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2Rooms××2Rules
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gaction9969
恋愛現代恋愛
2025年06月12日
公開日
1.1万字
完結済
2つの部屋を開く、ルールは2つ。

▼      |●|▽

 ジェフリーの方から、仕事の都合でフィラデルフィアに帰ることになった、と切り出してきた時に、僕は安堵の表情を見せてはいなかっただろうか。


 キャンパー同士のコミュで知り合ってもう二年……か。巡る四季がたまらんよねぇ、と事あるごとにその髭面をほころばせては砲身のえらく長い一眼で切り取った折々の風景を嬉々として共有してくれたりした。あの頃は僕も、仕事やら何やらのしがらみから離れたその緩くも心地よい繋がりを、本当に得難いものとして大切に思っていた。彼もきっとそう思っててくれたはずだ。


 ――友情へ亀裂を撃ち込むのは、いつだってカネとオンナだ。


 誰が言っていた言葉だろう? 昔の知り合いだった気もするし、つい先週、配信動画で何とはなしに観た昔の映画の中で放たれた台詞だったかも知れない。


 いささかアナクロで、ありきたり過ぎて逆にそうは無いんじゃないかと思わせるそんな言葉群がまさか自分の身に降りかかってくるとは思ってなかったし、いざそのような場に落とし込まれてもまだ、僕はその事実を精確には受け止めずに、自分で自分をはぐらかしていた。


 ――璃砂子りさこ


 「オンナ」と記号化するには、いささか艶やかな色を纏い過ぎていた、その少女なのか熟女なのか、一見では掴ませない、そんな不確定ゆえに抗えない魅力を湛えた女性――


 初回は初夏の八ヶ岳だと思う。結構な大人数が集まったんだった。男女比は……どのくらいだっただろうか。ともかく、カーキ色の、あまり映えない感じのソフトシェルをきっちり着込んだ彼女がいちばん男衆の目を引いたのは確かだ。


 場慣れしている空気を醸していて……それは山の中というある種隔絶されたシチュエーションというだけでなく、多数の人間の中での立ち回り方というか、それを自然に行える。基本落ち着いた立ち居振る舞いなのに、ふと見せる大袈裟な驚き方や、目尻に皺が寄るのも気にしないような思い切りの笑顔……多分、その場の誰もが彼女を「中心」と意識していた。


 同好の緩いキャンプを月一くらいでこなす中で、段々と面子は固定されて来ていた。ジェフリーと僕は波長が合った、と言えばいいのか、お互いの「手さぐり」の時間はほとんど無かったと思う。日本びいきの彼と、そこそこの英会話をこなす僕、あいだに翻訳アプリを挟めば、言葉の壁もあまり感じなかった。ちゃんぽんの言葉の応酬の中で、ごくごくナチュラルな……ニュートラルというか。素の自分を出せば向こうも素を晒してくれる、その心地よさを最初に会った時から感じていた。他の参加者のひとが僕らを旧知の知り合いと勘違いしたくらいだ。さらに、こう言葉を投げ掛ければ、あるいはこう行動をすれば、相手は大枠で自分の思ってたように返しをしてくれる、でも、細かいところは思いがけないものを含んでいたりで、うまく説明できないけれど、安心感と刺激がほどよく混ぜ合わさっているというか。自分もその安心なスペースの中で、相手を出し抜くようなことを差し込んでやりたいとか、そんな駆け引きがゲームのようでそれに思わずのめり込んでいってしまいそうになったりで。


 とにかく楽しかった。学生を卒業してからこんなにも馬鹿みたいに笑えて、腹を割れる「友人」が出来るなんて思ってもいなかったから。いや、「友達」、という言い方のほうが、僕らの関係性を表すのにより適切な気がする。


 そんな僕ら二人の間を、流れるように揺蕩うように、帰国子女バイリンガルの璃砂子――出会ったその日には僕らを含め皆から「リサ」と呼ばれていた――は、時に絡み、時に興味なさそうなふりをしながら、着実に、僕とジェフリーの興味関心を引いていたのは確かだと思う。「だと思う」なんて言うとまるで他人事だから付け加えて言うと、僕は初めて会ったその日の夕方頃にはもう好意を抱いていた。


 自惚れでは無いと思いたいけれど、僕と接する時の彼女は……大勢の中で流れるようなステップを踏むような在りようとは異なって、一対一で頬を寄せ合って呼吸や足さばきを合わせているような、そんな「特別感」を確実に与えて来ていた。ただその頃の僕はそのことにのぼせ上っていて周りが見えていなかったのだろう。いや、彼女を始終目で追っているなんて、「特別」な自分には相応しくない行為だとか、度し難い思考に捉われていたのかも知れない。


 それともジェフリーの方が遥かに大人で、遥かに自分の感情をコントロールしていたのかも知れない。


 ジェフリーとの間でもリサのことは、ふいにぽこりと沸いた泡のように、話題に上っては、何とは無しに消えていくくらいだったけれど、気の無い素振りをしているのが僕だけで無いことは、他ならぬ自分が取っている言動行動の鏡像を見ているような相手方の様子で分かろうものだったわけで。


 ともかく、表面上はゆったりと、楽し気な空気の中で僕らは「友情」を深めていっていた。が、


 それも結局は長くは続かなかった。続かないだろうということは、付き合いが深まるごとに薄々僕ら全員が気づいていたと思うけど。そこに目を向けないようにしていた。破綻を怖れていた。脆く崩れるものだと知っていても。


 秋口の苫小牧だっただろうか。いつの間にか三人で繰り出すようになっていた僕らは、その時が初めてだったか、その後のことも思い返してみると自信は持てなくなるけど、ログハウスで寝泊まりしたことだけは鮮明に覚えている。それが全ての間違いだったからだ。


 あいにくの強い雨で、熟練者たちもほうほうの体で避難してきた中、百坪以上の面積を誇る昔の校舎みたいな巨大な木造二階建ての建屋は、そのシーズンにしては混み合っていた。シングル三つを取っていた僕らが、ひと部屋譲ってもらえないかという宿側からのお願いをすんなりと受け入れたのは、雨露しのげる場所があるだけで有難いという「山」の人間の性質たちとしては極めて自然なことであり、何なら僕なんかは寝袋シェラフに潜った方が寝つきが良かったりもするわけで、じゃあジェフリーと僕が一室に二人で、リサがもう一つの部屋に泊まるという流れとなった。


 と、板敷の床に寝袋を転がし開いた僕に、わざと大袈裟に作っているんだろうニヤリとした顔で、横たわったベッドからある「悪戯」を振って来たのも、彼と僕との間ではゲーム感覚のことだったから、僕も同じような顔をして乗ってしまったのだった。


<You can choose one of the 2 rooms.

  ←Jeffrey   hideto→     >


 隣り合う二つの部屋の扉の間の壁に、そのように記したメモ用紙を貼り付けておく。つまりはシャワーを浴びに行っているリサが帰って来た時に、二人の男、どちらの部屋に入りますかと、選択を迫ったというわけだ。あくまで冗談ジョーク混じりで。


 こんな幼稚な「罠」、リサだったら「Heeeey, booooys!!」なんて軽く受け流して母親のように間延びした叱り声を上げるフリでもするんじゃないかと思っていた。そして殊更に雑にシッシと追い出されて終わりと。そんな一連の流れまで頭に思い浮かんでいたくらいだけれど。


 違った。


 実を言うとその夜の記憶は曖昧なのだけれど。長時間雨に打たれた身体は休息を欲していて、リサの部屋のベッドの上に広げた寝袋の中に頭まですっぽり入れて顔だけ出して待ち構えていた僕は、抗えない眠りに呆気なくすとりと引き込まれていた。


 そして、


 翌朝、打って変わっての晴天の朝の陽ざしで目が覚めると、僕の身体は寝袋に包まれておらず、ベッドの布団の中に納まっていたわけで。そして隣にはリサの温かいぬくもりが、すべらかな肌と共に在ったわけで。


 困惑が寝起きの脳に巡った。これは一体……? まさか本当にリサが選んだのか……? 僕を。


 身体に残る痕跡は無い。と思った。まだ規則正しい寝息を立てている彼女をとりあえず起こさないようにと、ゆっくりとベッドから滑り降りる。床に落とされていた寝袋をのろのろと拾って隣のジェフリーの……元々「僕ら」の部屋だった方に戻ってみると、既に身支度を終えていた灰色のフリースの広い背中が見えた。


 何と言ったらよいか混乱気味の僕に向けて放たれたのは、しかしいつもの彼の、少し抜けたような笑い声であった。


――キミを担いだんだよ、リサと結託してね。


 その一言で、何となく察せられてしまうくらいの呼吸感が僕ら二人の間には既に培われていた。なので、僕も肺から安堵の息を吐くと共に、大仰に肩をすくめてくるりと回ると、寝乱れていたベッドのシーツにお手上げ、のようなポーズにて尻をついて背中から倒れ込んでみせた。


 それで終わりのはずだった。


 紅葉が相まっての絶景と名高い山頂を目指す中、僕の頭は昨夜から今朝に至るまでのことで埋め尽くされていて、うっかり濡れた小岩を変な角度で踏みつけてあやうくこけそうになったりしたけれど。


 僕はきのう、リサの部屋のベッドの「壁側」に寝袋と共に転がっていた。が、朝起き上がってみたところ、壁際にはリサの肢体があって、その隣に僕はいた。そして寝袋が取り去られていたのも確かに確認した。


 何でだ? ジェフリーとリサが二人で、寝入った僕をわざわざ寝袋から引きずり出して、ベッドの上を転がした? 別に「壁際寝袋」状態のままでもいいじゃないか。うん……だからそれは、やっぱり僕の意思で為されたことだと思う。その記憶が無いのが何とも不安定な気持ちにさせられるけど。それに今朝のリサの態度もやや解せないところがあった。僕と食堂で目を合わせた時、切れ長のその魅力的な瞳は細められていて、さらに少し意味ありげに微笑まれた。大枠で見ると表面上は普段と変わらない振る舞いに見えたけれど、何と言うか、「秘密を共有している」者同士の、そんな空気感があったような気もした。それもどういうことだ?


……僕は一方的に騙された、ということでは無いんじゃないか? さらに、


 すごすごとジェフリーの部屋に戻った時、「タネ明かし」をされて倒れ込んだベッドから立ち昇った香りは、微かだったが確かにリサの付けている「深海」をイメージしたという香りフレグランスだった。女性の心理を深く知っているわけでは無い僕が言うのも何だけど、シャワーを浴びてさあこれから寝るだけ、という時にわざわざ香水をつけるものだろうか。であれば「ただ寝るだけ」じゃ無かったということか? ジェフリーとリサ、二人に昨夜何があったのかは窺い知ることは出来ない。そしてさらにややこしいことには、「その後」でリサが自分の部屋……僕が寝こけていたベッドに戻ってきていたことだ。いや、戻ってくるのはいいのか。「僕を騙す体」なら、隣で寝ていたっていいわけだ。ただ、何で僕の寝袋は床に落ちていた?


 分からない。分かっているのは……全部を分かっているのは、


「……」


 ……リサだけ、だろう。


 真相はどんなに考えても分からなかったけれど、思えばこれがきっかけだった。それからはテントで寝る時も、リサは僕のところに頻繁に「訪れる」ようになった。ただ、それは夜ごとでも無く、キャンプ一回ごとのことでも無かった。来なかった時はどうしているか? それは分からない。いや、あえて知ろう、分かろうとしなかったのかもしれない。暗黙のうちに僕とジェフリーとの間には「ルール」が出来上がっていた。


<リサと二人きりで山には行かない>

<互いの夜のことを詮索しない>


 二つのルール。それは言葉には出さなかったものの厳然と、僕とジェフリーの間に横たわっていた。二つの「部屋」を行きかうリサの真意は分からなかったし、それを甘んじているのか享受しているのかの、ジェフリーの感情も見当もつかなかった。さらには自分自身の頭の中も、拭うように浚ってみても、今のこの状況を受け止めているんだか流されているんだか分からないままで、それでも奇妙な逢瀬は続いていた。


 でも、この時はまだうわべ上は平穏で、三人の時は以前と変わらないままでいられた、と思う。いや、穏やかでいられたのは、お互いがお互いを、自分より「下」、として見ていたからかも知れない。ジェフリーは僕を、僕はジェフリーを、リサは……どうだろう、二人ともを、だろうか。だから破滅は必然で、それでも普段の僕らの上っ面のように、静かに表面からひび割れるように進行していたわけで。


 リサは二人の男を手玉に取ろうという、そしてそれをお互い意識させつつも表面上は何事も無く突き合わせる、といった、どういう思考をしているのか分からないけれど、奇妙な関係を「演出」するという、理解しがたい女だった。そして段々ゆっくりと、壊れていった、ように僕の目には映った。いや、逆に僕の脳やら思考が知らないうちに静かに破壊されていたのかも知れないけれど。それでも関係は続いた。それを続けることだけに意味がある、という感じで。まったくもってどうかしていた。僕ら全員。いや、


 いちばんおかしかったのは、ジェフリーだった。僕とのやり取りも、付き合いも、態度も、時折見せる笑みも、何も変わらなかった。変わらなかったんだ、奇妙にも。変わらない方が……おかしくないか? でもそんな完全なる「仮面」の下で、着々と進んでいたのだろう、その「計画」は。いちばん狂気に侵されていたのは、彼だ。いや仮に、全く変わらなかったとしたのなら、彼は初めから……


―――――


――あぁー、あっそぅ。あ、私のことなんて全っ然、愛してなんか……いなかったんだぁー、そっかそっかぁー。


――あーもういい、あーもう、あー死んでやるんだから。


――あんたの目の前で。


 ……彼女がそんな風にテンプレ気味にキレるのも、最近では三日に一度くらいにいつもの事だったから、その時もおざなりに宥めただけだった。いつものポーズだろう、とか。明日にはまたいつもの彼女に戻ってんだろう、とか。でもどうやら、


 ……今回ばかりは本気だったみたいだ。


 リサが、ではない。狂気に蝕まれた男は、おそらくその言葉を聞いていた……


 ひどく深い、そして不快な眠りから。無理やり眉間辺りをこじ開けられるかのように覚醒させられたのは、でもしかし他ならぬ彼女の金切る叫び声と、何かをしきりにゴンゴ、ゴンゴリというように叩く音だったわけであり。その後ろバックには、絶え間なく響く激しい雨音のようなものも聴こえる。水の音は、水の匂いと共に漂って来ているようで。


 硬く、冷たい感触を右頬に不意に覚えて僕は目を開く。瞼が左、遅れて右の順に割れて視界が明らかになる。ぼんやりと薄暗い空間。横倒しになった長方形が淡い光を放っている。その中に動く物影がある。


「!!」


 驚いて自分の身体を起こす。が、うまくいかずにもう一度、右頬を下に引っ張られるようにして倒れ込んでしまう。何か、痺れに似た感覚が全身に纏わりついているようだ。身体が、身体がままならない。でもそんなことを気にしている場合じゃあない。


 顔を起こし、改めて正対する。「光る長方形」、それは「扉」だった。ガラス、いやアクリルか? 透明だが結構な厚みを持っているように向こうが屈折して見える「扉」。その左側の中ほどに、掴んで回すタイプの丸い金属性らしきドアノブがついている。見知らぬ「扉」。いや、「見知らぬ」はこの部屋自体も勿論そうなのだけれど、ここはどこだ?とか、考えている暇も無い。なぜなら、


「……!!」


 扉の向こう側。そこに張り付くように、縋りつくようにして、その華奢な両手で透明な「扉」を必死で叩いていたのは、他ならぬリサであったわけで。それだけでも驚愕だったが、さらにその背後、上方に設えられている灰色の太いパイプのようなものの口から、


「……」


 大量の水が滝のように流れ落ちていたのであった。なん……何なんだ、この状況はッ!?


 慌てて辺りを見回すが、自分が倒れていた「部屋」は四畳半くらいの大きさで、打ちっぱなしのコンクリの壁・床・天井に囲まれた殺風景この上無いほどの、真四角四面の立方体に近い空間だ。地下室なのだろうか、窓ひとつ無い。「室」というよりは居住感をあまり意図していないシェルターのような佇まいだ。


 こんな場所に馴染みは無い。自ら足を踏み入れたという記憶も無い。落ち着け。落ち着いて状況把握だ。呼吸を整えつつ、もう一度周囲を、見逃しが無いかじっくりと見渡す。床天上、そして三方向にはやはり無機質なコンクリ壁のみ。やっぱり出入口は目の前のアクリル扉しかなさそうだ。が、


 それを挟んだ彼女側の「部屋」は……やはりこっちと同じくらいの広さの立方体空間だ。「扉」に近づいてそれ越しに向こうを覗き見ると、奥側に配置されている円いパイプ口の下辺りには、目の前のこれと同じような透明な扉が見て取れた。その先はここからは見えないが、おそらく「出入口」があるのならそこなんだろう。


 いやそれよりも。


 彼女の「部屋」は――ようやく僕の頭も回り始めて、先ほどからの「雨音」の正体を理解することが出来た――いや落ち着いている場合じゃない、降り落ちる多量の水は行き場を求めてどんどんその空間に満ちていっている……つまりは。


……水没しかけている。


 慌てて目の前の扉の金属ノブを左右に捻り回してみるが、どうともならなさそうな硬い手ごたえがあるばかりだ。施錠ロックが掛けられているような感触……水面は彼女の膝上まで来ている。時間が無い。


「……」


 何か、何かないか。改めて落ち着いて、「部屋」の壁際を這うようにして探し始めた僕の目に最初に映ったのは、左手の壁の真ん中あたりに取り付けられた、細長い透明な樹脂製のケースだった。これを使えということか? いや、何故「使えとばかりに置いてある」んだ? 怪しすぎる。


 けど逡巡している時間は無かった。透明ケースの開け方が分からなかったので無理やり壁からむしり取るように外すと、中にあったのは固定具で引っかけられている、柄の真っ赤な「斧」……だろうか。防災動画で見たことあるような、正に扉とかを叩き割る用の……怪しさは拭えないほどに漂って来ていたが、僕はもどかしくもそれを取り外し取り出す。


 急いで戻ったアクリル扉から二歩ほど手前に立ち、扉向こうで狂乱の表情を浮かべている彼女に下がれ下がれと手で合図する。しかし見えてないのか、その叩き続ける動きは止まらない。分かってないようだ。だったら……


「……!!」


 斧を両手に携え、ふっ、と息を吸い込むと、斜め上に振りかぶってから扉に思い切り叩き下ろす。ドム、という音と共にわずかに刻まれる穿ち跡。何度も何度も、なるべく同じ箇所を狙って銀色に鈍く光る切っ先を叩きつける。何度も、何度も。ようやく彼女も悟ったのか、ドアから一歩退いてその様子を不安げな表情で見守っている。しかし、


 ダメだ。途中から明らかに材質が変わった? 刃先が滑って食い込まなくなっている。それでも何回か斧をぶち当てるものの、それ以上はもう刃を進めることは不可能のようだった。性悪なドアに穿たれた下側に弧を描く曲線の跡は、さあどうする?のような意地の悪い笑みを浮かべているかのように僕には見えた。くそ……ッ!!


 その笑み。微笑。そこから想起される人物に、僕の身体は急激に冷気を感じていた。彼、なのか? 僕とリサを。……今回の計画は誰発だった?


――帰る前にさ、ちょっと一回変わったところに行ってみたいんだよ。三人で、ね。


 どうせ最後になるし、もう僕らの関係も行き着くところまで行っていたから、その清算というか、最後くらいは出会った頃のように、普通にキャンプを楽しもうという気があったのかも知れない。


 でも、彼はそうは考えていなかったようだ。


 考えても詮無いことを考えている間に、遂に水位は彼女の腰辺りを浸し上回ってくる。再びドアを狂ったように叩き出す彼女を見ながら、しかし僕はこの大仰なことの「首謀者」の、作為のような、いや「悪意」のようなものを強く感じていた。


 考えてみればこんな奇妙な部屋に囚われていることもそうだし、これでもかの「水攻め」的な状況も冷静に考えればおかしい。斧が扉を破ってくださいとばかりに置いてあることもそうだし、それを使って破れそうで破れない扉もそうだ。


 「誰か」はこの状況を見て楽しんでいる? 色々な選択肢を散らし置いて。それらに四苦八苦する僕たちを? いや、それも「悪戯」の範疇なのかもしれない。けどだとしたら……それはまずい。頭に、脳に、酸素の乗っていない血液がどんどん送られてくるようで思考するたびに熱を帯びていくようだ。いや待て落ち着け。であれば「脱出の正解」、それも必ず設置されているはずだ。「それを選択すれば助かったのに」、そんな嘲笑をするために。悪戯っぽい笑みが脳裡に浮かぶ。今見るとそれは狂気に満ちたひどく背筋に来るものであったけれど。


 いや落ち着け。深呼吸をしてから改めて部屋をもう一度舐めるように見渡してみる。落ち着いて観察するんだ。ひとつも抜け漏れがあっちゃあ駄目だ。絶対に助ける、助かる……助かってやる。


 果たして右手の壁、そこに壁と同化するような灰色の薄い金属のプレートが貼られているのが見て取れた。少し腰を落として正面から見ないと分からないくらいの不明瞭さ。これか。逆にこの見つけづらさこそが「正解」のような直感。素早くそこに書かれた文字に目を走らせる。


<Rule1:赤い数字が『70』を下回りし時、ひとつ目の扉ひらかれん>


 何だ? 持って回ったような言い回し。「2つの部屋」に……「ルール」、だって? やはり作為的としか……いやそこはもう気にするな。「正解」があるのなら真っ直ぐそれに向かうだけだ。けど「赤い数字」……?


 壁に顔を近づけてぐるりを巡ってみるものの、それらしき物はない。アクリル扉の方もすみずみまで探ってみるものの、どこにも数字らしきものは欠片も見当たらなかった。彼女の切迫した顔が間近に迫り、僕も息苦しくなってくる。扉を叩く手、……手首。


 その瞬間、


 そこに目が吸い寄せられた。細い手首の左側だけに黒いバンドのような物が巻かれている。激しく動かされているが、それゆえ「赤い光の軌道」が強調されて僕の目に飛び込んで来た。


 あれか。LEDか何かの、光る「赤い数字」。だが数字がいくつなのかは見えない。身振りで彼女に手首を見せろと示すが、伝わらない。くそっ、こんなままならないやり取りも「作為」のうちに入っているんだろっ。


 ヒートアップしたジェスチャーを続ける僕だったが、ふと、シャツの袖口が裏側から「赤い光」でうっすらと照らされているのに気づく。僕にもバンドが付けられていた……? 急いで袖をまくると、樹脂製のデジタル腕時計のようなものが確かに僕の左手首にも嵌められている。液晶には大きく<098>とだけ表示されているだけだけど。


 この数値を「70未満にする」……? そもそもこの数字は何を表しているというのだろう。


 分からない。そのバンドを見たり触ったりするけど、画面をいじっても何も変わらない。他にボタンとか何も無い。自分の鼓動が感じられるほど焦りがこみ上げて胸の辺りを回っているようだ。数値は逆に<102>から<105>へとどんどん増えていってしまっているけど。


 視線を上げる。彼女の胸元まで水が迫っている。既に諦めてしまったのか、彼女は顔に貼り付いた長い髪を払うこともせず、水の中をただ翻弄されながら漂い始めている。時間が無い。が、


 こういう場合こそ、落ち着くことが肝心なのでは。僕は極めて恣意的に深呼吸を繰り返す。何度も何度も。と、


<91>……<89>


 ……数値が徐々に下がってきている。そういう……ことか。何となくその正体が見えてきた。


 彼女に背を向けて腰を降ろす僕。胡坐をかき、耳穴に指を突っ込んで目を閉じる。何も見るな聞くな感じるな。落ち着くんだ。落ち着くことだけが彼女を助ける道。鼓動を……「心拍数」を下げるんだ。


 閉じた瞼に浮かんだのは、ふたり一緒にいるだけで楽しかった時の光景だった。静かに微笑んでいる彼女が側にいる。僕も多分笑っているのだろう。そうだよ、僕は彼女といる日常に慣れ過ぎて、大切なものを見失っていたんじゃあないだろうか。と、その瞬間、


 カシィン、と金属が打ち付け合う音が僕の耳に届く。目を見開き、左手首に視線を落とす。<69>。


 勢いよく立ち上がり振り返りつつ、アクリル扉に取りつくようにしてへばりつくと、ノブを思い切り右へ左へ回す。瞬間、既に天井近くまで迫っていた水が、ドアを弾き飛ばさんばかりにこちらに向けて抗えないほどに勢いよく流れ込んできて、僕は思い切り硬い床面に尻餅をついてしまう。痛い。だが、構わず必死で両腕を伸ばす。流され倒れ込んでくる彼女を、絶対に受け止めるために。


「……!!」


 何とか抱き留めた腕の中で、ずぶ濡れの彼女はぐったりとしたままだ。息は? と確かめようとした瞬間、咳き込むと思い切り水を吐き出した。生温かい水が僕の顔にもかかるが、とにかく良かった。と、


「……わ、私あいつに騙されてこんな……ごめ、ごめんね。でも……私のために必死に……うれ……しい、愛……してる」


 彼女は出会った時の、あの頃のような愛しい眼差しで僕を見上げながら、そんな言葉を紡ぎ出してくれた。ずっと緊張と恐怖で詰まりっぱなしだった僕の胸が、何かあたたかいもので膨らんでいくようで。彼女も一枚嚙んでいたのか、「彼」に騙されたのか、それはもうどうでも良いことのように思えた。とにかく……とにかくだ。無事で……本当に良かった。


「僕も……愛しているよ。君のためなら何だってするさ」


 お互いをお互い抱き締め合う僕らだったが、安堵するにはまだ早い。一旦は下がった水位だけれど、水の流入は止まっていない。であればもう、脱出するしかない。僕は彼女の体を優しく離すと、膝まで満ちて来た水を蹴って、彼女のいた「部屋」を目指す。奥面のもうひとつの「扉」。多分、だけどそこから外へと出られるはずだ。しかし、


「……」


 案の定、その扉は開かない。先ほどのと同じくアクリル製と思わしき透明なその向こうには、上へと続いてるらしき金属製のハシゴのような物がすぐそこに見えているというのに。


 いや落ち着け。開ける手段は必ずある。Rule「1」。さっきのプレートには確かにそう書いてあった。「1」があるなら「2」もあるはずだ。僕とジェフリーの間にあったように。


 扉の右下。水に飲まれて灰色の排水溝のような長方形が揺らいで見える。排水溝ならこのくそったれの水を流してくれるはずだが、その気配は無い。それにこの形状はさっき見た。「プレート」だ。


 何とかそこに書かれた文字を見ようと顔を近づけるが、流れる水によって歪んで見えない。プレートを壁から引っ剥がそうとするも、外れる気配すら見せない。どうする……? 落ち着いて考えろ。手段は絶対にあるはずだ。僕は呼吸を思い切り深く長く続けながら、この場にあるだろう「手段」に思考を巡らせていく。


 そうだ。僕はまた水を掻き分けつつ最初の部屋へと引き返す。いつの間にか赤い斧を抱えるようにして胸の前で持っていた彼女が、びくっとしながら、これ……? と手渡そうとしてくるけど、違う。それでは扉は破れない。そいつはただ時間を浪費させるためだけの罠だ。僕は水に半分ほど浮かんでいた透明の樹脂ケースの方を手に取り、再び第二のプレートの前まで戻って、ケースを水面に浸けてその先に目を凝らす。水中メガネゴーグルの代用だ。


 見える……ッ!! <Rule2:……>の文字が。やったぞ。思った通りだ。「何かしらの手段は絶対にある」。だから絶対に、助かる道はあるんだ。僕は慎重にケースを操り、その先を読むため身を屈める。と、


<……赤い数字が『0』で止まりし時、ふたつ目の扉ひらかれん>


 そんな文字が。「0」? ……「ゼロ」、だって? 数字……つまり「鼓動」……が? その瞬間、僕の首の右側の付け根あたりに、鋭く熱い衝撃が撃ち込まれたのを感知する。喉奥から塊のような赤黒い血が勝手に迸り出た。そう……か。「水」が満たされる前、前ならこのプレートの文字は普通に読めたはずだ。


 全身を苛んで来る震えを止められないまま、それでも何とか振り向いた僕の目には、赤い斧を振りかぶった彼女の姿があって。


「……ありがとう、私のために。……何だってしてくれるんだよね?」


 再び振り下ろされた斧は僕の眉間を正確にとら


(終)


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