文学部棟は大学構内でも端のほうに建っている。そのため一階にある自販機は文学部の人間でも利用する人が少なく、二つ置かれたベンチはいつも空席だった。講義時間中はとくにそうで、だから僕はここを安藤と会う場所に選んだ。
安藤と二人きりにはなりたくない。それでも中学時代の話題が出るかもしれないと思うと、誰かに会話を聞かれてしまうような場所で会うのはためらわれた。誰かに聞かれて噂を流されるくらいなら二人きりのほうがいい。
(それに、ここなら出入り口の近くだし)
もし二人きりに耐えられなくなったら出て行けばいい。出入り口の反対側には正面玄関があって事務室もある。こういう場所なら、例えば安藤が激昂しても何かされる可能性は低いはずだ。
(安藤が僕を殴ったりするとは思えないけど)
でも、昨日のように腕を掴んだりすることは考えられる。そういうことから逃れるためにも多少人の気配はあったほうがいい。咄嗟に決めた場所だったけれど、我ながらいい選択だ。
(こうやって冷静に考えられるってことは、もう大丈夫ってことだ)
安藤を前にしてもなんともない。本人と言葉を交わしたことで過去の呪縛から解き放たれたのかもしれない。こういうのもショック療法というのだろうか。
「それで、話って何?」
話したいと言ったのは安藤のほうなのに、なかなか口を開こうとしない。僕としてはさっさと終わらせたいのにどうして何も言わないんだろう。
しばらく待ったものの、やっぱり何も話そうとしない。僕は段々と腹立たしさを感じ始めていた。
「話すことがないなら、帰る」
出入り口のほうに歩き出すと、安藤が慌てたように「話があるのは本当なんだ!」と口を開いた。
「ずっと話したいと思ってた。ただ、何て言っていいのかわからなくて……」
「別に無理して話さなくていいんだけど。僕のほうは何か聞きたいわけじゃないし」
「いや、話す。ずっと言わなきゃと思ってたんだ」
そう言った安藤が何度か小さく深呼吸をくり返した。
「沢渡にずっと謝りたかった。中学のとき、ひどいこと言ってごめん」
目の前で安藤が頭を下げた。ひどいことというのは「ホモなの?」という言葉のことに違いない。
あのときの安藤の顔が蘇った。普段とは違う笑みは言葉にできない感じのものだった。クラスメイトたちのからかうような笑みとも気持ち悪がるような顔とも違っていたのを覚えている。いま思い出してもどういう種類の笑みかよくわからない。
同時に言われたときの気持ちが蘇り、目の前がカッとなった。いまさら謝られたところであの後の時間が戻って来るわけじゃない。何もなかったことになるはずもなかった。ずっと胸の奥にあったキリキリする切ないような痛みがぶり返して眉間に皺が寄る。
「いまさら謝ったところで、どうしたいの?」
「許してもらえるとは思ってない。それでも謝りたいとずっと思ってたんだ。その……あんな遠い高校に行くとは思ってなくて、それに寮に入ったって聞いて、ひどいことをしたんだってそのときようやくわかったんだ」
いまさら懺悔されても困る。それに僕はあの高校に入ってよかったと思っている。松岡という親友もできたし、高校生活はそれなりに楽しかった。
たしかに高校を選ぶきっかけは最悪だったけれど、安藤と関わらない人生をスタートさせることができた。僕にとっては喜ぶべきターニングポイントだと思っている。
(そもそも謝るくらいならもう僕に関わらないでほしい)
それにようやく吹っ切れたと実感したところだ。昨夜はぐっすり眠ることができたし、安藤を前にしてもこうして平気でいられる。もう僕の日常に安藤が入り込む余地はどこにもない。
「別に、もういいから」
「沢渡、」
「いまさら謝られたところでどうしようもないし蒸し返されるほうが困る。中三のときのことは忘れてくれてかまわないから。僕ももう忘れる」
今日ですっかり忘れて、もう思い出すことはしない。そう思った瞬間、なぜか胸がキリキリと痛んだ。不思議に思いながらも「こういうものだってそのうち忘れるはずだ」と自分に言い聞かせる。
「それじゃ。もう声かけないで」
「沢渡!」
出入り口へ足を向けた僕の腕を安藤が掴んだ。
「話、終わったよね? 離してくれないかな」
「嫌だ。まだ終わってない」
「それならさっさと話せよ。僕は早く帰りたいんだ」
少し強く言うと安藤がクッと唇を噛んだ。そうして少しだけ視線をさまよわせる。
(さっきと同じだ)
ベンチの前に立っていた僕を、安藤は唇を噛み締めながらじっと見ていた。僕が見返すと焦るように視線をさまよわせ、そのまま無言の時間が続く。また最初のようにだんまりかと苦々しく思ったものの、この先変につきまとわれるくらいなら最後まで聞いたほうがいい。そう判断した僕は仕方なく話すを待った。
「……俺が、どうしてあのときあんなことを言ってしまったか、まだ話してない」
「もういいって言ってるよね? 聞いたところで、いまさらどうにもならないから」
「違うんだ!」
突然の大きな声にビクッと肩が震えた。驚いたのは安藤も同じなのか、掴んでいた手が離れた。
「ごめん。いまさらかもしれなけど、でも聞いてほしいんだ」
もう一度クッと唇を噛んだ安藤がじっと僕を見る。
「中三のとき、俺……おまえのことが好きだったんだ」
脳みそが一瞬動きを止めた。「おまえのことが好きだったんだ」という言葉が頭の中でぐるっと一周する。意味がわからなかった。安藤は何を言っているんだろうか。
「三年で初めて同じクラスになったとき、すげぇ可愛い顔した奴がいるなって思ったんだ。同じ男子の制服着てるのが不思議なくらい、可愛い顔してるって思った」
安藤の視線が自販機に向いた。気のせいでなければ目元が少し赤くなっているように見える。
「最初はそれだけだった。それが五月の連休が終わって久しぶりに顔を見たら、目が離せなくなってた。『沢渡って可愛い顔してるよな』って言う奴まで出てきて、ますます気になった。そのうち誰かがおまえのこと好きになるんじゃないかって心配になった。誰かがコクって、付き合ったりするんじゃないかってことまで考えた」
自販機を見ていた視線が僕に向く。
「あの頃の沢渡、何を頼まれても断ったりしなかっただろ? もしかして流されやすい性格なのかなと思ったら、すげぇ心配になって……流されて誰かと付き合ったりするんじゃないかって不安になったんだ。毎日気になって、あれこれ考えてるうちにイライラしてきて……気がついたら、あんなこと言ってた」
意味がわからなかった。もし安藤の言うとおりだとしたら、好きだから意地悪をしてしまったということだ。そんなろくでもないことのせいで、僕は中学三年の十カ月近くをあんなふうに過ごさなくてはいけなくなったということだろうか。
(……なんだよ、その幼稚園児みたいな発想は)
中学生にもなって馬鹿なのか。そんなろくでもない身勝手な気持ちのために、僕はこんなにも苦しんできたってことなのか。
「そんなことのために、僕はあんな目に遭ったってこと?」
「本当に、心の底から悪かったと思ってる」
「……あのとき、僕が男子にひどいことを言われるのを見て笑ってたよね?」
口を歪ませて笑っていた安藤を僕は見ている。あれは蔑むような顔だった。
「違う! あ、いや、違わないんだけど……おまえが誰とも仲良くなれないんだと思ったら嬉しくて……。その、俺だけのものなんだって、これでおまえに声をかけるのは俺だけだって思ったら、嬉しくなって」
そういえば、クラス中から無視されていた僕に唯一声をかけてくるのは安藤だけだった。体育の時間にペアを組まなくてはいけなかったときも、卒業文集の係になったときも安藤だけが声をかけてきた。
(それも怖かったんだ)
無視される元凶を作った張本人なのに、どうして声をかけてくるのか理解できなかった。何を考えているのかわからないのが怖くて、笑いながら声をかけてくるのが信じられなくて必死に安藤から逃げた。そうするたびになぜか胸が痛くて、安藤の顔を見ると息が詰まるくらい苦しくてしょうがなかった。
(理由がわかったからって、いまさらどうしろって言うんだよ)
謝ってくれたし理由もわかったから許してやろう、なんて気持ちには到底なれない。
「いまさらそんなこと言われても困る。そもそも、どうしていまさら」
「いまさらじゃない! 俺は、いまでも沢渡のことが好きなんだ!」
今度こそ完全に脳みそが停止した。いや、全身の動きが止まったと言ってもいい。
「本当は一年のときから沢渡が同じ大学だって知ってたんだ。いや、その前からそうなるようにと願ってた。大学は実家に戻ってから通うって噂で聞いたから、それならこの大学だと思った。中学のとき本ばっか読んでたのは知ってたし、地元近辺で文学部があるのはこの大学しかないから間違いないと思って俺も受験した。一年のとき探して見つかったときは嬉しくて泣きそうになった」
笑っているのに泣いているような安藤の表情に背筋がぞわっとした。
「でも、見つけた沢渡は昔と雰囲気が全然違ってて……。やっぱり中学のときのことを引きずってるんだと思ったら、声なんてかけられなかった。でも、あいつといつも一緒にいるのを見たら……もしかしてあいつと付き合ってるのかと思ったら、声、かけてた」
「ちょっと待って。もしかしてあいつって松岡のこと?」
「この前、声かけんなって言った奴」
慌てて「付き合ってない」と否定した。勝手に勘違いされて松岡にまで何かされたらたまったもんじゃない。
「あのとき松岡は親友だって言ったよね? 僕もそう思ってるし、松岡は高校からの大事な友達で唯一の親友だ。そもそも松岡しか友達らしい友達ができなかったのだって、あんたのせいじゃないか」
「え?」
「中学のときのことがトラウマになって、知らない人に話しかけられるのが苦手になった。自分から話しかけるのもだ。あんたのせいで友達が作れなくなったんだ」
安藤が顔を歪ませた。表情からひどく後悔しているのは僕にもわかる。だからと言ってなかったことにはできないし、安藤の気持ちを受け入れることなんてできるはずがない。
(いまさら好きだなんて、言われて喜ぶとでも思ったのか?)
あんな目に遭わせておいて、その元凶を好きになるなんてあり得ない。そう思いながらも胸の奥が疼くような感覚に戸惑った。腹立たしいのとは違うおかしな気分がわき上がってくる。自分でもよくわからない感情を振り切りながらじっと安藤を睨んだ。
「いまさら懺悔みたいなことを言われても無理だから」
「沢渡、」
「それに僕は男が好きなわけじゃない。これまで好きになったこともないし、これからも好きにはならない。男だけじゃない、女性もだ。全部、あんたのせいだ」
「……ごめん」
「謝ってほしいなんて思ってない。そんなことより僕のことはもう忘れてほしい」
心の底からそう思った。それが僕の本心なのに胸がギリギリと捩られていくように痛む。安藤の存在よりも自分の言葉に息が苦しくなる。
「忘れるなんて無理だ」
安藤が消え入りそうな声でそう答えた。後悔しているような顔から段々と表情が消えていく。
「高校三年間で、沢渡のことを何度も忘れようとした。別の人を好きになろうともしたし、実際付き合ったりもした。男と付き合ったこともある。でも、駄目なんだ。頭の中にはずっと沢渡がいて、同じ大学だとわかってからは毎日沢渡のことばかり考えてしまうんだ」
感情の読み取れない瞳が、ただ真っ直ぐに僕へと向けられる。
「時間があれば沢渡の後をつけてた。いけないことをしてるってわかってるのに、自分でも止められなかった。俺はもう、沢渡のことしか考えられないんだ」
背筋を冷たいものが流れ落ちた。安藤が怖い。どうしようもないくらい怖い。さっきから何を言っているのか理解することができない。
それなのに、胸の深い場所から何かがわき上がってくるのを感じた。恐怖や嫌悪感とは明らかに違う何かが首をもたげ始める。
(駄目だ)
咄嗟にそう思った。いまわき上がっているよくないものに気づいてしまったら、僕はきっと戻れなくなる。
「帰る」
「沢渡、」
カバンをギュッと握った僕は、安藤から逃げるように踵を返した。恐ろしい何かに気づかないためにも早く安藤から離れなければと足を動かした。