風間俊介が家族も地位もすべてを失ったあの時、朝倉初音は彼に決定的な一撃を与えた——彼の目の前で、宿敵・藤堂遥の車に乗り込んだのだ。
それから数年後。
俊介は成功を収め、あらゆる手段を使って初音を妻に迎えた。
誰もが、彼が初音に深く愛情を注いでいると信じて疑わなかった。
だが、彼は夜ごとにいろんな女を連れ帰った。
中にはかつて初音をいじめ抜いた黒川真奈の姿まであった。
風間俊介は、朝倉初音を世間の笑い者にした。
それでも初音は、泣きもせず、怒りもせず、ただ静かに、彼の仕打ちをすべて受け入れた。
その様子に俊介は苛立ち、激しく唇を奪いながら、低く問い詰めた。
「……嫉妬もしないのか?」
彼には知らなかった——
初音には、もう時間が残されていないということを。
彼が復讐の名のもとに初音を傷つけていたその日々、彼女は黙ってその“終わり”を数えていたのだ。
「朝倉初音、最終試験合格おめでとう。」
薄暗いセーフハウスで、男は銀色のバッジを彼女の前に滑らせた。
「君のコードネームは“ナイチンゲール”。仮死用の薬はすでに注射済み、記憶消去手術はその後に行う。」
「君は、スパイになるということがどういう犠牲を伴うか、理解しているな?」
「……ええ、理解しています。」
彼女は知っていた。
スパイになるということは、これまでの人生すべてを捨てるということ。
自ら死を偽装し、記憶を消され、新たな身分で“別人”として生きる運命。
初音はバッジを手に取り、その鋭い縁を指先でなぞった。
左肩の傷口からはまだ血がにじんでいる。銃弾がかすめたところが熱く疼く。
だが、痛み以上に彼女の心を締めつけているのは、この先に待ち受ける“彼”——風間俊介の存在だった。
深く息を吸い、彼女は風間家の扉を開いた。
リビングから、女の甘ったるい笑い声が聞こえてくる。その音が耳をつんざいた。
今夜もまた、俊介は女を連れてきていた。何人目かなんて、もう覚えていない。
「俊介、このカーペット、すっごくふわふわ~」
初音の足が止まった。
この声……間違いようがない。黒川真奈。
かつて自分を美術室に閉じ込め、カッターで背中に“ビッチ”と刻んだ悪魔。
その悪魔を、俊介は優しく抱き寄せ、初音の目の前で“愛”を演じていた。
——結局、人を一番深く傷つけるのは、身近な存在だ。
俊介は初音を痛めつけるために、あえてその“悪魔”を抱いたのだ。
「俊介~」
黒川の声は蛇のように絡みつく。
「このメイド、ずっと私を睨んでくるの。怖~い。」
俊介はソファにもたれ、黒川の髪を指で弄びながら答えた。
「気にするな。ただの下賤な使用人だ。」
彼は初音を見やり、薄く笑って言った。
「戻ったのか。ちょうどいい。ワインセラーからワインを取ってきてくれ。」
彼女の足元に札束が落とされた。
「余りはチップだ。肩の傷、大丈夫か? 金が好きなお前には、それが一番の薬だろ。」
胸がひどく締めつけられた。
初音は何も言わず、その場を離れた。ワインを取りに、邸宅を出る。
外に出ると、冷たい夜風に身をすくめる。
見上げれば、二階の窓には明かりが灯っている。
——三年前も、こんな夜だった。
俊介は父を亡くし、家も会社もすべてを失っていた。
その夜、初音は彼の前で、藤堂遥の車に乗った。
俊介は泣きながら車を追いかけ、三つの通りをも駆け抜け、ついには雨の中で転倒した。
肋骨三本を骨折し、三ヶ月も病院で寝込んだと聞いた。
そして今、俊介はビジネス界の新星として返り咲き、最初にしたことが、初音との結婚——そして毎日のように彼女を辱めることだった。
ワインを持って戻った初音を、俊介はバスタオル姿で手招きした。
初音は無表情で主寝室に入る。
部屋には淫靡な空気が漂い、ベッドは乱れ、バスルームからはシャワーの音が聞こえる。
「片付けてくれ。」
俊介が指さす。
「そのあと、真奈の服をバスルームに持っていってくれ。」
彼女は無心でベッドの上の衣類を集める。
黒いレースの下着を拾い上げたとき、不意に俊介が彼女の手首を掴んだ。
「何か言いたいことはないのか?」
低く、冷たい声。
初音は穏やかに答えた。
「風間社長、朝食の準備は必要ですか?」
その瞬間、俊介の目が凍りついた。
彼は初音を壁に押しつけ、その体を覆うように迫った。
「三年ぶりか。随分と鋼の心臓になったもんだな。」
酒の匂いと黒川の香水が混じり、初音の鼻腔を刺す。
鼓動が早まりながらも、彼女は表情を変えなかった。
「どうしてあの女なの?」
かすれた声で、ようやく絞り出した。
「あの女が私に何をしたか、あなたは知ってるでしょう。」
俊介はゆっくりと袖口のボタンを締めながら言った。
「……だから何だ?悔しいか?」
俊介は彼女の顎を掴んだ。
「三年前、俺をゴミのように捨てたお前が、今さら何を言う?」
その吐息に混じる黒川の香りが、初音の心をえぐる。
「俺は見せつけてやる。お前の一番憎んでる相手が、お前のすべてをどう奪っていくか。」
初音は静かに微笑んだ。
「風間社長、冗談がお上手で。金に目がくらんだ私に、悔しがる資格なんてありませんから。」
彼女は彼の手を振りほどき、背を向けて歩き去る。
誰も見ていなかった。
彼女の手のひらに、爪が食い込んだ赤い痕を。
誰も知らなかった。
三年前、彼の入院先に匿名で献血に行ったことも。
そして今朝、肩に負った銃傷が、彼を守ってできたものだということも。
——その殺し屋は今、郊外の廃倉庫で眠っている。