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冷たい家族
冷たい家族
NIWA
ホラー怪談
2025年06月21日
公開日
7,739字
完結済
母の浮気で崩壊した家庭。学校では無視され、机には毎日菊の花が置かれる。どこにも居場所がない孤独な少女が過ごすこの家には、あまりにも残酷な秘密が存在していた。

第1話

 ◆


 カチン、カチン──スプーンが皿に当たる音。


 機械的な音が三つ、それぞれ微妙にずれたリズムで重なり合う。


 父は新聞を読みながら、味噌汁をすすっていた。


 母は虚ろな目でひたすら白米を口に運んでいる。


 私は冷めた目玉焼きをつついた。


 黄身が割れて、白身に広がっていく。


 いつからだろう、この家の料理から味が消えてしまったのは。


 塩も醤油も、何をかけても舌に届かない。


 ただ物体を咀嚼し、飲み込むだけの作業になっている。


「ごめんなさいね」


 母の声が唐突に響いた。


 それに対して、父は何も聞こえなかったかのように新聞をめくった。


 酷く冷たくて乾いた光景だ。


 でも私はもう慣れてしまった。


 母が口を開くときは、いつもこの言葉だけだ。


 三ヶ月前に発覚した母の浮気。


 相手は職場の上司だったらしい。


 父は離婚を言い出したけれど、私のためにと思ったのか、結局は「再構築」することになった。


 でも、それは名ばかりの再構築だ。


 可哀そうだと思うけれど、浮気をした母が悪いと思う。


 父はまだ怒っているのだ。


 時計の針が七時半を指す。


 私は席を立った。


「行ってきます」


 返事はない。


 振り返ることもせず、鞄を手に取る。


 玄関で靴を履きながらふと思った。


 もし今日、私が帰ってこなかったら二人は気づくだろうか。


 ──気付かなそうだな


 そんなことを思いながら家を出た。


 ◆


 外に出ると、梅雨の湿った空気が肌にまとわりついた。


 アスファルトに反射する朝日がやけに眩しい。


 通学路はいつもと変わらない。


 近所のおばさんたちが立ち話をしていた。


 私が近づいても話は途切れない。


 まるで私なんていないかのように笑い声を上げ続けている。


 以前は挨拶くらいはしあっていたのに──


 きっと母の不倫の噂が広まったんだろう。


 そして学校に着く。


 教室に向かうのが本当に気が重い。


 なぜなら──無視されているからだ。


 下駄箱の前を通る生徒たちは、私を透明人間のように扱う。


 肩がぶつかっても謝罪の言葉はない。


 まるで空気にぶつかったかのように、何事もなかったかのように通り過ぎていく。


 そしてついに教室。


 窓際の一番後ろの席が私の席だ。


 そこには今日も花瓶が置かれていた。


 白い菊の花が三本、水に浸かっている。


 昨日とは違う花だ。


 誰かが毎日、新しいものに取り替えているらしい。


 私は何も言わず、花瓶を机の端に寄せた。


 そう、私は無視されているだけじゃなく、いじめにもあっている。


 それもこれも全部母が不倫騒ぎなんて起こしたからだ。


 でも、本当にそれだけが理由なのかな。


 母親が浮気したからって、その子供がここまで嫌われるものだろうか。


 まるで私が何か恐ろしいことをしたみたいに、みんな私を避けている。


 先生も私の存在に気づかないふりをしている。


 なんでこんな目に遭わなければいけないんだろう? 


 ◆


 昼休み。


 屋上への階段に座り、一人で弁当を開いた。


 母が作ったおにぎりが二つ。


 海苔は湿気て、米にべったりと張り付いている。


 一口かじるとやはり味がしない。


 粘度の塊を飲み込んでいるような感覚。


 まあ飲んだ事はないけれど。


 それでも残さず食べた。


 午後の授業も、朝と同じように過ぎていく。


 チャイムが鳴り、帰りの会が終わる。


 生徒たちが騒がしく帰り支度を始める中、私は静かに鞄に教科書を詰めた。


 誰とも目を合わせず、誰とも言葉を交わさず。


 幽霊のように教室を後にする。


 帰り道、家が見えてきた。


 二階建てのどこにでもあるような一軒家──でも。


 玄関のドアに黄色と黒の縞模様のテープが貼られていた。


 ただの悪戯だ。


 近所の人たちがまた何かをしたらしい。


 不倫家族の家、とでも思われているのだろうか。


 私は無表情のままテープを剥がした。


 ◆


 玄関を開けると薄暗い廊下。


 あかり位つければよいのに。


「ただいま」


 やはり返事はない。


 リビングを覗くと、父がソファに座っていた。


 テレビは消えている。


 ただじっと壁を見つめているだけ。


「お父さん」


 声をかけてみた。


 反応はない。


 近づいてもう一度呼びかける。


「お父さん、今日も会社行かなかったの?」


 父の肩がぴくりと動いた。


 そして低い声が返ってきた。


「もう行け」


 たった四文字。


 ああ、そうですか。


 母の浮気のショックで、父は会社も休みがちになってしまった。


 これ以上何を言っても無駄だ。


 私は黙って、自分の部屋に向かった。


 ◆


 部屋に入り、鞄を床に投げ出す。


 そして、制服のままベッドに倒れ込んだ。


「お父さんもお母さんもクラスのみんなも」


 ──死んじゃえばいいんだ


 最後の言葉だけは口には出さなかった。


 起き上がり、机の引き出しを開ける。


 奥の方に古いアルバムが入っていた。


 埃をかぶったそれを取り出し、ページをめくる。


 色褪せた写真が次々と現れる。


 海での家族旅行。


 私の誕生日パーティー。


 桜の下でのお花見。


 どの写真でも私たちは笑っていた。


 父の大きな手が、私の頭を優しく撫でている。


 母が私を抱きしめて頬にキスをしている。


 三人で肩を寄せ合い、カメラに向かって笑顔を向けている。


 最後のページに一枚の写真があった。


 去年の正月に撮ったものだ。


 まだ母の浮気が発覚する前の、最後の家族写真。


 着物を着た私たちが神社の前で並んでいる。


 父も母もまだ普通に笑っていた。


 私も心から幸せそうな顔をしている。


 写真に写る自分の顔を指でなぞった。


 目の奥がじわりと熱くなる。


 でも涙は出なかった。


 もう枯れてしまったのかもしれない。


 アルバムを閉じて引き出しにしまった。


 窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。


 ──なんでこうなっちゃったんだろう


 そんな事を思う。


 ◆


 ──そろそろ夕飯かな


 無気力な母だけれど、ごはんはちゃんと作ってくれる。


 味がしないのはもしかしたら私に原因があるのかも知れない。


 ここ最近はストレスが凄かったから……。


 そういう状況下にあると、ごはんの味がなくなったり耳が聴こえなくなったりするらしい。


 そんな事を考えていると、階下からゴシゴシと何かを擦る音が聞こえてきた。


 母がまた床を拭いているらしい。


 私は部屋を出て階段を降りた。


 リビングを覗くと母が床に這いつくばっていた。


 雑巾を持った手が同じ場所を何度も何度も往復している。


 そこには何のシミも見えないのに。


 ──病んでるなぁ


 私は内心でそんな事を思った。


 ただ拭くだけじゃなくて、なんというか──荒々しいのだ。


 叩きつける様な激しさ。


 二階の私の部屋にまで聞こえてくるほど。


 まあそれは、この家がすっかり静まり返っているからなのかもしれないけれど。


 父はソファに座ったまま虚空を見つめていた。


 二人ともまるで壊れた人形みたいだ。


 そんな二人を見ていると、私は胸の奥で何かが爆発しそうになった。


 もう我慢できない。


「ねえ、どうして!」


 声が勝手に飛び出した。


 母の手が一瞬止まったような気がしたけど、すぐにまた動き始めた。


「なんで誰も私を見てくれないの!」


 父も母も反応しない。


 まるで私の声が聞こえていないみたいに。


「お父さん! お母さん!」


 叫んでも何も変わらない。


 父は相変わらず虚空を見つめ、母は床を拭き続ける。


「何とか言ってよ!」


 私の声だけが、虚しく響いた。


 そして完全な静寂が訪れる。


 まるで世界から音が消えたみたいに。


 ゴシゴシという音さえ聞こえなくなった。


 膝から力が抜けた。


 その場に崩れ落ちる。


 涙も出ない。


 ただ空っぽになった心だけが残っている。


 床に座り込んだまま、天井を見上げた。


 薄汚れた天井に小さな染みがある。


 それがだんだん人の顔に見えてきた。


 悲しそうな顔。


 泣いているような顔。


 私の顔みたいだな、と思った。


 ◆


 それから数日が過ぎた。


 相変わらず、同じような日々の繰り返し。


 ある日の昼過ぎ、玄関の方から物音がした。


 ガチャガチャと鍵を開ける音。


 誰かが入ってくる。


 母の手がぴたりと止まった。


 私も音のする方を見つめる。


 玄関のドアが開いて、スーツ姿の男が二人入ってきた。


「失礼します」


 男の一人が誰もいない空間に向かって言った。


 空き家に入る時の、形だけの挨拶だ。


 一人は黒いファイルを抱え、もう一人は大きなバッグを持っている。


「電気も止まってるな」


 男の一人がスイッチを押しながら言った。


「まあ、事故物件ですからね。三ヶ月も放置されてれば当然でしょう」


 二人は靴を脱がずに、そのまま廊下を進んでいく。


「何するんですか!」


 私は叫んだ。


 でも、男たちは何も聞こえないかのように歩いていく。


 まるで私の声が届いていないみたいに、ずんずんと廊下を進んでいく。


 私は男たちを追いかけた。


「待ってください! 勝手に入らないで!」


 必死に叫ぶけれど、彼らは止まらない。


 リビングに入った二人はカーテンを開けて部屋を見回した。


「ここがリビングですね」


 背の高い方の男が言った。


「思ったより広いな。これなら買い手もつきやすいでしょう。日当たりも良いですが──やけに寒いのが気になります。エアコンもついていないのに……」


 父がソファに座っているはずなのに、男の人はまるで気づかない様子だった。


 買い手? 


 何の話をしているんだろう。


 もう一人の男がバッグからメジャーを取り出した。


 そして壁の長さを測り始める。


 どういうこと? 


 混乱する私を無視して、男たちは淡々と作業を続ける。


「ここが例の一家心中があった家ですか」


 メジャーを持った男が、ふとつぶやいた。


 一家心中? 


 何それ。


「ええ」


 もう一人が答える。


「詳しい経緯は複雑みたいですけどね」


「どんな?」


「父親が仕事のストレスで病んでしまったのだとか。遺書……というか、日記が見つかったそうなんですけれどね」


 男の声が遠くから聞こえてくる。


「ああ、じゃあそれが原因で──」


 違う。


 そんなはずない。


 でも、頭の中で何かがパチンと音を立てた。


 忘れていた記憶が、堰を切ったように溢れ出してくる。


 そうだ、なんで忘れていたんだろう。


 お母さんは浮気なんかしていない。


 そして──


 ◆


 半年前。


 父の様子がおかしくなり始めた。


「また今日も残業だ」


「部長に怒鳴られてばかりで……」


 疲れ切った顔で帰ってくる父。


 だんだん笑顔が消えていった。


 そして、ある日から会社に行かなくなった。


「お前のせいだ!」


 父が母に怒鳴る声が蘇る。


「俺がこんなに苦しんでるのに、お前は呑気に……」


 パシン。


 乾いた音が響いた。


 父が母を叩いた音。


 最初は一度だけだった。


 でも、だんだんエスカレートしていった。


 母も病み始めた。


「相談に乗ってもらってただけなの」


 母の震える声。


「パート先の田中さんが心配してくれて……」


「浮気だろ!」


 父がLINEの画面を母に突きつける。


「一緒に食事しましょうって、これが浮気じゃなくて何だ!」


「違う! 相談に乗ってもらってただけよ!」


 母も必死に反論する。


「あなたが私を殴るから! 誰かに話を聞いてもらわないと、私だって壊れちゃう!」


「嘘つけ!」


 父の目が血走っていた。


 そして、父は台所へ向かった。


 包丁を手に取る。


「やめて!」


 母が叫ぶ。


「お父さん、やめて!」


 私も必死に止めようとした。


 でも、父は聞く耳を持たない。


「裏切り者め!」


 父が母に向かって包丁を振り上げる。


 母は必死に抵抗した。


 二人がもみ合う。


 私は父の腕にしがみついた。


「お父さん、お願い! やめて!」


 でも、振り払われてしまう。


 そして。


 もみ合いの中で、包丁が父の胸に。


「あ……」


 父の口から声が漏れた。


 赤い血が、シャツに広がっていく。


 母が包丁を握ったまま、呆然と立っている。


「嘘……」


 父が膝から崩れ落ちた。


 床に倒れ、動かなくなる。


「あなた! あなた!」


 母が父を抱き起こそうとする。


 でも、もう遅かった。


 父は死んでいた。


「私が……私が殺しちゃった……」


 母の顔が青ざめていく。


 震える手で、包丁を拾い上げた。


 そして、自分の喉に切っ先を向ける。


「お母さん、だめ!」


 私は母に駆け寄った。


「やめて! お願い!」


 母の手から包丁を取り上げようとする。


「離して!」


 母が暴れる。


「私も死ぬの! お父さんを殺したんだから!」


「違う! 事故だったじゃない!」


 必死でもみ合う。


 包丁を奪い合う。


 そして。


 私の手が滑った。


 包丁が母の喉を深くえぐった。


「あ……」


 母の目が大きく見開かれる。


 首から赤い血が噴き出した。


「お母さん!」


 私は母を抱きとめた。


 でも血が止まらない。


 母の唇が動く。


 声にならない「ごめんなさい」。


 そして、母も動かなくなった。


 私の手は母の血で真っ赤に染まっていた。


 何をしてしまったんだろう。


 父も母も、私が殺してしまった。


 いや、違う。


 事故だった。


 全部、事故だったんだ。


 でも、二人とも死んでしまった。


 私のせいで。


 家族みんなでいたかっただけなのに。


 幸せになりたかっただけなのに。


 どうして、こんなことに。


 私は震える手で、包丁を拾い上げた。


 もう一人で生きていく意味なんてない。


 お父さんもお母さんも、いない世界なんて。


 私も二人のところへ行こう。


 家族三人で一緒にいよう。


 包丁を自分に向けた。


 怖かった。


 でも、すぐに楽になった。


 そう思いながら、私は──


 ◆


「嘘だ……嘘だ……!」


 現実に引き戻された私は、震えながら後ずさった。


 男たちはまだ話を続けている。


「結局、三人とも亡くなったんですね」


「ええ。近所の人が異臭に気づいて通報したそうです」


「痛ましい事件ですね」


 三ヶ月。


 そうか、もう三ヶ月も経っていたんだ。


 私たちが死んでから。


 振り返ると父がまだソファに座っていた。


 でも、顔がゆっくりと崩れていく。


 肉が腐り骨が露出してくる。


「お父さん……?」


 母も同じだった。


 床を拭いていた母の顔はもう原型をとどめていない。


 腐敗した肉がずるりと落ちて、白い骨が見えている。


「なんだかこの家、カビ臭いですね。いや、カビというか……」


 男の一人が鼻をつまんだ。


「そうなんですよ、死臭とも違いますしね……どこか建材が腐ってるんでしょうか」


「取り壊すかどうか微妙な所ですね。モノはいいのでそのまま売りたいのですが」


 男たちは測量を終えると、玄関の鍵を閉めて出て行った。


 残された私は腐敗し始めた両親を見つめていた。


 これが現実だった。


 私たちはもう死んでいる。


 薄暗い家の中を見回す。


 電気はとっくに止まっていて昼間でも薄暗い。


 壁には蜘蛛の巣が張り、床には埃が厚く積もっている。


 カーテンは破れ、窓ガラスには汚れがこびりついている。


 母が拭いていたはずの場所には、黒い染みが広がっていた。


 血の跡だ。


 父と母の血。


 私たちが死んだ時の血。


 父の胸には包丁の傷がくっきりと残っている。


 母の首は深くえぐれたままだ。


 私は恐る恐る自分の体を見た。


 腹に大きな傷跡。


 自分で刺した跡だ。


 皮膚は灰色に変色し、ところどころ肉が剥がれ落ちている。


 骨が剥き出しになった指先。


 腐臭が鼻を突く。


 これが私の本当の姿。


「ああ……」


 声にならない悲鳴が漏れた。


 私たちは死んでいる。


 もうずっと前に。


 でも、どうして今まで気づかなかったんだろう。


 きっと認めたくなかったんだ。


 家族がバラバラになってしまったことも。


 みんなが死んでしまったことも。


 そして、それが全部、不幸な事故だったことも。


 だから生きているふりをしていた。


 毎日学校に行って、いじめられて、家に帰って。


 でも、それは全部幻だった。


 私が作り出した、偽物の日常。


 本当は誰も私を見ていない。


 だって私はもう存在していないから。


 腐敗した父と母が、ゆらりと立ち上がった。


 虚ろな眼窩から私を見つめている。


 怖い。


 でも逃げられない。


 だってここが私たちの家だから。


 ◆


 私はもう、この家から離れることはできない──永遠に。


 そう思っていた。


 でも、腐敗した父が口を開いた。


「亜美」


 その声は不思議なことに生前の優しかった頃と同じ響きだった。


 骨が露出した手を、ゆっくりと私に向けて差し伸べる。


「もう行こう、亜美」


 私は震えながら後ずさった。


 怖い。


 でも父の声には温もりがあった。


 母も立ち上がる。


 腐った顔に、かすかに微笑みが浮かんでいるような気がした。


「お父さんの事を許してあげてね」


 母の声も昔のままだった。


「私も随分叱ったんだから」


 父が首を振る。


 崩れかけた顔が悲しそうに歪んだ。


「本当に済まなかった。仕事のストレスなんて言い訳にならない。お母さんの事も亜美の事も傷つけてしまった」


 母が父の肩に手を置く。


「今更よ」


 そして私を見た。


「亜美までこんな事になっちゃって」


 母の眼窩から何かが流れ落ちた。


 涙だろうか。


 それとも、ただの腐敗した体液だろうか。


「でも、もう良いわ」


 母が続ける。


「そろそろ行きましょう」


 行く? 


 どこへ? 


 私は混乱したまま二人を見つめた。


 父と母がじっと私を待っている。


 すると、怖かったはずの腐敗した姿がなぜか愛おしく見えてきた。


 これが私の家族。


 どんな姿になっても私の大切な家族。


 胸の奥で何かが溶けていく感覚がした。


 憎しみ。


 後悔。


 苦しみ。


 全部がゆっくりと消えていく。


 私は大きく息をつく。


 腐った肺からかび臭い空気が漏れた。


 でももう気にならない。


 恐る恐る、骨の浮き出た自分の手を前に出した。


 そして父の手を握る。


 冷たくて、ぬめっとした感触。


 でも確かに父の手だった。


 もう片方の手を母に向けて伸ばす。


 一瞬、ためらった。


 この手で母を殺してしまった手。


 でも母は優しく微笑んで、その手を取ってくれた。


 三人の手がしっかりと繋がった。


 家族の輪がまた一つになった。


「上かな?」


 父がふと呟いた。


「ええ」


 母が頷く。


 上? 


 それがどこなのか私には分からない。


 でも、一つだけ確かなことがあった。


 そこはここじゃないどこか。


 そして、ここよりもずっと良い所。


 痛みも苦しみもない穏やかな場所。


 家族三人でまた笑い合える場所。


 窓から、柔らかい光が差し込んできた。


 いつもの薄暗い部屋が急に明るくなる。


 光の中に何かが見えた。


 懐かしい風景。


 昔住んでいた小さなアパート。


 まだ私が小さかった頃。


 父も母も若くて、毎日が幸せだった頃。


「見える?」


 母が囁いた。


「うん」


 私も頷く。


「よし、行こう。今度は、離れないように」


 父が言って──私たちは三人で手を繋いだまま、光に向かって歩き始めた。


 腐った足がぎこちなく動く。


 でも一歩進むごとに体が軽くなっていく気がした。


 振り返ると、薄暗い家が遠ざかっていく。


 蜘蛛の巣だらけの天井。


 血の染みがついた床。


 冷え切った食卓。


 全部が過去になっていく。


「さようなら」


 私は小さくつぶやいた。


 この家での日々。


 苦しかったけれど、それも私たちの歴史だ。


 でも、もう終わり。


 新しい場所へ行く時間だ。


 光がどんどん強くなっていく。


 眩しいけれど、目を瞑れない。


 だって瞼も腐り落ちちゃっているから。


 まあいいや。


「お父さん、お母さん」


 私は二人の手を強く握った。


 二人も私の手を強く握り返してくれる。


 そうして──光に包まれながら、私たちは消えていった。


 ・

 ・

 ・


 ◆◆◆


 翌日。


 不動産業者が再び家を訪れた。


「おや?」


 男の一人が首を傾げる。


「昨日より、なんだか明るい感じがしますね」


「そうですか?」


 もう一人が辺りを見回した。


「うーん、言われてみれば」


 確かに何かが違っていた。


 重苦しかった空気が少し軽くなったような。


 冷たかった家がほんの少し温かくなったような。


「まあ、いいでしょう」


 そういって男たちは仕事を続けた。


「匂いもなくなっていますね。このまま使えそうです。来月頭には清掃業者を入れましょう」


「ええ、手配しておきます」


「最近はこういう瑕疵がある物件も買い手がつきますからね、しっかり手入れをしておかなければ」


「次のオーナーには幸せに暮らして貰いたいものです」


 そんなことを話しつつ、仕事を終えた二人は去って行った。


(了)


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