真希は泳げない!
小雪はまさか拓海に突き放される日が来るとは思ってもみなかった。
彼の背中に垣間見えた心配そうな様子がどうしても納得できなかった。
お兄様は私以外の誰かを気にかけるはずがない、他の誰かに視線を留めるなんてありえない!
そう考えた瞬間、小雪の顔に陰険な笑みが浮かんだ。
真希、そんな手を使ってお兄様の注意を引こうだなんて、許さないわ!
あなたが飛び降りるなら、私も飛び降りてやる!
小雪は泣きながら窓へ駆け寄ると、「お姉さん! 私を恨んで! 全部私のせいよ!」
そう叫ぶと、逆さまに飛び降りた。
「小雪!」
拓海は一瞬の躊躇もなく、続いて飛び込んだ。
ドボン、ドボンという水音が、恐怖で凍りついていた私の身体を解いた。
逆光の中、彼が近づいてくる。あの日のように、眩しい光をまとって、目が離せない。生きたいという本能が、私は彼に手を差し伸べさせた。
拓海、助けて……
でも、彼は私の横を素通りし、小雪へと向かった。
窒息するせいか、それとも……胸が痛くて、目尻も熱く滲んでいく。
拓海、あなたはまた私を……
再び意識が戻ったのは車の中だった。
強い圧迫で胸が押され、横向きに吐くと水が何口か出た。
これでようやく息ができる。
彼が私を置いて小雪を助ける光景が、また脳裏に浮かぶ。
真希、何を期待していたの? 彼はあなたを愛していない。助けたりするはずがない……
深く息を吸い込み、周囲を見渡す。私は車の中にいる。
車内には運転手と二人の護衛、それに私だけ。
「どこへ連れて行くの?」声はかすれ、耳障りだった。
「小雪様が入院されました。ボスがお前を連れて行けと」
彼女の入院に私が関係あるわけがない。
「行かない」
私の抵抗は無視された。
江藤家の私立病院だった。
彼らは罪人を押さえつけるように、私を病室へ連れて行った。
江藤小雪はベッドに横たわり、目を閉じている。横にはモニターが置かれていた。
彼女はどうしたんだ?
「真希!」
拓海が早足で近づいてきた。普段は冷静沈着な彼が、感情を抑えきれず、私の膝を蹴り上げた。
足ががくっと折れ、私は江藤小雪の前でまっすぐにひざまずいた。
「お前が小雪を傷つけた!」
私が?
何があったかさえ知らないのに!
立ち上がろうとした。江藤小雪になんて跪くものか!
二人の護衛が私の肩を押さえ、立ち上がらせなかった。
「拓海、私を断罪するなら、なぜそうするのか説明してくれ!」
彼は身をかがめ、凄まじい殺気を浴びせてきた。
「お前がわざと飛び降りて小雪を刺激しなければ、小雪が自分を責め、自殺しようとまで思って水死しかけることはなかった!」
それでも私のせいにするのか?
「彼女が私の部屋に侵入して日記を盗み見た、それ自体が彼女の過ちだ。飛び降りたのも自殺未遂も水死しかけたのも自業自得だ!」
「この毒婦め!」拓海の手に青筋が浮き上がり、力が強まった。
息ができなくなりそう……
離して、離して!
彼の手を叩き、離そうともがいたが、無駄だった。
「簡単に死なせるわけにはいかない。お前が小雪にした平手打ち、傷つけた分は倍にして返してもらう」
首を押さえ、ひりひりする痛みがこみ上げてきた。
私は拓海を睨みつけ、反論し、責め、罵りたい衝動に駆られた。
でも口を開くと、広がったのは痛みだけだった。
「ここに跪いて、平手打ちをし続けろ。小雪が目を覚ますまでな!」
「嫌よ、間違ってなんかない。なんで自分で自分を殴らなきゃいけないの!」
「お前がやらないなら、こっちでやる」彼は二人の護衛に目配せした。
護衛たちはそれに応え、一人が私の両手を後ろで組み、もう一人が手を振りかぶった。
私は恐怖で後ずさった。
「拓海、そんなことしないで!」
ただあなたを好きだっただけ。何が悪い!
ビシッ!
最初の平手打ちが頬に当たった瞬間、はっきりと江藤小雪が笑っているのが見えた。
彼女は仮病だった。
頬の痛みをこらえ、私は叫んだ。
「小雪は大丈夫だ! 仮病なんだ!」
「打て!」
平手打ちが次々と落ちてきた。
必死にもがいたが、そのわずかな抵抗は、より残酷な仕打ちを招くだけだった。
ビシッ!ビシッ!ビシッ!
次から次へと嵐のような平手打ちが私を襲った。
意識が朦朧とし、頬の痛みはかゆみに変わり、今や完全に感覚を失っていた。
涙が止まらず、溢れ出る。
拓海、大嫌い、大嫌い!
もう好きなんてやめる、もうあなたなんて要らない!
離れてやる、すぐにでも離れてやる。もうこれ以上私を傷つけるのは許さない!
「兄さん」背後から小雪のか細い声がした。拓海が目線を戻すと、
「目が覚めたのか?」彼は小雪の手を握り、声を低く優しくして言った。
「もう二度とそんな無茶はするな、わかったか?」
小雪は拓海の手にすり寄った。
「私ももう少しで、兄さんに会えなくなるところだったんだから」
彼女は今まで気づかなかったかのように室内の異様な空気を訝しげに尋ねた。「何をしているの?」
「お前を傷つけた奴を罰している」
江藤小雪は私のためにとりなした。
「兄さん、もういいよ。お姉さんも反省したはずだし」
拓海は小雪の鼻をつまんで甘やかすように言った。
「お前はいつも心が優しすぎる」
小雪は柔らかく微笑んだ。
「もう何回目だ?」拓海は平然と尋ねた。
殴られているのが全くの他人であるかのように。
「ボス、99回でございます」
「ならきりのいい数にしろ」
ビシッ!
最後の一撃が落ち、魂が体から抜け出したような感覚がした。
温かいものが流れ出て、奔流となり、私は闇に落ちていった。
時間は長く経ったようにも、一瞬のようにも感じられた……
目を覚ますと、窓の外は雨だった。
街灯が夜の雨の中、頑なに一筋の明かりを守っていた。
看護師によると、私は丸一日昏睡していたという。
唯一の救いは、最も痛みが激しい時間帯を寝てやり過ごせたことだった。
頬の傷は癒えつつあり、平手打ちによる鼓膜損傷も24時間ぶっ続けの点滴のおかげで回復し始めていた。
私はひりひりと腫れ上がった頬をそっと触りながら、拓海の無情な顔が脳裏をよぎった。
逃げなければ。ここから離れなければ。さもなければ殺されてしまう。
点滴針を抜き、ドアを押すと、廊下は静まり返っていた。
足音を忍ばせて進み、隣の病室を通り過ぎた時、抑えた呟きが耳に入った……
「小雪」
拓海だった。
薄暗い灯りが病室に差し込み、拓海はベッドの傍らに座っていた。
彼の細長い指が、小雪の青白くなった頬を優しく撫で、その視線は深く絡みつくように向けられていた。
彼は心の奥底に潜む獣を必死に押さえつけていた。一度でも堤防が決壊すれば、待っているのは深淵だと恐れながら。
誰もいない病室、静まり返った深夜。
その瞬間だけが、歪んだ情念をほんのわずか曝け出すことを許されていた。
しかし、ひとつの呟きが心の檻を破り、拓海が必死に抑え込んでいた獣を解き放ってしまった。
「兄さん……」
夢の中の小雪の呟き。その甘ったるい口調。長年妄想してきたことが目の前にある誘惑。彼はもはや抑えきれず、身をかがめて唇を重ねた。
薄い唇が彼女の唇を舐めるように貪る。
眠りの中の小雪は、まるで美しい夢を見ているかのように、腕を伸ばして拓海の首筋を抱き寄せた。
拓海は驚いて目を見開いたが、小雪はまだ眠っていた。夢の中だった。美しい夢の中。
彼はより激しく、より大胆に彼女にキスを続けた。病室には、淫らな水音が響いた。
それは私がかつて見たこともないほどの熱情と奔放さだった。
ここ数年、彼のためにしてきた愚かなことを思い出す。
彼の前で恥ずかしい姿勢をとり、心経を百回書き写す罰を受けた。
セクシーなワンピースを着て、わざと彼の最も敏感な部分をこすりつけ、彼は翌日、保守的な服を送りつけてきた。
彼が私に無関心な理由を、私はあらゆる言い訳で糊塗してきた。
けれども、彼が小雪だけのために、禁欲という外皮を脱ぎ捨て、自ら地獄へ堕ちていくことを。
私に残されたものは、ただ傷だらけの体だけだった。
雨粒が窓ガラスを叩きつける。まるで警告しているようだった。
彼らはこうあってはならない、彼らの立場が許さないと。
私はスマートフォンを取り出し、録画ボタンを押した。