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第8話

「わかった」


「それと、悦子に、早く良くなってねって伝えて」


田中健一は軽く応えた。


電話を切ると、健一はすぐに撮影スタジオの方へ戻っていった。松田清子がそこにいることなど、まったく気づかずに。


清子が到着した時、渡辺悦子はデッキチェアに寝かされ、パラソルの下でスタッフが蹲ってそっと扇いでいた。


すぐ傍らには健一がいて、折に触れて悦子に水差しを手渡している。


スタッフたちはもう慣れた光景だとばかりに、羨ましげの声を出した。


「渡辺さんって本当に幸せよね。あんな風に田中さんに大切にされて。聞くところによると、渡辺さんは田中さんの初恋の人なんだって」


「うらやましい~私にもこんなに優しくて一途な社長が愛していたらなあ」


「あなたが渡辺さんと比べられるわけ?彼女は本物のトップ女優よ。しかも映画・ドラマ・歌手で活躍してるんだから。次の作品では自分で監督もするって話よ」


「渡辺さんは本当に才能があるから、田中さんにふさわしいのよね」


パンッ!


突然の平手打ちで清子は現実に引き戻された。


「カット!」


監督は不機嫌だった。


「松田、どうしたんだ? 前回もそうだったが、普段はプロなのに最近はミスが多い。何をボーっとしてるんだ!」


「すみません、監督。すぐに気持ちを切り替えます」


これはヒロインと悪役女優の喧嘩するシーン。悪役がヒロインを殴る場面だ。


元々ビンタの連続シーンなのに、周囲の会話に清子の心は乱されていた。


ヒリヒリする頬に触れ、向かいの悪役女優を見つめた。 そう、彼女は代役だ。本物のビンタを受ける役目だった。


悪役女優と悦子の間には因縁があった。しかも周囲は清子と悦子たちが親しいかのように振る舞う。 だから、悦子に手を出せない悪役女優の怒りは、代役の清子に向った。

間もなく清子の頬は真っ赤に腫れたが、幸いシーンは終わった。


メイク担当が氷のうを差し出した。


「早く冷やしたほうがいいよ。放っておくと夜にはひどくなるから」


「ありがとう、結構です」


清子はそう言って氷のうを受け取らなかった。体内の冷えがまだ抜けきらないのに、これ以上冷やせば体が持たない。


このシーンが終わり、次は悦子の出番。彼女は何もする必要はない。ただ美しく演じればそれでいい。


悦子は清子の異母姉だった。

清子の両親が結婚する前、父親は元恋人との間に悦ができ。


二人の生活が苦しかった頃、清子の父親は偶然清子の母親と出会い、猛烈にアタックした。母親はすぐに恋に落ち、結婚した。


父親は時間管理の達人。母親を宥めながら、悦子とその母親を清子の目の届く範囲で生活させていた。


清子が生まれて三年ほど経った頃、同じ住宅街で父親がもう一つの家庭を持っているのを目撃した母親は、即座に離婚を決断した。


父親は憎たらしい本性を現した。


「離婚してもいいが、財産は分けろ」


母親は初めて知った。父親がこの数年、密かに財産を移していたことを。しかし当時の法律では夫婦の財産は共有だったため、結局半分を奪われた。


父親は悦子の母親と新たな家庭を築き、幸せな日々を送った。同じ住宅街に住み、離婚のショックで病に伏せっていた母親のもとへ、悦子の母親はわざわざ悦子を連れて嫌がらせに来た。


あの頃の清子は悦子とその母親を心底憎んでいた。


その後、祖母の助けで清子と母親は引っ越し、悦子一家とは縁を切った。だが田中健一と知り合った時、悦子の方が先に健一と知り合っていたことを知った。


悦子を逆撫でするために健一を利用しようと考えたこともなかったわけではない。だが八年経っても、清子は健一は相変わらず冷たいまま。


清子は腫れた頬に触れた。殴られた箇所はまだじんと疼いている。


悦子のシーンが終わると、健一はそっと彼女の汗を拭い、二人きりの世界に浸っていた。

悦子の撮影が終われば、清子の仕事もその日は終わり。帰宅する時だ。


家に着くと、リビングのソファに健一が座っていた。


清子は思った。引っ越してから鍵のパスワードを変えていなかった。変えなければ。


「今日のあの紙は何だ?」


「わざわざ来たのはそのため?」


清子の声には温もりがなかった。


健一は微かに眉をひそめた。


「清子、いつまでそんな芝居を続けるつもりだ?半月も家にいない、子供が病気でも構わない。あの日、お前の生理期を知らなかったから撮影に行かせた、ただそれだけだろう?」


清子は力なくしたように苦笑した。


「そういうことなら、そういうことなんだろう」


健一は意外だった。これまでは何か言えば、清子は必ず言い訳を考えたものだ。こんな投げやりな態度は初めてだ。相手が弁明しないなら、それ以上追求する気も失せた。


「流産の検査結果と書かれた紙はどういうことだ?」


「知らない。誰かが間違って私のポケットに入れたんじゃない?」


何か答えなければ帰らないだろう。清子は彼の顔も見たくなかったし、彼も結果を気にしないだろうから。


しばらく沈黙し、健一は立ち上がった。どうやら帰るらしい。


「明日は圭介の小学校入学式だ。俺に反抗するのは構わないが、父にに知らせるな。彼の体調はお前も知っている。どうすべきか、分かっているだろう?」


清子に帰宅を促す言葉は一切なかった。むしろ、帰りたければ勝手に戻れ、とでも言わんばかりに。決して自分からは頼まない、という態度だ。


圭介の小学校は清子が心血を注いで選んだ。文系の彼女は子供の教育に強い関心を持っていた。裕福な家庭の子は大抵バイリンガルスクールに行くが、彼女は国語教育のしっかりした学校を探したのだ。


入学式には必ず送っていく、と圭介に約束した時のことを思い出す。彼はその時、不満そうな表情を浮かべていた。当時は深く考えなかったが、今思えば、入学初日に彼は両親に送られたくなかったのだろう。


それなら、悦子と健一にその役を譲ってやろう。





健一が家に着くと、圭介はレゴで遊んでいた。健一の後ろを見て、清子の姿がないと気づくと尋ねた。


「パパ、ママは帰ってこなかったの?」


あの日、自分が病気の時にママが来なかったことは、確かに腹が立った。でも半月も経てば、子供の怒りも消える。


この数日、ママの言いつけを思い出し、ハンバーガーを食べていけないと、彼は本当に食べなかった。ママの手料理をずっと食べていないこと、寝る前に絵本を読んでもらえないことを思い、少し寂しくなった。


「ああ」


圭介は手にしたレゴを置き、健一の前に歩み寄った。


「どうしてママは帰ってこないの?」


健一は心の底で思った。自分から折れることは決してない。ましてや清子を家に呼び戻すことなどありえない。

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