家に戻った頃には、もうすっかり日が暮れていた。
かつて明かりがついた家は、今や暗く冷たく、私だけが残されていた。
家族で過ごした日々が、まるで無数の刃のように、私の心臓を何度も貫いた。
顔を洗い、寝室に戻って、翌日真司が蒼汰に会わせてくれるのを待つ。
明け方近くにようやく眠りにつき、夜が明けると同時に目が覚めた。
丁寧に身支度を整え、蒼汰が一番好きだった黄色いワンピースに着替えた。
リビングのソファに座り、夜明けから日没まで待ったが、真司からの電話は一度も鳴らなかった。
その時になって初めて、真司に騙されたのかもしれないと気づいた。
家を飛び出し、タクシーで会社へ行った。
ロビーに着くと、警備員に阻まれた。
その時、私は絶えずに感情が爆発した。
「私は氷室真司の妻……」
何度も説明して、婚姻届受理証明書まで見せた。
だが、彼らは信じようとしない。
「どこからきたキチガイ女だ。氷室社長が天宮家の令嬢と婚約したことは周知の事実だ。噓をつくにも身の丈に合った相手を選べ!」
全く取り合ってもらえない。
「私が天宮家の令嬢です!」
仕方なく焦りながら説明した。
すると彼らはさらに大声で嘲笑った。
「自分の姿を見てきなよ。もし本当なら、イギリス王妃にもなれる、とも言いたいのか?」
結局、警備員に掴みかかられ、ビルから追い出された。
震えるほど怒り、番号すらうまく押せない。
ようやく真司の電話がつながり、私は叫んだ。
「氷室真司!最後の警告よ!蒼汰に会わせないなら、全てのメディアに連絡する。彼らはこの結婚受理証明書が本物かどうかが分かる!」
「いいだろう!ただし忠告しておく。メディアを呼ぶ前に、自分の親友に電話してみろ。佐倉凛音…だったな?」
そう言うと、真司は電話を切った。
頭がガーンとなった。
凛音!
真司は何をするつもり?
すぐに凛音に電話したが、何度かけても出ない。
仕方なく、タクシーで凛音の家へ向かった。
車中で、凛音からの着信が入った。私は慌てて受話器を取る。
「もしもし、凛音!?」
「すみません、凛音の彼氏です。彼女が事故に遭い、今は電話に出られません。君は彼女のお友達ですか?」
その言葉に全身の血が凍りつき、思考すら停止した。
心に浮かんだのはただ一つ、私のせいで凛音を巻き込んだ!
病院に駆けつけると、凛音はまだ手術室の中だった。
見知らぬ凛音の彼氏と挨拶を交わし、それぞれ壁にもたれて待っていた。
幸い、命に別状はなかったが、脚骨折してしばらく入院が必要だという。
私は罪悪感と恐怖でいっぱいだった。
真相を知らない凛音は、逆に私を慰めてくれた。
病院を出ると、また雨が降ってきた。雨の中を歩きながら、全身が震えるほど冷たかった。
どうしてそんな真似ができるの?
あれは私が知っていた真司なの?
これは真司の警告だと悟った。
もし関係をバレしたら、次は凛音が助からないだろう。
私は決意した。もう二度と凛音とは関わらないと。
あの日以来、病院へ行くことも、凛音に電話をかけることもなかった。
凛音から電話があったが、私は出なかった。それきり彼女から連絡は来なくなった。
また凛音の心を傷つけてしまったと痛感した。
私の人生でたった一人の親友!
この世で本当に私を気にかけてくれる人は、彼女だけだったのに!
でも凛音、これ以上君を傷つけるわけにはいかない。
もう離れるしかない!
その間、真司に会いにいかなかったが、彼の弁護士が離婚届を持って来た。私はサインしなかった。
ついに真司が我慢できずに、自らやって来た。
その日、彼は天宮雪奈を連れていた。
二人は向かいに座り、天宮雪奈は私を見るなり怯えたウサギのように震え、私が彼女を食い殺す猛獣かのように振る舞った。
真司はその様子を気にかけ、ずっと彼女の手を握り、視線で私を警告した。
「もう一度だけ機会をやる。いくらほしい?」
「蒼汰をわたしに」
これが私の唯一の望み。
「ありえない!蒼汰にお前のような、恥知らずの母親なんか要らない。二度と蒼汰に会わせない!」
真司の言葉はあまりにも残酷だった。
私は笑いながらも、心はズタズタに引き裂かれる痛みを覚えた。
「それなら、あなたも彼女を法律上の妻として迎えられない。愛する人を一生愛人として忍ばせるつもりなの?」
「真司!」
天宮雪奈は涙を浮かべ、震える声で彼の名前を呼んだ。
愛する女の涙に、真司は焦ったように脅した。
「親友の命も構わないのか?」
「佐倉凛音のこと?昔遊んだだけだ。何年も連絡取っていないし、彼女は私の夫が誰だかすら知らない、何が親友だ。」
わざと無関心を装った。
「お姉ちゃん、凛音さんはお姉ちゃんの医療費を払い、その後の世話までしたんですよ?親友ではなかったら、そこまでするわけないでしょう?」
天宮雪奈が隣で口を挟んだ。
私は冷たく彼女を見た。
「あんただって昔は私にベタベタしてたよね?今じゃ私の夫を奪おうとしてるじゃないか?」
彼女は言葉に詰まり、私は嘲笑を込めて続く。
「この世は所詮利益のために働く、愛情や友情なんかあるはずがない。」
「余計なことを言うな!雪奈は何も奪うつもりなどなかった。全部俺だ。俺が何年も彼女を愛し続け、求婚し、無理やり婚約した。」
真司が全てをかばった。
「彼女と結婚したいかどうか、どうでもいい。でも、離婚するなら、息子は私と生活する!」
私は一歩も引かなかった。
「お姉さん、蒼汰くんは私と真司のもとで育てる方がいいと思うよ。彼の将来のこともよく考えて。それに、彼もお姉さんと暮ごすのを望んでいないかも。」
天宮雪奈が口を挟んだ。
「黙りなさい!私が蒼汰の母親だ!」
知っていた、私では子供にお金持ちの生活を提供できないと、それでも、子供に全身全霊の愛は注げられる。
でも、天宮雪奈が蒼汰を大切にするわけがない。
真司は目の前のテーブルを蹴り飛ばし、上のカップがガラッと散乱し、沸かしたばかりのお湯が私に向かって飛んできた。
一瞬、腕で顔を庇うと、お湯が全て腕にかかった。
腕に走った鋭い痛みに、私は思わず叫び声を上げた。真司の目には一瞬、かすかな動揺が走っているのが見えた。
心がふっと揺れた。私を心配しているの?
その瞬間、天宮雪奈が「痛い!」と悲鳴をあげた。
真司が慌てて振り向くと、彼女の手にもお湯がかかっていた。
赤くなった手の甲を見て、彼女は涙をぽろぽろこぼした。真司は愛おしそうにその手を握り、冷蔵庫から氷水を取り出し、手を冷やした。
一方、肘まで真っ赤に腫れ上がった私の腕は、二度と見向きもされなかった。
「ダメだ、病院で処置しないと、跡が残ったら大変だ!」
真司が天宮雪奈を病院に連れて行こうとすると、彼女はその偽善的な態度で私の方へ見た。
「お姉ちゃんもひどいみたい、一緒にいこう?」
「あいつには不要だ」
そう言うと、真司は宝物を扱うように天宮雪奈を連れて去る。
「真司……」
呼んでも、彼は振り返らず、私を無視した。
私は言い続けた。
「不思議に思わないの?私の優しい妹が、どうして凛音が私の医療費を払って、世話までしていたことを知っているのかを……」