「月が綺麗ですね、お嬢さん」
男のベルベットボイスが、娘の耳を擽った。
その娘は、好奇心に抗えずに禁忌の森へ足を踏み入れてしまったのだ。
後方、頭上から降ってきた声に振り向けば、赤い瞳、その夜の月のように青白い肌、絹糸のように美しく揺れる銀の髪。微笑んだ唇、薄く開かれたその隙間に、鋭い犬歯が見えた。
そっと、男の影が娘の影に重なる。
その夜を境に、その娘が村に戻ることは無かった。
「いいかい、あの森には吸血鬼がいるからね、決して近寄ってはいけないよ。瞳を見てしまったら最後さ! その美しさに、たちまち恋に落ちてしまうんだ。ああ、恐ろしいったらないね……、その牙に噛みつかれたら最後、全身の血を奪われて、あっという間に枯れちまうんだよ! わかったらね、あの森には近づかないことだ!」
村の人々は、子供たちに口を酸っぱくしてそうやって言い聞かせている。それでも、年に何人かは森へ入って行方不明になってしまうのだ。森に探しに入った者が数日後に見つけるのは、すっかり血を抜かれてしわしわになってしまった無残な亡骸だという。しかし、その顔は皆、どことなく恍惚としていたらしい。酔わせて、血を吸いつくす。それが吸血鬼の手口だった。
帰ってこなくなってしまうのは、決まって美しい娘、見目の良い男、小さな子供。年寄は森に入っても吸血鬼に会うことは無かった。どうやら森にすむ吸血鬼はグルメらしく、若く美しい者の血しか口にしないようなので、吸血鬼の館があるその森は、一定の年齢未満は立ち入りを禁じられていた。
「ああ、でも一目で恋に落ちてしまうなんてどんなに美しい吸血鬼なのかしら!」
「ねー! あたしも会ってみたい!」
「二件となりの婆様が若いころ遠目に見たって言ってたけど、そりゃもう綺麗な男だったんだって」
「いいなあ! ねえ、こっそりみんなで出かけてみない?」
井戸のそばできゃいきゃいと話し込んでいる村の少女たちを、通りかかった老婆が叱る。
「何言ってんだい! 全員血を吸われてからっからになって終わりだよ!」
金髪の娘がうっとりと頬を染めてため息をつく。
「でも~、眷属になれたら生き長らえるっていうじゃない? もしかしたら吸血鬼様の運命の相手なら……」
じろり、と老婆が娘を睨んだ。
「悪魔信仰はおやめ、不毛だよ全く」
「信仰じゃないもん恋だもん」
「見てもない相手に何言ってんだよこの子は……ほら、馬鹿なこと言っとらんと、さっさと水を汲んどくれ」
「はーい」
水桶をもって娘は身体を反転させ、井戸に背を向けた。その時、見かけない青年を見つけて水桶を取り落とす。汲んだ水が少しこぼれてしまった。
「ちょっと、何やってるんだい」
「あっ……ねえ! 見て! この村にお客さん!? 珍しくない?」
わいわいと娘たちが色めき立つ。老婆は娘たちを落ち着かせると、男の方へ近づいて問うた。
「お若いの、この辺鄙な村に何か御用かね」
柔らかな亜麻色の髪をゆるく束ねた男は、静かに頷いた。線が細く儚い雰囲気を纏ったその男は、一見すると女性のようにも見えるが、黒のカソックを纏っているおかげで、男性聖職者であると誰の目にもわかる。トランクを一度地面に置くと、男はくすみがかった青い瞳を細めて一礼した。
「はじめまして、隣町の教会から派遣されて参りました、リベルトと申します。この村は吸血鬼による行方不明事件が頻発していると伺いまして……」
「そうすると、村長が頼んだ吸血鬼討伐者ってのは」
「はい、私のことで間違いありません」
二人のやり取りを見ていた少女たちは、リベルトの美しさに浮足立っている。
「これっ、うるさいよあんたたち! 村長にお客様がいらしたと伝えておくれ!」
「婆様ばっかりずるーい! あたしもお客様とお話したい!」
駄々をこねる少女に視線を移すと、リベルトはふわりと微笑んだ。きゃあきゃあ騒いでいる娘が、一瞬で静かになる。まるで聖母像のような柔らかで神聖なほどの微笑みに、すっかり見惚れていた少女だったが、その娘の代わりに、集団の中で唯一寡黙な娘が前に歩み出てリベルトのトランクを持った。
「ご案内します」
「ありがとうございます」
「あっ、ナタリア姉さん!」
赤毛をひっつめて後ろでまとめている、村一番地味な娘。それがナタリアであった。頬にはそばかす、切れ長の瞳は、人を寄せ付けない雰囲気がある。自分が案内したかった、とぶうぶう言っている妹分たちを一瞥すると、小さくため息をついた。
「騒がしくてすみません」
「いいえ、元気があってよいことです」