九条刹夜が鍵を取り出し、扉を開けた瞬間、部屋に夜食の香りが漂った。
それは、以前彼が嫌悪していた香り。しかし今では、彼にとってはどこか懐かしい、もう一つの意味を持つ香りとなっていた。
一度しか会ったことのない女性と結婚するなんて、想像すらできなかった。
それでも、あの日、初めて目の前に現れた彼女――
あの時の衝撃が忘れられず、彼は狂ったように彼女を探し回り、家に連れ帰り、妻として迎えた。
九条鈴羽は、扉の音を聞き、エプロンをつけたまま、慌てて台所から出てきた。
「おかえりなさいませ、刹夜さん。
お食事がもうすぐ仕上がります。
先にお茶でもどうぞ。温かいうちに、体を温めてくださいね」
鈴羽は丁寧に言葉をかけ、その顔にはどこか恐れているような様子が浮かんでいた。
必死に、彼に気に入られようと振る舞っているのだ。
お茶を差し出した瞬間、九条刹夜は無表情でそれを床にこぼした。
熱いお湯が鈴羽の手の甲にかかり、瞬間的に焼けるような痛みが走った。
「っ、刹夜さん、どうかされたんですか?何か…あったのでしょうか?」
彼女は痛みに顔を歪ませながらも、怒ることなく、恐る恐る尋ねた。
もし、一年前にあの運命的な出会いがなければ――
こんな普通の女が、ヤクザの若頭である刹夜と結婚することなんて、あり得なかっただろう。
刹夜は、何も言わずに鈴羽をじっと見つめていた。その目は、言葉にできないほどの冷徹さを湛えていた。
その頭の中では、1時間前、もう一人の女性が言った言葉がまだ反響していた――
『九条刹夜様、私こそがあなたが探していた人間です。私こそが…本物の月島千紗です。
今、あなたの側にいる女性は私ではありません。私の双子の妹、鈴羽です。
彼女は私を裏切り、私になりすまし、あなたと結婚しました…。両親も妹を偏愛し、すべてを隠して私を欺いたのです。
九条様、私こそが…あなたが望んでいた妻なのです』
その女性は突如として現れ、あまりにも衝撃的な真実を語った。
刹夜はもはや調べるまでもない。
彼女たちは本当に似ており、表情も驚くほど一致していた。
刹夜ですら彼女を見たとき、一緒に一年間過ごした妻だと思い込んでいた。
「俺に言うべきことはないのか?」刹夜は冷徹な声で問いかけた。
「私……何を言えば……」
鈴羽は言葉を探すが、思い浮かぶものはなかった。どう答えるべきか全く分からない。
彼女たちは、もともと交わるべきではない二つの世界に生きる人間。交わることなどなかったはずだ。
しかし、一年前、九条刹夜に一目惚れされた姉は、
ヤクザの家に嫁ぐことを拒み、愛していた男と共に夜逃げして行方不明になった。
両親は、ヤクザから復讐されることを恐れ、
急いで田舎に住んでいた自分を迎えに行った。
鈴羽は非常に臆病で、
この男に殺されるのではないかと恐れ、彼に逆らうこともできなかった。
結婚後、彼が無理に求める度に、拒否することができず、身体が不調でも耐えるしかなかった。
実際、彼女はこの結婚生活が望んでいたものではなかった。
しかし、選択肢はなかった。
「お前の姉に会った。本物の月島千紗だ」
彼の言葉に、鈴羽は頭の中が真っ白になった。
彼女は驚きのあまり、言葉を失い、顔色が瞬く間に青ざめた。
「彼女から言うには、お前の名は鈴羽…。本当か?」
刹夜の口調は不気味なほど優しく、傷痕の残る大きな手を伸ばし、遠慮なく鈴羽の顎をつかんだ。
「刹夜さん、実は――」
「俺の名を呼ぶな!お前にそんな資格なんてない!」
刹夜は突然暴走し、彼女の首を掴んで壁に強く押し付けた。
「ゲホッ…ゲホッ…」
鈴羽は息が詰まり、激しく咳き込むことしかできなかった。
今夜を無事に生き延びることができるのか、それすら疑わしく感じられる。
刹夜は、最大のヤクザ組織、「刹渊組」の後継者。
兄弟たちを踏み台にしてその地位を築いた悪魔だ。
命など、彼にとっては何の価値もない。
「言え!」
男は怒りを込めて叫び、一瞬、彼女をその場で殺してしまおうかという衝動に駆られる。
「ゲホッ…あ、姉の言っていた通り…。私…私は月島鈴羽です…」
鈴羽は震える声でそう認めた。
心の奥底に秘めていた真実が暴かれた以上、もう逃げ道などないことを、彼女は痛いほど理解していた。
結婚してからの一年間、彼女はずっと恐怖に苛まれていた。
食事もろくに喉を通らず、夜も眠れなかった。
もし秘密が露見すれば、彼女も両親も命を落とすだろうと、常にその恐怖と隣り合わせで生きてきた。
しかし、まさか一年後にその秘密を姉自らが告げるとは――
どんな事情があろうと、想像もしていなかった。
姉は、戻ってきたんだ…。
だが、彼女は自分にも告げず、両親にすら顔を見せず、直接九条刹夜に会いに行った。
自分を死に追いやるつもりなのだろうか?
「お前、俺を騙した者がどうなるか、知っているのか?」
男の声が冷たく響き、鈴羽をさらに苦しい現実へと引き戻した。
「わかってます。…私を、殺すのでしょう」
鈴羽は、結婚してからずっと感じていた恐怖を、言葉にした。
いつかこの男に殺される日が来るのだろうと、ずっと思っていた。
ただ、その日がこんなにも早く訪れるとは思わなかった。
まだ若い、たった22歳の彼女にとって、死は遥かに遠いものであってほしかった。
「いやいや、死ぬのが一番楽な罰だ。 お前みたいな嘘つきには…生き地獄のような罰を与えてやるべきだ」
刹夜は彼女の耳元で囁くように言った。
「お前を俺の縄張り、一番街の歌舞伎町に放り込んだら、どうなると思う?
お前のような安っぽい女なら、毎日何十人もの男を相手にしてもへっちゃらだろ?」
一番街――
それは、アジア最大の歓楽街であり、同時に極道の縄張りでもあった。
彼は決して言葉だけの脅しをしない。
彼なら…本当に実行する。
「やめて、お願い…」
鈴羽は心の底から恐怖を感じ、声を震わせた。
一番街に送られるくらいなら、死んだ方がマシ。
「ほう?どうやってお願いするんだ?」
男の目には嘲笑が浮かんでいた。
彼は夥しい屍を踏みつけて成り上がった王。
そんな自分が、一人の女に一年も騙されていたなんて…。
この鬱憤、晴らさねばならない。
刹夜は鈴羽の首を掴んでいた手を離し、ハンカチでそっと手を拭った。
鈴羽はようやく、息をつくことができた。
「刹夜さん……私、わざとあなたを騙そうとしたわけじゃないんです。実は一年前…」
「お前の言い訳なんて聞きたくない。嘘ばかり吐く女め。俺が見たいのは結果だけだ」
「…では、刹夜さんはどんな結果を望んでいるのですか…?」
鈴羽は恐怖と不安で震えながらも、必死に尋ねた。
「俺を納得させるまで詫びろ。さもなければ、夜が明ける前に一番街に放り込まれることになるぞ」
鈴羽は深く息を吸い込み、心の中で覚悟を決めた。
今日、どんな選択をしても、彼女の結末は決して楽ではないと感じていた。
「…刹夜さん、私は座を姉に戻します。あなたが望んでいた通り、私は身を引きます。
家の物は何一つ持って行きません。私物だけを持って出ていきます。
これから一生、あなたたちの前に現れません。
私はこの約束を守ります。どうか…どうかお許しくださいっ」
鈴羽は深く頭を下げ、卑屈に、そして必死に誓った。
だが、何故か「これから一生あなたの前に現れません」と言った瞬間、刹夜の怒りが一層増したように見えた。
「出て行くだと?ふん、許可した覚えはないぞ?俺がまだ満足してないのに、勝手に出て行けると思うか?」
刹夜は冷笑を浮かべると、鈴羽の髪を無情に引っ張った。
「な、何を…!」
鈴羽は一歩後退し、次第に無駄と感じた。
逃げようとしても、もう遅かった。
次の瞬間、鈴羽の軽薄な服が、彼の強力な手のひらで引き裂かれ――
刹夜は、燃え上がる怒りと欲望をそのままに、何の容赦もなく鈴羽の唇を貪った。
「月島鈴羽、お前は嘘つきだ。俺は…お前を徹底的に罰してやる」