「おや、今日の卓也くんはなんとも清々しい様子だね」
「蘭葡さん」
蘭葡さんの顔を見るのは三日ぶりだ。少し薄暗い店内なのに、相変わらず蘭葡さんの周りはほんのり明るく見える。
「イケメンくんとの関係に変化があったというところかな?」
「そう思いますか?」
「三日前の卓也くんとは雰囲気がまるで違うからね」
そうだろうか。祖母も弟もとくに何も言わなかったから気づかなかった。
「となれば、原因はあのイケメンくんしかない」
「まるで探偵みたいですよ」
「じつは、次の作品にも探偵を出そうか思案中なんだ」
「ということは推理小説ですか?」
「うーん、どちらかといえば恋愛小説かな」
「探偵が出てくるのに?」
僕の問いかけに蘭葡さんがにこりと笑った。
「何も探偵は推理小説にだけ出てくるわけじゃない。それに、探偵が解く謎に恋愛が含まれていても不思議じゃないと思わないかい?」
たしかにそうかもしれない。それに僕も蘭葡さんに恋心を紐解いてもらった一人だ。そういう探偵が一人くらいいてもおもしろいと思う。
「さて、卓也くんが何を選択したのか気になるところだけど」
蘭葡さんの言葉に、僕はにこりと微笑んだ。
「なるほど、切らずに結んだということか」
「変ですか?」
「いいや、そうなると予想はしていたからね。それに、自分の奥からわき上がる声と言葉に耳を傾けることだと言ったのは俺だよ」
「おかげで自分でも気づかなかった気持ちを知ることができました」
いまでも安藤の気持ちを受け入れることが最善だったのかわからない。ただ、僕にはもうこの選択肢しか見えなかった。
「ふむ、卓也くんは思っていた以上に俺と似ているようだ。溺れる相手をさらに溺れさせ、自らも溺れる淵へと近づいていく。ほんの少し背中を押した甲斐があったよ」
「蘭葡さん?」
「同じ道を歩む者がもう一人いれば俺の筆も進むというものだ」
よくわからないけれど、蘭葡さんが僕の選択を否定していないことはわかった。それに僕の中にある歪な気持ちも蘭葡さんなら理解してくれるに違いない。笑っている綺麗な顔を見ながら、なぜかそう思った。
それから少し本を読み、蘭葡さんと新作の話をしながら店番をした。相変わらず客が来ることはなく、帰り際に与謝野晶子の本を一冊買い求める。そうして古書店を出ると、すっかり馴染んできた姿が目に入った。
「沢渡」
「待ってたんだ?」
頷いた安藤が「飯、どうする?」と尋ねてくる。
「軽いものでいいかな」
「もう少し食べたほうがよくないか?」
「あはは、松岡と同じこと言ってる」
そう答えると、途端に安藤の顔が険しくなった。親友だとわかっていても僕の口から自分以外の名前が出るのは不愉快なんだろう。その気持ちもいまの僕なら理解できる。
そういえば昨日、松岡に会った。少し驚いたような顔をしていたということは、蘭葡さんが言ったとおり僕の何かが違って見えたのかもしれない。「そのうち松岡にも話さないとな」と思いながら安藤の隣を歩く。
「もしかして蘭葡さんのことも不快に思ってる?」
「そういうわけじゃないけど……なんて言ったらいいのかわからない」
「美人だけど、ちょっと変わった人だからね」
「そうじゃない。そうじゃなくて、うまく言えないけど……なんとなく、おまえに似てる気がする」
「僕と蘭葡さんが?」
「雰囲気っていうか何ていうか……やっぱりうまく言えない」
安藤までそんなことを言うとは予想外だった。てっきり苦手なのかと思っていたけれど、そうじゃないということなんだろうか。
「違うからな」
「え?」
「似てるとは思うけど、俺はあんな怖い人を好きになったりはしない。あんな、一回捕まったら逃げられなくなるような人はご免だ」
おかしな表現に思わず笑ってしまった。そんなことを言って、安藤だって僕から逃げられなくなっているじゃないか。そんな僕のことは「ご免だ」とは思わないんだろうか。
(誰も彼もが自分のことはわからないってことか)
ふと、僕が安藤に抱いている気持ちは本当に恋心なんだろうかと思った。隣を歩く安藤を見て、もう一度考える。
中学のときの思いが純粋な憧れや恋心だったのかはいまでもわからない。おそらく安藤の僕に対する気持ちも似たようなものだったんだろう。それでも安藤はその気持ちを恋だと思った。だから幼稚で容赦のない気持ちを暴走させ、いまでもその暴走は苛烈に続いている。
(まるで底なし沼のようだ)
僕たちが抱いている感情は、ただ好きになるよりもずっと深く重いもののような気がした。相手からも自分からも逃れられず、抱いた思いの中に深く深く沈んでいく。溺れるように沈み続けた先にあるのは、はたして恋心と呼べるものなのだろうか。
(少なくとも純粋な恋心とは言えないか)
頭に浮かんだ言葉に思わず笑ってしまった。僕と安藤の始まりは、そもそもいじめっ子といじめられっ子じゃないか。そこからして純粋さとはかけ離れている。
「沢渡?」
「ん? あぁ、なんでもないよ。ちょっとおかしくなって笑っただけ」
「おかしいって、何がだ?」
「だって、自分をいじめてた相手を好きになって、こんなふうに隣を歩いてるんだと思ったら笑えてくるだろ?」
「……そうだな」
「まぁ、そういう恋愛のスタートがあってもいいとは思うけど。現に安藤は僕が好きで、僕は安藤のことが好きなわけだし」
安藤がぴたりと足を止めた。数歩進んだ僕も立ち止まり、ゆっくり振り返る。
まだ出歩く人がいてもおかしくない時間だというのに辺りはしんと静まりかえっていた。商店街から少し離れているからか人の気配すら感じない。本来なら聞こえるであろう生活音でさえ、夕闇の中でかすかなノイズ程度に感じるだけだ。
そんな日常と非日常の狭間に僕と安藤は立っていた。薄暗い中に浮かんでいる安藤に表情はなく、どこか仄暗い気配を漂わせている。
「俺に好かれるのは、やっぱり嫌か?」
大学にいるときには決して見せない表情に、腹の底がゾクゾクした。ここで「やっぱり嫌だ」と言ったら安藤はどうなるんだろう、なんてことを考える。
(そうだなぁ……きっと壊れる、かな)
うなじが粟立ち鳥肌が立った。かく言う僕だって、安藤に拒絶されればどうなるかわからない。もしかしたら僕のほうが先におかしくなるかもしれない。そう思うことさえも僕の気持ちを昂ぶらせた。
(あぁ、そうか。僕はもう溺れ始めてるんだ)
不意に「自らも溺れる淵へと近づいていく」という蘭葡さんの言葉を思い出した。わかったうえで、きっと僕はこのまま溺れる道を選ぶのだろう。
この先も僕は安藤の手を離すつもりはない。透明なところで掴んだこの手を離さず、指を絡ませ合いながら段々と薄暗くなる水底へと一緒に沈んでいく。
「僕は安藤のことが好きだよ。だから、安藤も僕のことを好きでいて」
安藤の目に熱がこもった。ギラギラとした太陽とは違う、暗闇でゆらゆらと揺れるかがり火のような熱だ。その熱はそのうち僕を覆い尽くすに違いない。それとも、僕の火の粉のほうが先に安藤を焼き尽くすだろうか。
春みじかし 何に不滅の命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ
不意にあの歌が脳裏をよぎった。そうだ、人生は永遠じゃない。いつ途切れても不思議じゃない不安定なものだ。それなら僕が先に安藤を燃やし尽くしてもいいじゃないか。
安藤に近づき、僕よりずっと男らしい右手を掴み上げた。その手を左頬に当て、その上に自分の左手を重ねる。
「僕のことを好きでいてほしい」
安藤の喉が鳴った。眼鏡を奪い取った安藤の顔が近づいてくる。
「絶対に離すもんか」
やや乱暴なキスをされながら、僕はゾクゾクと背中を這い上がるものに酔いしれた。これが純粋な恋心かどうかなんてどうでもいい。安藤は僕を好きで僕も安藤が好き、二人がそう思っているならこれが僕たちの恋だ。
――この手に僕をさぐらせぬ。
そう思いながら重ねた安藤の左手の甲を指先でするりと撫でた。