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嘘の花束
嘘の花束
一知半解
恋愛現代恋愛
2025年06月15日
公開日
1.1万字
完結済
家庭を持つ男・田辺は、日々の退屈さと息苦しさを抱えて生きていた。 同窓会で再会した美月と「不倫ごっこ」を始めたことで、日常は鮮やかに色づき始める。

嘘の花束

 目覚まし時計が鳴るより先に、僕は目を覚ます。

 寝苦しさを感じるわけでもない。ただ、眠り続ける理由もないから自然に目が覚めてしまうだけだ。

 天井の染みが、今日も同じ場所にじっと張り付いている。もう何年も、朝になるたびにこの模様を見てきた。

 その度に、なぜかため息が出る。

 きっと今日も、昨日と同じような一日が始まるのだろう――そんな諦めと、ほんの少しの居心地の悪さ。


 隣に寝ている妻は、僕が起きると小さく寝返りを打った。もう十年になる結婚生活。

 最初の数年は、相手の寝息のリズムさえ愛おしいと思った。

 今は、背中合わせの温もりが、かえってどこか遠く感じられる。


 台所に立ち、冷蔵庫を開ける。

 昨夜のカレーが入ったタッパー。

 レンジに放り込んで温めると、スパイスの香りが部屋に満ちた。

 食卓で娘が眠たそうな顔をして牛乳を飲んでいる。

 「おはよう」と言われて、「おはよう」と返す。

 朝のニュースが流れるテレビ。流れるのは、どこか他人事の事件や天気予報。


 僕は、妻と娘の話を聞き流しながら、心のどこかで「自分はここにいる意味があるのだろうか」と思う。

 大きな不満はない。

 だが、満足もない。

 毎日は淡々と流れて、何かが満たされないまま時間だけが積み重なっていく。


 会社へ向かう道すがら、同じアパートの住人たちとすれ違う。

 みんな疲れた顔で歩いている。

 満員電車の中でスマホをいじる。SNSのタイムラインには、誰かの楽しげな写真や、意味のないつぶやき。

 それを眺めながら、僕も小さな「いいね」を押して、画面を消す。


 職場につき、上司や同僚と他愛もない会話を交わす。

 決して嫌いな仕事ではない。

 数字のノルマもそこそこクリアしているし、後輩からの相談にも真面目に応じている。

 ただ、机に座っているとき、ふいに深呼吸したくなる。

 窓の外に目をやると、遠くの空が澄んで見えた。


 「田辺さん、午後の会議の資料できてます?」

 「はい、もうまとめてあります」

 「あー助かる。さすがっすね」


 そう言われるたび、ちゃんと大人として役割を果たしているんだと自分に言い聞かせる。

 だけど、どこか心は宙ぶらりんだ。


 帰り道、家の灯りがついているのを見ると、なんとなくホッとする。

 けれど同時に、今からまた「家庭の顔」に戻らなければならないと思うと、無意識に肩が重くなる。


 夕飯の鍋を囲み、妻と娘が話している。

 娘が今日学校であったことを話す。妻がそれをやさしく受け止める。

 僕もそれなりに会話に加わるが、頭の中では別のことを考えている。


 ――このまま年を取っていくのだろうか。


 そんな漠然とした不安を、今日も眠気が飲み込んでいく。


 ある晩、リビングで一人ぼんやりとビールを飲んでいたとき、LINEの通知音が鳴った。

 画面を見ると、「高校同窓会グループ」のメッセージ。

 久しぶりに開くグループ。何年ぶりだろう。

 「今年こそ、集まりませんか?」という幹事の書き込みに、ぽつぽつと返事が集まっていく。


 正直、最初は気が進まなかった。

 今さら昔の仲間と会っても、気まずい空気になるだけだろうと思ったからだ。

 でも、妻と娘がテレビのバラエティ番組で笑っているその横顔を見ていると、自分だけが取り残されているような気持ちになった。


 気がつけば、「参加します」と打ち込んでいた。


 その瞬間、自分の中で小さな何かが弾けたような気がした。

 自分から新しい何かを求めたのは、いつ以来だっただろう。


 同窓会の日が近づくにつれて、グループは少しずつ賑やかになっていった。

 昔好きだった子、仲良しだったメンバー、サッカー部の盛り上げ役。

 中には見覚えのない名前も混じっている。


 その中で、ひときわ目を引いたのが「安藤美月」という名前だった。


 ――ああ、いたな。


 成績優秀で、いつも静かな笑顔を浮かべていた女の子。

 卒業式の日、少しだけ話した記憶がある。


 「私も参加します」と短い書き込みがあった。

 画面越しのその言葉が、不思議と心に引っかかった。



 同窓会の当日、朝から何度も天気予報を見た。

 空は快晴。少し汗ばむほどの陽気。

 たまには身なりにも気を使おうと、数年ぶりにスーツを出してクリーニングに出しておいた。

 髪も整え、ネクタイを締め直すと、少しだけ気持ちが引き締まる。


 妻がちらりとこちらを見て言う。「なんか、今日はやけに決まってない?」

 「同窓会だって言ったろ」

 「ふーん」

 興味なさそうな顔。でも、その顔の奥に、わずかな警戒の色を見た気がして、少しだけ胸がざわついた。


 家を出て、駅へ向かう。

 休日の夜、普段は絶対に飲みに行かない時間帯だ。

 電車の中は、どこか開放的な空気が流れている。

 数年前に会ったきりの同級生たち――どんな顔をして再会すればいいのか、少しだけ緊張する。


 会場は、駅近くの居酒屋。

 個室の扉を開けると、懐かしい声と笑い声が飛び込んできた。

 「田辺! 全然変わってねえな!」

 「お前太った?」

 「髪、減ったなー」

 昔と同じ悪ノリ、同じテンション。

 けれど、心から笑えるわけじゃない。大人になった分だけ、どこか遠慮や気遣いも混じる。

 それでも、少しだけ心が軽くなる。


 グラスを重ね、思い出話に花が咲く。

 結婚、子育て、仕事の愚痴。みんな似たような毎日を送っている。

 昔語りが途切れ、ふと場が静まったとき、入り口の方に目をやると、一人の女性がそっと座っていた。


 「久しぶり」

 その声に、胸が跳ねた。

 安藤美月――あの頃と同じ、でもどこか違う大人びた雰囲気。

 落ち着いたグレーのワンピースに、控えめな化粧。

 目が合うと、柔らかく微笑んだ。


 「美月、全然変わってないな」

 「ううん、変わったよ。田辺くんの方が、あの頃と同じ顔してる」

 そう言われて、なぜか照れくさくなった。

 同窓会の喧騒の中で、二人だけ違う空気に包まれているような気がした。


 やがて宴もたけなわとなり、帰りたい組と二次会組に分かれる。

 僕と美月は、自然な流れで「ちょっとだけ」と抜け出すことにした。

 昔はそんな勇気もなかったのに、不思議と気が楽だった。


 二次会は、小さなカラオケボックス。

 狭いソファに並んで座る。

 互いに何を歌うでもなく、ゆっくりグラスを傾ける。

 壁紙の剥がれた部屋、遠くの部屋からは下手な歌が聞こえてくる。

 現実感がぼやけていく。


 「どう? 今、幸せ?」

 不意に美月が訊いた。

 「うーん……どうなんだろうね。家族もいて、仕事もあって、不自由してない。でも、なんていうか、ずっと窮屈だよ」

 「わかるなあ」

 「美月は?」

 「似たようなもん。夫は仕事ばかり、子どもはいない。暇はあるけど、なにも変わらない毎日」

 美月は氷をカランと鳴らし、少しだけ寂しそうに笑った。

 「ねえ、田辺くん、もしさ……あの頃みたいに、好きなことだけして生きていけたら、どうする?」

 「そんなの無理だよ。大人だもん」

 「そっか……。でも、少しくらいなら、昔に戻ってみてもいいんじゃない?」

 「たとえば?」

 「たとえば……不倫、とか」

 美月の口元が少しだけいたずらっぽく歪んだ。

 「なにそれ」

 「冗談だよ。でも、LINEで『おはよう』とか言い合ったりするだけで、ちょっとはトキメキが戻ってくるかも」

 「それなら、やってみる?」

 そう返したとき、自分でも驚くほど自然に言葉が出ていた。


 「じゃあ、明日から。朝一番で『おはよう』、ね」

 「本気でやるんだ?」

 「うん。田辺くんなら、いいよ」

 グラスの水滴が、テーブルの上に小さな輪を作っていた。


 終電間際、僕らはそれぞれの家に帰った。

 帰り道の夜風が、やけに生暖かく感じられた。


 自宅のドアをそっと開ける。

 玄関の灯り、妻と娘の寝息。

 さっきまでの非日常が、幻だったような気がしてならなかった。


 だけど、胸の奥がかすかに熱くなっていた。



 翌朝、まだ家族が寝静まる時間に、スマホが震えた。


『おはよう』


 安藤美月から、絵文字もないシンプルなLINE。

 その短い挨拶だけで、胸が妙に騒いだ。

 僕もすぐに返す。


『おはよう。今日は暑くなりそうだね』


 平凡な言葉。それだけなのに、指先が熱くなる。

 これが「ごっこ」なのだと、頭のどこかで冷静に思う一方、心の奥では知らず知らず期待していた。


 朝食の席で、妻と娘がいつも通りの会話をしている。

 娘は小さな手でパンをちぎりながら、テレビのアニメを楽しそうに見ていた。

 僕はといえば、さっきのLINEが何度も頭をよぎる。

 こんな些細なことで一日が始まるのが、やけに楽しかった。


 会社への道すがら、改めて美月のプロフィール写真を眺める。

 優しそうな笑顔、どこか控えめな雰囲気――高校時代と同じ、だけど今は「誰かの奥さん」という大人の顔だ。

 そう思えば思うほど、やり取りのひとつひとつが、刺激的に感じられた。


 それからの数日、僕と美月のやり取りは、朝の「おはよう」から始まり、昼休みには「いま何してる?」、夜には「今日も一日お疲れさま」と続いた。

 最初は「ごっこ」の範疇だったやりとりが、少しずつ距離を縮めていく。


 美月がスーパーで買った食材の写真や、テレビドラマの感想を送ってきたり、僕が会社の近くのカフェのコーヒー写真を送ったり――。

 何でもないやりとりが、やけに新鮮だった。

 そのたび、心のどこかに微かな罪悪感が灯る。


 夜、布団に入ってもスマホを握ったまま眠れなくなる日が増えた。

 家族が寝静まったあと、静かなリビングでメッセージをやり取りする。

 妻や娘に隠れているという事実が、火照ったような背徳感に変わっていく。


『今日、なんだかやけに寂しかったな。尚也くんがいたらいいのに、なんて』

 そんな一文に、僕は小さく笑ってしまった。

 美月の言葉には、甘えと孤独がまじっている気がした。


 僕も思わず弱音を吐いた。


『会社で失敗して、上司に叱られた。家では何も言えないし、情けないなあって思ったよ』


『そんなことないよ。私も、誰にも言えない気持ちばかりだもん』


 お互い、大人の役割を脱いで、素の自分に戻れる。

 そんな感覚があった。


 次の休日、また美月に誘われて会うことになった。

 今度は駅前のカフェで、昼間のデート「ごっこ」。

 待ち合わせのとき、ふたりともなぜかちょっとよそよそしい。


「……なんだか、緊張するね」

「だよな」

 テーブル越し、僕らはどこか照れて、互いに目を合わせられずにいた。

 だけど、コーヒーを飲みながら話すうちに、自然と昔の感覚が戻ってきた。


「最近、何か面白いことあった?」

「うーん、娘の運動会くらいかな」

「いいなあ、子ども……。私はたぶん、もう産まないと思うけど」


 美月の横顔が、ふっと陰った。

 子どもはいない、と言ったときの表情に、言葉にならない空白を感じた。


 話題はまた高校時代のことへと流れる。

 昔好きだった音楽、好きだった漫画、あの頃の友だち――

 美月の笑い声が、昔よりも少しだけ大人びて聞こえた。


「ねえ……こうやって、二人で出かけてるの、やばいと思う?」

「さあ。……やばいかもな」

「でも、ちゃんと『ごっこ』だもんね」

「そう。『ごっこ』だ」


 そう言いながらも、僕らの距離は少しずつ近づいていた。

 帰り際、駅までの道を並んで歩く。

 美月の手が、ふいに僕の手の甲に触れた。

 僕は、わざと気づかないふりをした。


 家に帰ると、いつもより妻が少し機嫌が悪そうだった。


「今日は遅かったね」

「ちょっと仕事でね。お客さんとトラブってさ」

「ふうん。……最近、なんか変だよ?」


 何か見透かされたようで、僕は曖昧に笑った。

 娘が「パパ、お風呂一緒に入ろう」と笑う。

 その純粋な声が、かえって胸を締めつけた。


 夜、風呂上がりの自分の顔を鏡で見る。

 以前より、どこか表情が明るくなった気がする。

 それが嬉しいのか、怖いのか、自分でもよくわからなかった。



 六月の終わり、雨上がりの夜。

 美月から「夜に会いたい」とメッセージが届いた。


『夫がしばらく出張なの。晩ご飯、外で食べない?』


 娘は塾で遅くなる。

 僕は仕事の予定を無理やり切り上げた。


 駅前のビルの、二階のカジュアルなダイニングバー。

 窓際の席で、美月がすでに待っていた。

 いつもより明るいメイク、黒いノースリーブのワンピース。

 隣に座ると、ほんのり香水の匂いがした。


「夜に会うの、初めてだね」

「うん。……緊張してる?」

「してる」

 美月が笑う。

 グラスを合わせて乾杯した。ビールの泡が、グラスの縁を静かになぞる。


 他愛もない話が続く。仕事の愚痴、ネットで見た面白い動画、懐かしい友人のうわさ話。

 でもどこか、会話の底に熱を帯びたものが流れていた。


「田辺くん、いま幸せ?」

 不意に、美月が真顔で聞く。

「どうだろうな……。足りないものはないけど、満たされてるかって言われたら、答えに困る」

「私もそう」

 グラスを置き、指先でコースターをくるくる回す。

 沈黙が苦しくない。

 ふたりきりの世界が、外の雨音に守られているような気がした。


「ねえ、こうして会ってるの、やっぱり変だと思う?」

「……変、かもな。でも、いまは考えたくない」

 美月は小さくうなずいた。

「ごっこ、のままでいたかったのに、ね」


 店を出るころには、すっかり雨も上がっていた。

 街灯が濡れた歩道を照らし、車のヘッドライトが水たまりに反射している。


「もう少し歩こうか」

「うん」


 肩が自然に並ぶ。

 夜風が湿気を含み、肌をなでる。

 美月がふいに僕の腕に手をかけた。


 心臓が跳ね上がる。

 拒む理由は、もうなかった。


 大通りを外れた、静かな裏道。

 人気のない路地で、美月が立ち止まった。


「田辺くん」

 呼び名に、十代の記憶が揺らぐ。

 美月がこちらを見上げる。その目が、すべてを赦しているようで、すべてを試しているようでもあった。


「ねえ――キス、ごっこ、してみる?」

 小さな声だった。


 思わず笑ってしまいそうになるのを堪え、ゆっくりとうなずく。


「……いいよ」


 美月の手が僕の頬に触れる。

 ほんの一瞬、ためらう。

 そのまま、そっと唇が重なった。


 短く、でも確かな熱。

 身体の奥から、何かが溢れてきた。


 キスが終わり、美月が微笑む。

 その笑顔が、どこか泣きそうに見えた。


「ごめんね。もう、『ごっこ』じゃなくなっちゃったかも」


「うん……。僕も、そう思う」


 終電の時間が近づき、駅までの道を並んで歩く。

 手をつないでいた。

 誰かに見られたらどうしよう、という不安よりも、「この時間が終わってしまう」ことへの焦りが強かった。


「……このまま一緒にいたいって、思う?」

 美月がぽつりと言った。

「思う。でも、無理だよな」

「うん、わかってる。……でも、こんな気持ちになるなんて思わなかった」


 僕も、正直な気持ちを言葉にした。


「家庭もあって、仕事もあって、たぶん幸せなはずなのに、それでも誰かにこんなふうに会いたいって思うのが、自分でも不思議なんだ」


「私も。……大人って、もっと賢いものだと思ってた」

「案外、子どものままなんだよ」

 ふたりで苦笑した。


 家に帰ると、家族はもう眠っていた。

 そっと風呂に入り、髪を乾かしながらリビングに座る。

 さっきまでの出来事が、夢だったかのように現実味を失っていく。


 スマホを開くと、美月からメッセージが届いていた。


『今日はありがとう。なんか、まだドキドキしてる。おやすみなさい』


 僕は少しだけ考えてから、返事を送った。


『こちらこそ。……やめたくないけど、現実も大事にしなきゃって思う。おやすみ』


 送信ボタンを押し、しばらく画面を見つめる。


 自分が今どこにいるのか――それが、急にわからなくなった。


 次の日から、また「日常」が始まる。

 朝食を作り、娘を送り出し、会社へ向かう。

 美月とのLINEは、少しだけペースが落ちた。


『おはよう』

『おはよう、今日は晴れだね』

 そんな当たり障りのない言葉だけを送り合う。

 でも、昨日の夜のことが、何度も頭をよぎる。

 仕事の合間、ふと手が止まる。


 罪悪感が、じわじわと膨らんでいく。

 それでも、やめられない。

 やめたくない――と、どこかで思っている自分がいた。


 ある晩、妻と並んでテレビを見ていた。

 娘は宿題をしている。

 普段通りの家庭。

 ふと、妻が横目でこちらを見た。


「最近、ちょっと変わった?」

「え?」

「なんか、明るくなった気がする。前より楽しそうというか」


 僕は返事に詰まった。

 うまく笑ってごまかすしかなかった。


「仕事がうまくいってるから、かな」


 嘘をついた瞬間、胸が痛んだ。


 それからしばらく、美月とのやりとりは続いた。

 会う回数は減ったが、メッセージの一つ一つがますます重くなっていく。


 ある夜、僕は自分のベランダで星を見ていた。

 美月から、ふいに写真が届く。

 同じように、夜空を見上げている写真だった。


『尚也くん、いま何考えてる?』


『美月のこと。……ごめん』


 送ったあと、しばらく返事がなかった。


 やがて、美月からひとことだけ返ってきた。


『私も』


 日常は、確かに「幸せ」のかたちを保っている。

 娘の笑顔、妻の寝顔、家族で囲む食卓。

 けれど、そのすべての裏側で、僕は誰かを強く想い続けていた。


 きっと、綺麗なものじゃない。

 でも、確かに生きている実感があった。



 夏が本格的に近づき、蝉の声が耳に残る季節になった。

 けれど、僕の中では、まだ梅雨の湿った夜が続いているような感覚があった。

 あの夜、美月とキスをしてから、「ごっこ」のルールは完全に形骸化した。

 僕らはもう、引き返せないところまで来てしまったのかもしれない。


 会う頻度は決して多くない。それぞれの家庭や仕事を守ろうと、自然と距離を保っていた。

 けれど心の奥では、ふたりの関係は遊びから本物に変わってしまっていた。


 ある日、美月から珍しく電話がかかってきた。

 昼休み、会社の屋上で受話器を耳に当てる。


「……ごめん、急に」

「どうしたの?」

「声が、聞きたくなって」

 美月は少しだけ涙声だった。


「何かあった?」

「ううん、なんでもない。ただ……最近、どうしようもなく寂しいの。

 田辺くんと話してると、現実じゃないみたいで、怖くなる」

 僕はしばらく言葉が出なかった。

「俺も、似たようなもんだよ」

「ねえ、会ってもいい?」

 美月が甘えるように尋ねてきた。


「今日は無理だけど、今度の日曜なら……」

「うん、それでいい。楽しみにしてるね」

 電話が切れたあと、しばらく手が震えていた。


 その週末、僕は家族サービスに徹した。

 娘を映画に連れて行き、妻とショッピングモールを歩いた。

 表面上はいつも通りの父親・夫を演じていたが、心の奥では、日曜に美月と会う約束を数えるように過ごしていた。


 夜、家族が寝静まったあと、ベランダでビールを飲みながら空を見上げる。

 LINEのやりとりは、日に日に熱を帯びていく。

 かすかな罪悪感と、高揚感。

 まるで十代の恋をしているような、胸の痛みと浮つき。


 妻がふとベランダに顔を出した。

「なにしてるの?」

「いや、ちょっと風に当たってただけ」

「……最近、寝るの遅いよね」

「そうかな」

 その視線が、じっと僕を観察しているような気がした。


 部屋に戻ると、スマホの画面には美月のメッセージが点滅していた。


『日曜、晴れるといいな』


『そうだね。久しぶりに遠出しようか?』


『うん。どこに行っても、田辺くんと一緒なら楽しいよ』


 その言葉に、僕の胸はじりじりと熱くなった。


 約束の日、僕は早朝からそわそわしていた。

 「出張先で仕事の打ち合わせがある」と妻に嘘をつき、身なりに気を遣う。

 鏡の前でネクタイを締め直す指が微かに震えている。

 これが「ごっこ」だと、もう誰にも言い訳できなかった。


 美月とは郊外の美術館で待ち合わせた。

 人ごみの中で見つけた彼女は、淡いピンクのワンピースに、ほんの少しだけ色をさした口紅。

 昔のままの控えめな笑顔だった。


「待たせてごめん」

「ううん、私もさっき来たところ」

 美術館の静かな空間を歩く。

 展示の感想を言い合いながら、自然と手が触れ合う。

 何度も、誰かに見られている気がしてドキドキする。

 その感覚がむしろ心地いい。


 カフェでランチをとり、午後は川沿いの遊歩道を並んで歩く。

 何気ない会話。

 美月はときどき遠くを見るような目をする。


「なんだか夢みたいだね」

「うん」

「現実じゃないみたい」


 僕は立ち止まって、美月の手をぎゅっと握った。

「美月、もし――」

 口にしかけて、飲み込んだ。

 言ってはいけない言葉が、唇の裏で溶けていった。


「どうしたの?」

「いや、なんでもないよ」


 美月がくしゃりと笑う。

「田辺くんって、昔から肝心なとこで優しいよね」


 日が傾き始め、そろそろ帰らなければならない時間が近づく。

 駅のホームで、僕らは人目を忍ぶように並んで座った。


「このまま、どこか行っちゃいたいね」

「……うん。ほんとに、どこか遠くに」

 電車の発車ベルが鳴る。

 美月は僕の手を離し、さっと改札をくぐった。


 それを見送りながら、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。


 家に帰ると、家族はリビングで団らんの最中だった。

 妻は「おかえり」といつも通りの声で迎えてくれる。

 娘がソファで寝転んで、アニメを見ている。


 日常がそこにある。

 けれど、その日常が少しだけよそよそしく感じられた。


 食事のあと、妻が唐突に言った。


「ねえ、今度の三連休、みんなで旅行しない?」

「旅行?」

「うん。娘もどこか行きたいって言ってたし、家族の思い出も増やしたいなって」

「……そうだな。考えとくよ」

 そう答えながらも、心はどこか上の空だった。


 夜、娘が寝静まったあと、妻がぽつりと言った。


「なんだか最近遠く感じる。どこ見てるのか、わかんない時がある」


 僕はしばらく返事ができなかった。


「ごめん。いろいろ考えることが多くて……」


 それだけしか言えなかった。


 その晩、ベッドに入り、スマホの画面を見つめていた。

 美月からは、「今日はありがとう。また会いたいな」と短いメッセージが届いていた。


『僕も。また、絶対』


 返信したあと、しばらく画面を見つめていた。


 次の日から、また日常が始まる。

 朝食のパンの焼ける匂い、娘の笑い声、妻の優しいまなざし。

 どれも変わらない。

 けれど、心のどこかが、もう「戻れない」と知っている。


 会社でも、つい美月のことを考えてしまう。

 メールやLINEのやりとりは、ますます抑えきれないものになっていった。


 幸せって、なんだろう?

 美月が一度つぶやいたその問いが、頭の奥で繰り返されていた。


 何かを手に入れたら、何かを失う。

 今のままなら誰も傷つかない――はずなのに、

 自分はもう「誰かを傷つける」ことを選び始めてしまっているのかもしれなかった。



 夏の空気が重く、どこか焦げつくような朝だった。

 ベッドで目を覚ました僕は、天井の染みを見上げる。

 妻と娘の寝息が、微かに聞こえる。

 家族の穏やかな日常――それは相変わらず、静かに僕を包み込んでいた。


 だけど、何かが変わってしまったことを、僕はもう誤魔化せなくなっていた。

 心の奥に美月の笑顔が焼きついて離れない。

 彼女と過ごした時間、重ねた言葉や、触れた手の温もり。

 すべてが現実だった。

 けれど、僕は今、家族の隣にいる。


 美月とはあれから何度か会った。

 互いに「ごっこ」の殻を脱ぎ捨ててしまったあと、僕たちはどこかぎこちなくなった。

 メッセージは熱を帯びて続いていたけれど、会えば会うほど、お互いの「日常」に戻らなければいけないという現実が、ひたひたと押し寄せてきた。


 ある夜、駅の近くの公園で会った。

 夏祭りの準備で、提灯が並ぶ静かな広場。

 人影のないベンチに並んで座る。

 お互い、しばらく何も話さなかった。


「ねえ、田辺くん」

 美月がゆっくりと口を開いた。

「このまま、どうするつもり?」

「……わからない」

「私も」

 静かに笑って、美月は手元のスマホをいじった。

「この前、夫に聞かれたの。『最近、何かあった?』って。すぐにごまかしたけど」

 僕は黙って頷いた。


「もう限界かなって思ってる」

 美月の声は、小さく震えていた。

「夢のままならよかったのに。……でも、現実って、簡単には逃げられないんだね」

 僕は彼女の言葉を否定できなかった。


 ふたりで過ごした時間は、きっと宝物だった。

 でも、その先にあるものは、誰も幸せにしないのかもしれない。


「ごめんね」

 美月が言った。

「なにが?」

「田辺くんのこと、本気で好きになっちゃったから」

「俺もだよ」

 しばらく黙ったあと、僕は意を決して言葉を継いだ。


「もう会わない方がいい、って思ってる」

「……うん。そうだね」

 美月は涙をこらえるようにうつむいた。


 家に帰ると、リビングで妻と娘がアイスクリームを食べていた。

「おかえり」と、いつもの笑顔。

 何も変わらない。

 けれど、心の奥にしこりが残る。


 食卓で家族と話しながらも、ふと美月のことを思い出してしまう。

 あのとき見た、花火のような夜空や、汗ばむ手のひらの感触――。

 それは消えそうで、消えない記憶だった。


 夜遅く、娘が寝静まったあと、妻がぽつりと呟いた。


「最近、前より優しくなったね」

「そうかな」

「うん。何か、あった?」

 僕はしばらく黙り込んだ。

「ううん、何も」

 本当のことは、どうしても言えなかった。


 それから数日、僕は美月と連絡を取らないようにした。

 朝、スマホを開いても通知はない。

 日常が少しずつ元に戻っていく。

 会社でも家でも、ちゃんと「父親」「夫」としての自分を保つように努めた。


 それでも、ふとした瞬間に美月の存在が蘇る。

 通勤電車の車窓、会社のビルのエントランス、ベンチの上の手の甲――。

 どこかに彼女がいるような気がした。


 ある週末、家族で公園に出かけた。

 娘が滑り台を駆け上がり、妻が木陰で冷たいお茶を飲んでいる。

 僕はベンチに座り、スマホを何度も手に取ってはため息をついた。


 そのとき、LINEに短いメッセージが届いた。


『元気にしてる?』


 美月だった。

 ただ、それだけの言葉だった。

 僕はしばらく迷い、画面を閉じた。

 何度も打ちかけては消したあと、ようやくこう返信した。


『うん、元気だよ。家族もみんな元気。美月は?』


『私も、なんとかやってる。いろいろあったけど、ちゃんと前を向いてるよ』


 それ以上、何も言わなかった。

 けれど、そのやりとりだけで心が不思議と軽くなった。


 それからは、ほんの時折、ごく短い近況報告だけを送り合った。

 もう「ごっこ」でも、恋人でもない。

 だけど、たしかにふたりの間には、誰にも言えない秘密が残っていた。


 秋が訪れ、街路樹が色づく。

 ある日、美月から最後のメッセージが届いた。


『田辺くんと出会えてよかった。あの頃の私に、胸を張れるように生きていくね』


 僕はしばらく悩み、

『俺も同じ。ありがとう』

 とだけ返した。


 冬の初め、家族でイルミネーションを見に行った。

 光のトンネルの中で、娘が「パパ、写真撮って!」と笑った。

 シャッターを切るたび、家族の顔が眩しく浮かび上がる。


 僕は、ようやく心の中でひとつの区切りをつけられた気がした。


 美月と過ごした時間は、決して綺麗なものじゃなかった。

 嘘や隠し事や、どうしようもない弱さや欲望――。

 それでも、あの一瞬一瞬が、自分を確かに生かしてくれたのだ。

 それを否定することも、忘れることもできない。


 春が来た。

 桜が咲き、また新しい季節が始まる。

 家族と並んで歩く道、ふと花びらが肩に舞い降りた。


 僕は顔を上げ、優しい風を胸いっぱいに吸い込む。


 「綺麗じゃないけれど、たしかにここにあった」

 そう思いながら、歩き続ける。

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