ)


 伊月は走者の群れの中から赤いランニング姿の陸斗を見つけた。陸斗は隣の走者と談笑し、襟首を掻いたり髪を掻き上げたり、午前中の短距離走のような鋭さは微塵も感じられなかった。


(楽しそうだな)


 伊月は、自分も借り物競走に出れば良かったと後悔した。その時、それまでは流行りのポピュラーソングが流れていたが曲調が変わり、天国と地獄が大音量でグラウンドに鳴り響いた。生徒たちは立ち上がり、歓声が沸き起こった。


『よーい』 パン!


 軽く走り出した走者たちは、裏返っていたプラカードを手に取り、書かれた文字を確認した。次の瞬間、周囲を見回し、テントで扇子を煽いでいた校長の手を引いて走り出す者もいれば、額に汗をかきながら、椅子を両腕に抱えてゴールを目指す者もいた。


(陸斗くんはなんて書いてあったのかな?)


 陸斗の目は細まり、口元に柔らかな笑みが浮かんだ。まるで迷いなく決めたように、青組のベンチへ走り、伊月に向かって手を伸ばした。


「おい、伊月!」

「ぼ、僕!?」


 陸斗の手が伊月の手首を掴んだ瞬間、胸がドキリと高鳴った。なぜ自分なのか、驚きと喜びが混じる中、陸斗は踵を返して走り出した。


「なんで僕なんですか!?」


 伊月は生まれて初めて風を切って走った。陸斗と歩調を合わせゴールを目指す。鼓動が激しく波打ち、息が上がった。ふと目にした陸斗の抱えたプラカードには『大切なもの』と書かれていた。伊月の胸に、温かさと戸惑いが同時に押し寄せた。


「へへ」

「・・陸斗くん」


 陸斗は無邪気な笑顔で髪の毛を掻き上げ、伊月を見た。伊月は陸斗と一緒に白いゴールテープを切った。沸き起こる歓声に包まれた伊月の胸は高鳴り、これからもずっと、陸斗と同じ道を歩みたいと思った。


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