それを聞いて、神谷は露骨に嫌悪の色を浮かべた。
「彼女がもう亡くな……」
初音の死を思い出すたびに、胸が締めつけられる。
若すぎる命が失われたことに、彼は今でもやりきれない気持ちを抱えていた。
まして、生前の彼女がどんな扱いを受けていたかを知っていれば、なおさらだった。
「初音がもういないのに、あいつらはまだ……」
視線を落としながら、神谷は呟いた。
「……あのとき、俺が手を貸さなければよかったんだ」
「手を貸す?」
奈緒は首をかしげたが、神谷は軽く首を振る。
彼らの間にあった過去の恩讐など、奈緒に話すべきではないし、ましてや彼女が背負うべきことでもなかった。
「高橋啓泰には俺から話しておく。それと、他の連中にも注意しておくよ」
そして、不思議そうに問うた。
「……風間俊介は、止めなかったのか?」
彼が得た情報によれば、風間はこの“替え玉”を非常に大切にしているらしい。
今まで一度も人前に出したことはない。
一部の新聞社がふたりのスキャンダルを掴んだが、記事は印刷前に止められた。
噂を聞いた者たちの間では、“朝倉初音の替え玉を囲っている”という話がまことしやかに囁かれていた。そんなに大切にしているなら、高橋にいじめられるようなことはないはずだ。
しかし奈緒の脳裏に浮かんだのは、あの日のこと——
風間俊介がいとも簡単に高橋啓泰の言葉を信じ、危うく自分に手を出しかけたこと。
あれが“止めた”というのなら、笑わせないでほしい。むしろ、共犯だった。
だが奈緒はこれ以上、神谷と深い話をする気はなかった。
苦笑いしながら話題を戻す。
「……朝倉さんのこと、もう少し聞かせてもらってもいいですか?」
神谷は腕時計に視線を落とした。
すかさず奈緒は提案した。
「もしお忙しいなら、車の中ででも……」
声を弱め、スカートの裾をいじりながら、不安そうな顔を作った。
「皆さんの関係があまりに複雑そうなので……
私、うっかり何か失言しそうで怖いんです」
その仕草に神谷遥は心を動かされ、了承した。
——
車内で、神谷遥は前妻——初音のことを多く語った。
でも奈緒は彼がいくつかの情報を意図的に伏せていることに気づいた。
特に、風間がまだ今の地位を築く前の話だった。また、この二人には過去に恋人関係があったこともわかった。
だが、なぜあのような結末になったのかについては、神谷は口をつぐんだ。
車が高橋邸に到着すると、神谷は奈緒に尋ねた。
「……中に入る? 俺が直接、あいつに謝らせることもできるけど」
奈緒は首を振った。
「いいえ……彼に私が来たこと、知られたくないんです。今は……彼に会うのが怖い」
神谷はその気持ちを理解し、「ここで待っててくれればいい」と言って、秘書とともに邸内へ入っていった。
彼らが建物に入ったのを見届けた奈緒は、車を降りて、監視カメラを避けながら高橋邸へ潜入した。
“前妻のことをもっと知りたい”というのはあくまで表向きの理由。
本当の目的は、クローゼットの中に隠されているはずの金庫を確認すること。
もしあるなら、今のうちに暗証番号のテストもしておきたかった。記憶を頼りに、以前目をつけたクローゼットの空間へ向かう。
指先でなぞりながら、表面に凹凸がないか確かめた。外からはまったくわからないこの“隠し扉”には、きっと何らかの仕掛けがある。
それが、前回クローゼットを探っていた理由だった。
今回は運良く、最初に開けた扉の内側に、明らかな突起を見つけた。
そこは、高橋啓泰の下着がしまわれていた棚だ。
奈緒はその突起を押し込んだ。すると、木板がズズッと音を立てて動く——
音のするほうに目を向けると、あのクルーズ船で見たものと全く同じ金庫が現れた。
最初は、同じ型の金庫を複数持っているのだろうと思った。
だが、金庫の表面に刻まれた細かい傷まで一致していた。
……これ、本当に同じもの?まさか、高橋誠は金庫を持っていかなかったのか?
奈緒は試しにパスワードを入力してみた。——解除成功。
これは、確実に高橋誠の金庫だ。
あとはダイヤルを解錠位置に合わせれば、今回の下見は完了。
あとは三日後に高橋誠が帰宅するのを待てばいい。
だが——
そのとき、外から足音が聞こえてきた。
スリッパが床をこする音、それは間違いなく高橋啓泰のものだった。
彼は来客・神谷遥の相手をしているはずじゃ……どうして上がってきた?
奈緒は片耳を金庫に、もう片耳を扉に向けて警戒を強めた。
高橋啓泰の声が聞こえた。
「……神谷遥、お前まさか、あいつとよりを戻す気じゃないだろうな?
昔、お前は彼女のせいで破産しかけたんだぞ。その教訓を忘れたのか?」
それに、森川奈緒は朝倉初音とは違う人よ」
声色には薄笑いが混じっていた。
「彼女は……刺激があって面白い。朝倉は何されても黙ってたが、奈緒ちゃんは俊介を使って俺たちに反撃してくる。なあ、面白い人だろ?」
神谷遥の声は冷たく震えていた。
「……お前たちは奈緒に、一体何をした?」
「何って、お前も知ってるだろ?」
高橋啓泰はまるでたいしたことではないかのように言った。
「ちょっと文句言ったり、皮肉を言ったりしただけさ。実際は何もしてない」
——してない?
奈緒の心の中で、否定の声が響いた。言葉の暴力だって、立派な暴力だ。
「“何もしてない”だと?!」
神谷の怒気がこもった声が扉越しに響いた。
「本当だってさ。俺がやったのは俊介の浮気ネタをちらつかせて、彼女を煽ったくらいさ。
どうせ俊介のことなんて気にしてなかったし、何言っても反応しなかったよ」
「というより、朝倉はもう死んだんだぜ? 今さらお前が正義感振りかざしてどうすんの?」
そう言って、高橋啓泰はクローゼットの扉へと近づいた。
奈緒の心臓が跳ね上がる。
金庫が隠されたクローゼットは、ちょうど入口のすぐ脇にある。
彼が入ってきたら、隠しスペースがバレる。それだけは避けなければならない。
見つかれば、高橋啓泰は必ず金庫を別の場所に移すだろう。
それなったら、今までの苦労が水の泡だ。
しかし、金庫を隠そうにも、合理的な言い訳が見つからない。
逃げるか、隠すか——
どちらも最悪のリスクを孕んでいた。
心臓が喉元までせり上がるような緊張感のなか、彼女は決断を迫られる。
そのとき——
神谷遥が再び高橋啓泰を引き留めた。
その隙に、奈緒はダイヤルの刻印を急いで記録し、すぐさまその場を離れた。
——
車に戻った彼女は、荒くなる呼吸を整えながら、ふたりのやりとりを反芻する。
執事の話によれば、前妻は風間俊介のことを本気で想っていたという。
離婚の一因は、主に俊介の再婚——しかも、その結婚式で彼女に“友人代表”として出席させたことにあった。
だが、先ほど高橋啓泰が語っていた内容はまるで違っていた。
前妻は風間俊介に未練などなかった、と。しかも、神谷遥はそれを否定しなかった。
……いったい、誰が本当のことを言っているのだろう?