これはいつ終わるのだろうか? いや、もしかしたら、これは終わることのない原稿で、それをただひたすら書かされているだけに過ぎないのではないだろうか? こんな疑問がふと頭によぎりながら、今日も原稿に取り掛かっている。
俺の名前は
今日と同じように、狭いアパートの中、孤独になりながら何時間も原稿と向き合う毎日。正直なことを言うと、これほどつらい生活はないというのが本音だ。サポート役として編集者という存在はいるものの、結局頼れるのは自分だけ。書き上げなければ収入は入ってこないし、原稿料も大したことはなく、本を出したところでどれも部数は高が知れている。労力に見合った対価を得てるとは正直言えない状況だ。
何度もやめてしまおうと思った。本当なら今すぐにでもやめたい。だけれども、どうしても踏ん切りがつかない。こんなに苦しいのに、なぜかやめられないのだ。
だが、それも振り返ってみると、理由はなんとなくわかってくる。小説を読む、小説を書くという行為は、ある種の中毒性をはらんでいるのだと思う。小説を読むも書くも、ある種の擬似体験のように俺は考える。そう考えると、その中に一つでも中毒性の高い存在に触れてしまえば、容易に抜け出せないのは想像がつく。そして、さらに小説が厄介なのは、このつらい禁断症状から抜け出すためには、自分の求める内容を書かなければならない点にある。だからこそ、見えない沼にはまるほど苦しいものはないということなのだ。
こんな状態が長く続いたせいなのか、俺の煙草の量は増えるばかりだ。ただでさえ貧乏なのに、普通の煙草よりも割高で、人前では見せない煙草を吸っている。だから、余計に金が減っていくばかりだ。
今日も狭い部屋の中、原稿の目の前には紫煙が広がっていた。だが、今日は気分がいい。いや、ここ数週間は、珍しく気分がいい状態が続いている。
それはそうだ。なぜなら、今の俺の頭の中には、自分にとって最大限中毒性になりえる光景が広がっているからだ。
今書いているこの小説のヒロインである
自分の書いた小説のヒロインを好きになることはあるにせよ、こんなにも夢中になることは生まれて初めてだ。
そう、俺は完全に鏡華に惚れている。しかも、自分で作り上げた架空の女にだ。だからこそ、今これを読んでいる読者の大半には、ずいぶん寂しい男だという風に思われるかもしれない。
確かに寂しい奴だとは思う。女の人肌が恋しいせいで、このような妄想に取り憑かれてしまったのかもしれない。だが、それは仕方がない。なってしまったものには逆らえないのだ。
ああ、この背徳で甘い快楽をずっと味わっていたい。でも、こんなことを思ってるからこそ、原稿が終わらないのではないだろうか。締め切りを過ぎた罪悪感が脳裏を掠める。
しかし、こんな妄想を巡らせていくうちに、その時間も限界が来てしまう。何も浮かばなくなってしまえば、またすぐ禁断症状が出始める。ああ、なんという倦怠感。これを少しでも和らげることはできないものか。
時刻に目が留まる。もうすっかり夜の時間だ。先程間食を済ませたから、大して腹は減っていない。もうこれ以上筆が進まないだろうから、飲みにでも行こうか。
俺は立ち上がると、そのまま家を出た。
行きつけのバーにたどり着くと、そのまま中へと入った。入る直前に気がついたが、俺は今手ぶらな状態だ。まあいい。お得意の客ではあるのだから、ツケにしてもらえるだろう。そういえば、以前もツケにしてもらったな。大丈夫大丈夫。
俺はいつものようにカウンター席に足を運ぶ。客は……少ない。当然といえば当然だ。そう、今は不景気な時代だ。酒飲む余裕なんてないのだろう。
俺はそんなことを思いながら、カウンター席へと近づく。すると、ひとり寂しそうに飲んでいる女の後ろ姿が目に入ってきた。黒くて長い髪だ。そういえば、鏡華も同じ髪だったな。
この後ろ姿を見ていると、途端に自分が女に飢えていることに気がつく。基本的には痩せているが、尻といい脚といいちょうどいい塩梅の肉付きだ。
そういえば、もう長いこと女に触れていない。俺は本来大の女好きだ。それがもう長いこと女に触れていないのであれば、普通で考えれば到底耐えられることではないだろう。まあこれらが原因で鏡華という幻想に取り憑かれているのだとするならば、この依存症からの脱却のためにも女に触れておくのはいいかもしれない。
「失礼、お隣いいでしょうか?」
馴れ馴れしいなんてことは気にせず、俺は彼女に話しかけた。すると、彼女はこちらに顔を向けた。
彼女の顔を見て俺は驚いた。なぜなら、それはまさに俺が頭の中で思い描いた鏡華の姿そのものであったからだ。
俺の鼓動は一気に高まる。それは当然だ。俺自身の女としての理想か今ここにあるのだからだ。
「ええ、いいですよ」
彼女はアンニュイに答えた。声もそうだしこの感じ、ますます鏡華そっくりに思えてくる。
なんて会話を切り出そうか。俺は迷う。俺が待ち焦がれた女が目の前にいるのだ。なんとしてもお近づきになりたい。だが慎重に慎重に、言葉を選ばなければ。そう思えば思うほど、絶頂間近のように言葉を吐き出したくなる。俺はそれに逆らえず、ろくに考えないまま口を開いてしまう。
「おひとりですか?」
「ええ……」
「よろしかったら、少し話し相手になっていただけないでしょうか?」
俺がこのように言うと、彼女はこちらの顔をよく見るような感じの表情を一瞬見せる。なんだか返答に迷ってるようだ。だが、この数秒後、彼女は再び口を開く。
「わかりました。いいですよ。じゃあ、少しお話ししましょ」
彼女が承諾してくれたので、思わず笑みが溢れた。俺はフローズン・ダイキリを注文すると、彼女が飲んでるカクテルに目を向けた。
「何を飲まれてるのですか?」
「コープス・リバイバー」
コープス・リバイバー、確か迎え酒として飲まれるタイプのカクテルだが、このカクテルの意味は確か……。
カクテルの意味について思い出していると、彼女がまじまじとこちらを見ている様子に気がついた。俺はそのことにより一層気持ちが高ぶってくる。
「せっかくお話しできる機会をいただけたことですから、何を話しましょうか。ではまず、自己紹介から始めましょう。わたくし、沢崎征士郎と申します。あなたのお名前、伺ってもよろしいでしょうか?」
彼女は俺の言葉を聞いて、再び返答に困ったような表情を一瞬見せた。だがすぐさま、口を開く。
「キョウカ……といいます」
キョウカ⁉︎ 俺は彼女の言葉を聞いてますます驚いてしまう。それは当然だ。鏡華そっくりな女が名前まで同じだということに、俺は驚きを隠せない。
「どんな漢字で書くのでしょうか?」
「どんなかんじ?」
「あの、名前です」
「ああ、鏡に華と書いて鏡華といいます。ハナは画数の多い漢字のほうですね」
鏡に華と書いて鏡華。それでは俺が作り上げた鏡華が、現実として存在するということではないか。中身はどうだろう? 流石に生い立ちや性格までは違うはずなのでは。いや、そんなことはどうでもいい。待ち焦がれた鏡華という存在。たとえそれが虚構だとしても、今この瞬間に存在するならそれでいい。
「え〜と、 沢崎さんでしたっけ?
「征士郎で構わないですよ、鏡華さん。わたくし、沢崎征士郎という名前で作家をやっております。小説も十冊ほど出しているのですが、やはり、ご存知ないですか?」
俺は迷わず作家であることを打ち明けた。売れてない作家の名前なんて、知るわけないなんてもちろんわかっていたものの、こうして俺の名前を聞いて何も反応しない様子を目の当たりにすると、いささかではあるが高ぶっていた感情が凹んだ。
「ええ、すみません。わたし、あまり本を読まないもので」
「いえいえ、本を読まないのは鏡華さんのせいではありませんよ。そもそも見ず知らずの男に作家だと言われても、何言ってんだこいつってなるでしょうから」
「ははははっ、確かにそうですね。征士郎さん、いや征士郎と呼べばいいのでしたね。だったら、わたしのことも鏡華と呼んでください。ああそれと、お互いかしこまった喋り方するのはあれですから、タメ口で話しましょ」
「そうだね……鏡華」
このタイミングで、彼女は初めて笑顔を見せた。いや、正確には微笑んだというのが正しいが、俺はこの微笑んだ顔にますます見惚れてしまう。しかし、彼女は微笑んではいるが、この微笑みにはどこか違和感を覚えた。
「鏡華さん。いや、鏡華か。鏡華はなんの仕事してるの?」
鏡華はカクテルを飲み干すと、一呼吸おいた。
「ただの飲んだくれ」
鏡華はそう言うと、空になったグラスを片手に笑ってみせた。
「……前は会社員として働いていたのだけど……それをやめてしまって、今は働いていない。だから、今は無職」
鏡華は空のグラスをカウンターに置くと、笑みを残しつつしんみりとした様子を見せた。
「会社をやめてしまったということだけど、以前はどんな会社で働いてたの?」
「ふぅ〜、そうね……元々金融業界で働いてて、証券業務の営業とかやってた……まあそれも結局はやめてしまったわけだけど、でも給料はそれなりにもらえてたから、無職になってもこうして飲めてるってわけ」
「金融関係の会社で、営業担当で、それなりの給料ってことでしょ、そこから察するに、かなり給料は良かったんじゃないのかな?」
「まあ、平均よりは高いと思う」
「だったらやめなくても良かったんじゃない? いやでも、それでもやめたいと思うほど、仕事が過酷だったとか?」
「そうね。競争も激しいし、ノルマも厳しいから、確かに大変だった……でも、それがやめた理由じゃない。やめたのは……そう……うん、あのとき、わたしは幸せだった。だからやめたの」
「幸せでやめたってどういうことなの? なんか変じゃない? 幸せだからやめたって」
「確かにそうね」
こう言って鏡華はしんみり微笑む。
「幸せでやめたって、どういうことなんだろう? う〜ん、あっ、わかった。もしかして、結婚したとか、そんな話じゃないだろうか」
鏡華の今までの会話から推察して、俺は自分なりの答えを出した。俺の言葉を聞いて、鏡華は相変わらず微笑んだまま変わらない。だがこの瞬間、彼女の顔により一層寂しい影が射したかのように思えた。
それからというもの、少しの沈黙。この
「う〜うん、幸せは嘘。ただ単に仕事が嫌になったからやめただけ……ただそれだけ……」
そう言うと、鏡華は顔を逸らした。そして、何か遠くを見るようにバックバーを見つめる。
俺は鏡華の横顔を見ながら、彼女の飲んでいたカクテルを思い出す。それを思い出した途端、俺はひどく申し訳ない気持ちに襲われた。
鏡華の横顔から視線を逸らすと、グラスに入ったバーボンを一気に飲み干す。あ〜、より胸が痛くなってきた。
「ねえ……」
囁くような声で鏡華が声をかけた。俺は鏡華のほうに顔を向ける。すると、彼女の笑顔には影が消えていた。
「ねえ、今からどこか行かない?」
「行くってどこへ?」
「別の店へ
「悪いけど、今金を持ってないんだ。手ぶらでこのまま来たからさ、ここならツケてもらえるからいいんだけど、他のとこだと……」
俺の言葉に鏡華は少し考えた様子で、斜め上に視線を向ける。そして数秒後、彼女は
「だったらさあ……」
このあと、少しの沈黙。
「だったら何?」
「だったら、あなたの家に行こうよ、征士郎」
「おれの家? おれの家ったって、狭いアパートだよ」
「もしかして、都合でも悪いわけ? たとえば奥さんがいるとか?」
「おれは独り身だ。彼女もいない」
「だったらいいじゃない」
「ほんとにいいの? ヤニ臭いとこは嫌じゃない?」
「ならちょうどいい。わたしも喫煙者だから」
鏡華はそう言うと、煙草を吸う素振りを見せた。
「わかった。じゃあ行こうか。マスター、彼女の分も一緒にツケといてくれ」
マスターが頷いたのが目に入ると、俺は鏡華に視線を送った。彼女は僅かに首を縦に振ると、椅子から立ち上がった。そして、そのまま俺と鏡華はバーをあとにした。
家に帰ってドアを開けると、本が何冊も散らばり、紫煙が立ちこめる光景が目の前に広がっていた。
俺は靴を脱いだ。そして、何歩か歩いたそのあと、突然背中を中心に何やら温もりを感じた。
「どうしたの?」
俺は訊ねた。後ろから
「征士郎……」
俺は振り返る。すると、涙を浮かべた彼女がそこにいた。
「一体どうしたの?」
「……なんでなの?」
「……」
「……なんであなたなの? ……なんであなた、こんなにもあの人に似てるの? ……もう忘れようと思ってたのに」
「鏡華……きみは……」
「見た目ならともかくよ、こんなにまで喋り方がそっくりだと、本当に生き返ったと思ってしまう」
彼女はこう言ったあと、俺の胸付近に耳を当てた。
「あ〜、鼓動が聞こえる。暖かい……あなたって暖かいのね」
「……」
「……今この瞬間、あなたがここにいる。わたし……わたしは、そう信じたかった……でも……今のあなたは偽者なのよね」
鏡華はそう言うと顔を上げた。そして、彼女は微笑む。月明かりに照らされ、彼女の瞳はより一層輝いていた。
「恋人? それとも旦那さん?」
「ええ、会社員の頃知り合ってね。幸せな家庭を築いてた……でも、あの人がやってた会社が上手くいかなくなってね、帰宅したときには……」
彼女の言葉がここで途切れる。そして、瞳から一筋の涙が溢れ出た。その光景はまるで光り輝く鏡の華のようであった。
「……わかった。はっきり言うよ。おれはきみの旦那さんじゃない。代わりにはなれないよ」
「わかってる……わかってる」
鏡華は涙を手で拭った。
「このまま帰ったほうがいいかもしれない。じゃあ、今からタクシーでも呼ぼう」
「……呼ばなくていい。今はあなたと一緒にいたい。夫の代わりじゃなく、沢崎征士郎というひとりの男を、わたしは求めてる」
「鏡華……」
彼女はそう言うと、段々と顔を近づけてくる。俺はそれに抗えなかった。
目を閉じた。唇に熱い感触が伝わってくる。舌もだ。俺は本能に従い、鏡華の身体を抱き締めた。そして、まるでむさぼるかのように、互いに激しく口づけを交わしていった。
俺は接吻した状態から彼女を抱き上げると、その勢いでベッドのところまで歩いた。俺は鏡華をベッドの上に下ろすと、俺もベッドの上に上がり四つん這いの体勢で彼女を見下ろした。
互いに目が合う。それから、またゆっくりと顔を近づけていき、そしてキスをする。熱く熱く、とても濃厚な接吻。俺は彼女を強く抱き締める。そして、まるでむさぼるかのようにキスを続けた。
それからというもの、俺と鏡華は体力が続く限り、お互いを強く求めていった。
目が覚めると、俺と鏡華はベッドの上で寝ていた。狭いベッドの中、お互い裸の状態で。
横に目を向けると、彼女は安らかに眠っていた。ああ、なんて美しい寝顔なのだろう。どんな美女であれ、大抵寝顔は醜いものだと思う。だが、これを見てみろ。まるで歴史上に名を残す絵画のようではないか。それほどまでに美しく尊い存在が、今目の前にあるのだ。
俺は思わず手を出して、そんな彼女の寝顔に触れようとする。ゆっくりと手を彼女の顔に近づけようとするのだが、バランスを少し崩したのか、小さな物音を立ててしまう。
彼女は目を開けた。月明かりに照らされ、その瞳は輝いている。それはまるで、彼女の名前の通り鏡の華のようであった。
「どれだけ時間が経ったの?」
「わからない。でも、まだ真夜中のようだから、そんなに経ってはないんだと思う」
「恥ずかしいな」
「何が?」
「わたしより先に起きてたんでしょ? だって、寝顔見られるほど恥ずかしいことなんてないもの」
「いいものを見せてもらった」
「悪い人」
鏡華はそう言って微笑んだ。俺もこれに笑みが溢れる。
「悪い人は嫌い?」
「そうでもない。わたしにとって悪い人でなければ」
「なら問題ない。鏡華にとって悪い男ではないから」
「本当に?」
「本当だとも」
「そう、だったら問題ない」
「だったら、こっちも訊くよ。きみは悪い女なの?」
鏡華は一呼吸おいて、考える素振りを見せた。
「悪い女なのかもしれない。いいえ、多分悪い女よ。悪い女は嫌い?」
「うん、どうだろう? そうだな。悪い女も悪くはないかもしれない。おれにとって悪い女でなければ」
俺がこのように言うと、お互いに声を出して笑った。でもこの声はとても小さく、真夜中の雑音に掻き消されていった。
「悪い男女、悪者同士、このふたりが一夜をともにする。これだけで何か小説書けそうね」
「小説という言葉は言わないでくれ」
「なんで?」
「だって、これが幻であってほしくはないから」
「いい幻だとしても?」
「幻なんて一瞬で終わる。それは虚しいだけだ」
「だったらどうあってほしいの?」
「これが現実であってほしい。そして、この現実が永遠に続けばいいのにと」
「現実は永遠に続かないよ」
「なぜ?」
「現実とは
「そうとはかぎらない」
「どうして?」
「だって、この瞬間がおれにとっての永遠なのだから」
「ロマンチストね。よくわからないけど。何かの喩え?」
「どう受け取ってもらってもいい。それが作家としての性だ」
「作家って、今は小説の話はしたくなかったんじゃないの?」
「話の流れで言ったまでだよ、鏡華」
久しく楽しい気持ちを味わっている。他愛もない男女の会話。長らく誰とも会話をしてなかった俺にとって、ただ単に会話をすることがこんなに楽しいものだと思わなかった。
いや、それは違うか。だって、最高の女とお喋りして、楽しくないなんてことがあるはずない。
「じゃあ、これを物語にしたくはないわけか」
「そうだ」
「せっかくいい物語になりそうなのに」
「それは良くない。物語にしてしまえば、誰かに見せないといけないから。だって、独り占めしたいからね」
「そんなこと言ってると、何も小説書けなくなるよ」
「書けなくたっていい。こうして鏡華といるだけで充分さ」
「本当に悪い人ね」
彼女は笑う。ああ、きれいだ。
俺は顔を近づけると、目を閉じた。すると、唇に熱い感触が伝わる。舌を絡めていけば、より一層口全体に、いや心までもが熱を帯びるように感じるのだった。
「本当に悪い人」
目を開けた。ああ、やはりきれいだ。
「本当に悪い人ね。編集者からしたら、本当に悪い作家だと思うよ、征士郎」
「締め切りなんて破るためにあるもんだよ」
「ははははっ」
あまりに可笑しかったのか、彼女は声を出して笑った。それは目覚める前とはまるで嘘のようであった。
「悪い人。でも、あなたって、本当に悪い人なの?」
「どういう意味?」
「そうね。あなたが本当に悪い人だってことを、何かで証明してもらわなければ」
「証明ならしてるさ。だって、未亡人を自分のものにしようとしてるのだから」
俺はしまったと思った。なぜなら、彼女は夫を亡くしたことに深く傷ついている。それをようやく忘れさせることができそうだったのに、俺のほうから傷口を開くようなことを言ってしまった。なんて馬鹿なのだ。
俺は言った途端、少しばかり彼女から目を逸らしていたのだが、再び彼女に目を向けた。彼女の表情は変わらない。依然と微笑んだままだ。だが、その微笑みには影が射していた。
「そうね。あなた、やっぱり悪い人」
鏡華はそう言うと、床のほうに何やら手を伸ばす。そして、小さな黒い箱を手に取った。どうやらボックスタイプの煙草のようである。
「あなたも吸う?」
「見たことない煙草だね。なんていう銘柄なの?」
俺がそう言うと、片手で持ち替えて、表面を見せてくれた。そこには銀色の文字で鏡華と記載されていた。
「鏡華……」
「そう、わたしと同じ名前。黒のパッケージといい、まさに今のわたしにぴったりじゃない?」
「そうだね」
正直なところ、なんて返答すれば良いのかわからなかったが、取り敢えずこのように答えた。
「火貸してくれる?」
俺は枕元に置いたオイルライターを手に取ると、彼女の持つ煙草に火をつけた。
彼女は煙草を吸うと、ゆっくりと煙を吐き出す。気だるく、陰鬱な感じで。それが似合ってるように見えるのが、まさに皮肉のように思えた。
「あなたも吸う?」
「いいの?」
「うん、あなたにも吸ってもらいたいから」
俺は一本煙草を受け取ると、鏡華は煙草を口に咥えながら、顔を近づけてきた。俺は煙草を口に咥えると、近づく彼女に煙草を向けた。
煙草を通した接吻。それは先程までの口づけとは異なり、煙を通して全身が熱を帯びていくかのようだ。あまりに刺激が強く、意識が一気に飛んでいきそうだ。
「そう、ゆっくりと味わって」
彼女の言葉に従うように、ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く。交互に繰り返していくのだが、ああなんという刺激。普段の煙草やセックスでもこんな快楽は味わえない。そう思えるかのように、燃えるような幻夢に惑わされてしまう。
「……これは……一体」
「これは鏡の華。言葉通りよ」
「……鏡の……華?」
「そう、これを吸えば、あなたの言う通り、今この瞬間が永遠になるよ」
「……永遠」
そうだ。俺は鏡華と今いるこの瞬間を永遠のものにしたいのだ。だとすれば、もう、これを吸うしかない。
俺は彼女の言葉に従い、一気に煙を吸い込む。限界まで近づくと、今度はゆっくりと煙を吐き出した。紫煙が天井に広がる。ああ、この光景はまるで
鏡華は煙草を吸うと、咥えていた煙草を口から離した。そして、彼女はゆっくりと顔を近づけてくる。俺もそれに従い、ゆっくりと顔を近づけた。唇と唇が重なる。舌と舌が絡み合う。彼女は煙を吐き出し、吐き出た煙は俺の喉の奥、そして肺の奥深くへと到達した。
俺はこのとき確信した。これが本当の絶頂であることを。そして、絶頂による快楽に溺れるなか、徐々に意識が薄れていった。
目を覚ますと起き上がり、普段執筆している机に向かう。椅子に座ると、後ろを振り返った。
振り返ると、
俺は再び机のほうに視線を戻すと、途中で放棄した原稿に取り掛かる。今日は思いのほか書くスピードが速い。こんなに書くスピードが速いのは、生まれて初めてだ。
そしてこの勢いは持続したまま、どんどん原稿に文字が埋まっていく。そして、窓から朝日が射しこんできたタイミングで、俺は遂に原稿を書き上げた。
俺は椅子から立ち上がり、背筋を伸ばすと窓を開けた。そして、外の空気を思いっきり吸う。
ああ、なんて気持ちがいいのだろう。今までの陰鬱な空気がまるで嘘のようだ。外の空気が美味しいことに、今この瞬間、改めて気づかされた。このときの俺の顔は恐らく、ベッドの上にいる彼らと大して変わらないだろう。
外の景色をよく見る。雲も少ない。今日の天気はおそらく晴れ。今の俺の心と同じく晴々とした陽気だ。
今日は出かけるにはちょうどいいかもしれない。出かけること自体、もう長らくやってなかった。いや、どうだろう? まあ、いい。でも、朝方出かけるなんてことは、本当に久しぶりかもしれない。だって、普段は今の時間帯にベッドの中に入るのだから。
俺は煙草を取り出し、一本吸う。ああ、いい一服。あっ、でも窓開けてちゃ怒られるか。まあ、いい。どうせまだ早朝だ。誰も見てはいないだろう。
煙草を吸い終わると、灰皿で火を消した。そして、俺はもう一つの手に持ってる煙草の箱に目を向けた。
黒いパッケージに銀色で鏡華と記載されている。はて、俺はこんな煙草を吸っていたのかな?
疑問は残りつつも、火を消したの何度か確認する。そして、着替えることなく、玄関のほうを開けた。
ドアを開けると、明るい光景が目の前に広がる。ああ、やはり出かけるにはいい光景だ。
俺はこの景色を見て思わず笑みを溢すと、このまま外へと出かけた。家に帰ってくる時間は特に決めずに……。
ってことで、俺の物語はここで終わりだ。だが、ここで一つ疑問が残る。
この物語を書いたのは一体誰なのだ?