◆
カチン、カチン──スプーンが皿に当たる音。
機械的な音が三つ、それぞれ微妙にずれたリズムで重なり合う。
父は新聞を読みながら、味噌汁をすすっていた。
母は虚ろな目でひたすら白米を口に運んでいる。
私は冷めた目玉焼きをつついた。
黄身が割れて、白身に広がっていく。
いつからだろう、この家の料理から味が消えてしまったのは。
塩も醤油も、何をかけても舌に届かない。
ただ物体を咀嚼し、飲み込むだけの作業になっている。
「ごめんなさいね」
母の声が唐突に響いた。
それに対して、父は何も聞こえなかったかのように新聞をめくった。
酷く冷たくて乾いた光景だ。
でも私はもう慣れてしまった。
母が口を開くときは、いつもこの言葉だけだ。
三ヶ月前に発覚した母の浮気。
相手は職場の上司だったらしい。
父は離婚を言い出したけれど、私のためにと思ったのか、結局は「再構築」することになった。
でも、それは名ばかりの再構築だ。
可哀そうだと思うけれど、浮気をした母が悪いと思う。
父はまだ怒っているのだ。
時計の針が七時半を指す。
私は席を立った。
「行ってきます」
返事はない。
振り返ることもせず、鞄を手に取る。
玄関で靴を履きながらふと思った。
もし今日、私が帰ってこなかったら二人は気づくだろうか。
──気付かなそうだな
そんなことを思いながら家を出た。
◆
外に出ると、梅雨の湿った空気が肌にまとわりついた。
アスファルトに反射する朝日がやけに眩しい。
通学路はいつもと変わらない。
近所のおばさんたちが立ち話をしていた。
私が近づいても話は途切れない。
まるで私なんていないかのように笑い声を上げ続けている。
以前は挨拶くらいはしあっていたのに──
きっと母の不倫の噂が広まったんだろう。
そして学校に着く。
教室に向かうのが本当に気が重い。
なぜなら──無視されているからだ。
下駄箱の前を通る生徒たちは、私を透明人間のように扱う。
肩がぶつかっても謝罪の言葉はない。
まるで空気にぶつかったかのように、何事もなかったかのように通り過ぎていく。
そしてついに教室。
窓際の一番後ろの席が私の席だ。
そこには今日も花瓶が置かれていた。
白い菊の花が三本、水に浸かっている。
昨日とは違う花だ。
誰かが毎日、新しいものに取り替えているらしい。
私は何も言わず、花瓶を机の端に寄せた。
そう、私は無視されているだけじゃなく、いじめにもあっている。
それもこれも全部母が不倫騒ぎなんて起こしたからだ。
でも、本当にそれだけが理由なのかな。
母親が浮気したからって、その子供がここまで嫌われるものだろうか。
まるで私が何か恐ろしいことをしたみたいに、みんな私を避けている。
先生も私の存在に気づかないふりをしている。
なんでこんな目に遭わなければいけないんだろう?
◆
昼休み。
屋上への階段に座り、一人で弁当を開いた。
母が作ったおにぎりが二つ。
海苔は湿気て、米にべったりと張り付いている。
一口かじるとやはり味がしない。
粘度の塊を飲み込んでいるような感覚。
まあ飲んだ事はないけれど。
それでも残さず食べた。
午後の授業も、朝と同じように過ぎていく。
チャイムが鳴り、帰りの会が終わる。
生徒たちが騒がしく帰り支度を始める中、私は静かに鞄に教科書を詰めた。
誰とも目を合わせず、誰とも言葉を交わさず。
幽霊のように教室を後にする。
帰り道、家が見えてきた。
二階建てのどこにでもあるような一軒家──でも。
玄関のドアに黄色と黒の縞模様のテープが貼られていた。
ただの悪戯だ。
近所の人たちがまた何かをしたらしい。
不倫家族の家、とでも思われているのだろうか。
私は無表情のままテープを剥がした。
◆
玄関を開けると薄暗い廊下。
あかり位つければよいのに。
「ただいま」
やはり返事はない。
リビングを覗くと、父がソファに座っていた。
テレビは消えている。
ただじっと壁を見つめているだけ。
「お父さん」
声をかけてみた。
反応はない。
近づいてもう一度呼びかける。
「お父さん、今日も会社行かなかったの?」
父の肩がぴくりと動いた。
そして低い声が返ってきた。
「もう行け」
たった四文字。
ああ、そうですか。
母の浮気のショックで、父は会社も休みがちになってしまった。
これ以上何を言っても無駄だ。
私は黙って、自分の部屋に向かった。
◆
部屋に入り、鞄を床に投げ出す。
そして、制服のままベッドに倒れ込んだ。
「お父さんもお母さんもクラスのみんなも」
──死んじゃえばいいんだ
最後の言葉だけは口には出さなかった。
起き上がり、机の引き出しを開ける。
奥の方に古いアルバムが入っていた。
埃をかぶったそれを取り出し、ページをめくる。
色褪せた写真が次々と現れる。
海での家族旅行。
私の誕生日パーティー。
桜の下でのお花見。
どの写真でも私たちは笑っていた。
父の大きな手が、私の頭を優しく撫でている。
母が私を抱きしめて頬にキスをしている。
三人で肩を寄せ合い、カメラに向かって笑顔を向けている。
最後のページに一枚の写真があった。
去年の正月に撮ったものだ。
まだ母の浮気が発覚する前の、最後の家族写真。
着物を着た私たちが神社の前で並んでいる。
父も母もまだ普通に笑っていた。
私も心から幸せそうな顔をしている。
写真に写る自分の顔を指でなぞった。
目の奥がじわりと熱くなる。
でも涙は出なかった。
もう枯れてしまったのかもしれない。
アルバムを閉じて引き出しにしまった。
窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。
──なんでこうなっちゃったんだろう
そんな事を思う。
◆
──そろそろ夕飯かな
無気力な母だけれど、ごはんはちゃんと作ってくれる。
味がしないのはもしかしたら私に原因があるのかも知れない。
ここ最近はストレスが凄かったから……。
そういう状況下にあると、ごはんの味がなくなったり耳が聴こえなくなったりするらしい。
そんな事を考えていると、階下からゴシゴシと何かを擦る音が聞こえてきた。
母がまた床を拭いているらしい。
私は部屋を出て階段を降りた。
リビングを覗くと母が床に這いつくばっていた。
雑巾を持った手が同じ場所を何度も何度も往復している。
そこには何のシミも見えないのに。
──病んでるなぁ
私は内心でそんな事を思った。
ただ拭くだけじゃなくて、なんというか──荒々しいのだ。
叩きつける様な激しさ。
二階の私の部屋にまで聞こえてくるほど。
まあそれは、この家がすっかり静まり返っているからなのかもしれないけれど。
父はソファに座ったまま虚空を見つめていた。
二人ともまるで壊れた人形みたいだ。
そんな二人を見ていると、私は胸の奥で何かが爆発しそうになった。
もう我慢できない。
「ねえ、どうして!」
声が勝手に飛び出した。
母の手が一瞬止まったような気がしたけど、すぐにまた動き始めた。
「なんで誰も私を見てくれないの!」
父も母も反応しない。
まるで私の声が聞こえていないみたいに。
「お父さん! お母さん!」
叫んでも何も変わらない。
父は相変わらず虚空を見つめ、母は床を拭き続ける。
「何とか言ってよ!」
私の声だけが、虚しく響いた。
そして完全な静寂が訪れる。
まるで世界から音が消えたみたいに。
ゴシゴシという音さえ聞こえなくなった。
膝から力が抜けた。
その場に崩れ落ちる。
涙も出ない。
ただ空っぽになった心だけが残っている。
床に座り込んだまま、天井を見上げた。
薄汚れた天井に小さな染みがある。
それがだんだん人の顔に見えてきた。
悲しそうな顔。
泣いているような顔。
私の顔みたいだな、と思った。
◆
それから数日が過ぎた。
相変わらず、同じような日々の繰り返し。
ある日の昼過ぎ、玄関の方から物音がした。
ガチャガチャと鍵を開ける音。
誰かが入ってくる。
母の手がぴたりと止まった。
私も音のする方を見つめる。
玄関のドアが開いて、スーツ姿の男が二人入ってきた。
「失礼します」
男の一人が誰もいない空間に向かって言った。
空き家に入る時の、形だけの挨拶だ。
一人は黒いファイルを抱え、もう一人は大きなバッグを持っている。
「電気も止まってるな」
男の一人がスイッチを押しながら言った。
「まあ、事故物件ですからね。三ヶ月も放置されてれば当然でしょう」
二人は靴を脱がずに、そのまま廊下を進んでいく。
「何するんですか!」
私は叫んだ。
でも、男たちは何も聞こえないかのように歩いていく。
まるで私の声が届いていないみたいに、ずんずんと廊下を進んでいく。
私は男たちを追いかけた。
「待ってください! 勝手に入らないで!」
必死に叫ぶけれど、彼らは止まらない。
リビングに入った二人はカーテンを開けて部屋を見回した。
「ここがリビングですね」
背の高い方の男が言った。
「思ったより広いな。これなら買い手もつきやすいでしょう。日当たりも良いですが──やけに寒いのが気になります。エアコンもついていないのに……」
父がソファに座っているはずなのに、男の人はまるで気づかない様子だった。
買い手?
何の話をしているんだろう。
もう一人の男がバッグからメジャーを取り出した。
そして壁の長さを測り始める。
どういうこと?
混乱する私を無視して、男たちは淡々と作業を続ける。
「ここが例の一家心中があった家ですか」
メジャーを持った男が、ふとつぶやいた。
一家心中?
何それ。
「ええ」
もう一人が答える。
「詳しい経緯は複雑みたいですけどね」
「どんな?」
「父親が仕事のストレスで病んでしまったのだとか。遺書……というか、日記が見つかったそうなんですけれどね」
男の声が遠くから聞こえてくる。
「ああ、じゃあそれが原因で──」
違う。
そんなはずない。
でも、頭の中で何かがパチンと音を立てた。
忘れていた記憶が、堰を切ったように溢れ出してくる。
そうだ、なんで忘れていたんだろう。
お母さんは浮気なんかしていない。
そして──
◆
半年前。
父の様子がおかしくなり始めた。
「また今日も残業だ」
「部長に怒鳴られてばかりで……」
疲れ切った顔で帰ってくる父。
だんだん笑顔が消えていった。
そして、ある日から会社に行かなくなった。
「お前のせいだ!」
父が母に怒鳴る声が蘇る。
「俺がこんなに苦しんでるのに、お前は呑気に……」
パシン。
乾いた音が響いた。
父が母を叩いた音。
最初は一度だけだった。
でも、だんだんエスカレートしていった。
母も病み始めた。
「相談に乗ってもらってただけなの」
母の震える声。
「パート先の田中さんが心配してくれて……」
「浮気だろ!」
父がLINEの画面を母に突きつける。
「一緒に食事しましょうって、これが浮気じゃなくて何だ!」
「違う! 相談に乗ってもらってただけよ!」
母も必死に反論する。
「あなたが私を殴るから! 誰かに話を聞いてもらわないと、私だって壊れちゃう!」
「嘘つけ!」
父の目が血走っていた。
そして、父は台所へ向かった。
包丁を手に取る。
「やめて!」
母が叫ぶ。
「お父さん、やめて!」
私も必死に止めようとした。
でも、父は聞く耳を持たない。
「裏切り者め!」
父が母に向かって包丁を振り上げる。
母は必死に抵抗した。
二人がもみ合う。
私は父の腕にしがみついた。
「お父さん、お願い! やめて!」
でも、振り払われてしまう。
そして。
もみ合いの中で、包丁が父の胸に。
「あ……」
父の口から声が漏れた。
赤い血が、シャツに広がっていく。
母が包丁を握ったまま、呆然と立っている。
「嘘……」
父が膝から崩れ落ちた。
床に倒れ、動かなくなる。
「あなた! あなた!」
母が父を抱き起こそうとする。
でも、もう遅かった。
父は死んでいた。
「私が……私が殺しちゃった……」
母の顔が青ざめていく。
震える手で、包丁を拾い上げた。
そして、自分の喉に切っ先を向ける。
「お母さん、だめ!」
私は母に駆け寄った。
「やめて! お願い!」
母の手から包丁を取り上げようとする。
「離して!」
母が暴れる。
「私も死ぬの! お父さんを殺したんだから!」
「違う! 事故だったじゃない!」
必死でもみ合う。
包丁を奪い合う。
そして。
私の手が滑った。
包丁が母の喉を深くえぐった。
「あ……」
母の目が大きく見開かれる。
首から赤い血が噴き出した。
「お母さん!」
私は母を抱きとめた。
でも血が止まらない。
母の唇が動く。
声にならない「ごめんなさい」。
そして、母も動かなくなった。
私の手は母の血で真っ赤に染まっていた。
何をしてしまったんだろう。
父も母も、私が殺してしまった。
いや、違う。
事故だった。
全部、事故だったんだ。
でも、二人とも死んでしまった。
私のせいで。
家族みんなでいたかっただけなのに。
幸せになりたかっただけなのに。
どうして、こんなことに。
私は震える手で、包丁を拾い上げた。
もう一人で生きていく意味なんてない。
お父さんもお母さんも、いない世界なんて。
私も二人のところへ行こう。
家族三人で一緒にいよう。
包丁を自分に向けた。
怖かった。
でも、すぐに楽になった。
そう思いながら、私は──
◆
「嘘だ……嘘だ……!」
現実に引き戻された私は、震えながら後ずさった。
男たちはまだ話を続けている。
「結局、三人とも亡くなったんですね」
「ええ。近所の人が異臭に気づいて通報したそうです」
「痛ましい事件ですね」
三ヶ月。
そうか、もう三ヶ月も経っていたんだ。
私たちが死んでから。
振り返ると父がまだソファに座っていた。
でも、顔がゆっくりと崩れていく。
肉が腐り骨が露出してくる。
「お父さん……?」
母も同じだった。
床を拭いていた母の顔はもう原型をとどめていない。
腐敗した肉がずるりと落ちて、白い骨が見えている。
「なんだかこの家、カビ臭いですね。いや、カビというか……」
男の一人が鼻をつまんだ。
「そうなんですよ、死臭とも違いますしね……どこか建材が腐ってるんでしょうか」
「取り壊すかどうか微妙な所ですね。モノはいいのでそのまま売りたいのですが」
男たちは測量を終えると、玄関の鍵を閉めて出て行った。
残された私は腐敗し始めた両親を見つめていた。
これが現実だった。
私たちはもう死んでいる。
薄暗い家の中を見回す。
電気はとっくに止まっていて昼間でも薄暗い。
壁には蜘蛛の巣が張り、床には埃が厚く積もっている。
カーテンは破れ、窓ガラスには汚れがこびりついている。
母が拭いていたはずの場所には、黒い染みが広がっていた。
血の跡だ。
父と母の血。
私たちが死んだ時の血。
父の胸には包丁の傷がくっきりと残っている。
母の首は深くえぐれたままだ。
私は恐る恐る自分の体を見た。
腹に大きな傷跡。
自分で刺した跡だ。
皮膚は灰色に変色し、ところどころ肉が剥がれ落ちている。
骨が剥き出しになった指先。
腐臭が鼻を突く。
これが私の本当の姿。
「ああ……」
声にならない悲鳴が漏れた。
私たちは死んでいる。
もうずっと前に。
でも、どうして今まで気づかなかったんだろう。
きっと認めたくなかったんだ。
家族がバラバラになってしまったことも。
みんなが死んでしまったことも。
そして、それが全部、不幸な事故だったことも。
だから生きているふりをしていた。
毎日学校に行って、いじめられて、家に帰って。
でも、それは全部幻だった。
私が作り出した、偽物の日常。
本当は誰も私を見ていない。
だって私はもう存在していないから。
腐敗した父と母が、ゆらりと立ち上がった。
虚ろな眼窩から私を見つめている。
怖い。
でも逃げられない。
だってここが私たちの家だから。
◆
私はもう、この家から離れることはできない──永遠に。
そう思っていた。
でも、腐敗した父が口を開いた。
「亜美」
その声は不思議なことに生前の優しかった頃と同じ響きだった。
骨が露出した手を、ゆっくりと私に向けて差し伸べる。
「もう行こう、亜美」
私は震えながら後ずさった。
怖い。
でも父の声には温もりがあった。
母も立ち上がる。
腐った顔に、かすかに微笑みが浮かんでいるような気がした。
「お父さんの事を許してあげてね」
母の声も昔のままだった。
「私も随分叱ったんだから」
父が首を振る。
崩れかけた顔が悲しそうに歪んだ。
「本当に済まなかった。仕事のストレスなんて言い訳にならない。お母さんの事も亜美の事も傷つけてしまった」
母が父の肩に手を置く。
「今更よ」
そして私を見た。
「亜美までこんな事になっちゃって」
母の眼窩から何かが流れ落ちた。
涙だろうか。
それとも、ただの腐敗した体液だろうか。
「でも、もう良いわ」
母が続ける。
「そろそろ行きましょう」
行く?
どこへ?
私は混乱したまま二人を見つめた。
父と母がじっと私を待っている。
すると、怖かったはずの腐敗した姿がなぜか愛おしく見えてきた。
これが私の家族。
どんな姿になっても私の大切な家族。
胸の奥で何かが溶けていく感覚がした。
憎しみ。
後悔。
苦しみ。
全部がゆっくりと消えていく。
私は大きく息をつく。
腐った肺からかび臭い空気が漏れた。
でももう気にならない。
恐る恐る、骨の浮き出た自分の手を前に出した。
そして父の手を握る。
冷たくて、ぬめっとした感触。
でも確かに父の手だった。
もう片方の手を母に向けて伸ばす。
一瞬、ためらった。
この手で母を殺してしまった手。
でも母は優しく微笑んで、その手を取ってくれた。
三人の手がしっかりと繋がった。
家族の輪がまた一つになった。
「上かな?」
父がふと呟いた。
「ええ」
母が頷く。
上?
それがどこなのか私には分からない。
でも、一つだけ確かなことがあった。
そこはここじゃないどこか。
そして、ここよりもずっと良い所。
痛みも苦しみもない穏やかな場所。
家族三人でまた笑い合える場所。
窓から、柔らかい光が差し込んできた。
いつもの薄暗い部屋が急に明るくなる。
光の中に何かが見えた。
懐かしい風景。
昔住んでいた小さなアパート。
まだ私が小さかった頃。
父も母も若くて、毎日が幸せだった頃。
「見える?」
母が囁いた。
「うん」
私も頷く。
「よし、行こう。今度は、離れないように」
父が言って──私たちは三人で手を繋いだまま、光に向かって歩き始めた。
腐った足がぎこちなく動く。
でも一歩進むごとに体が軽くなっていく気がした。
振り返ると、薄暗い家が遠ざかっていく。
蜘蛛の巣だらけの天井。
血の染みがついた床。
冷え切った食卓。
全部が過去になっていく。
「さようなら」
私は小さくつぶやいた。
この家での日々。
苦しかったけれど、それも私たちの歴史だ。
でも、もう終わり。
新しい場所へ行く時間だ。
光がどんどん強くなっていく。
眩しいけれど、目を瞑れない。
だって瞼も腐り落ちちゃっているから。
まあいいや。
「お父さん、お母さん」
私は二人の手を強く握った。
二人も私の手を強く握り返してくれる。
そうして──光に包まれながら、私たちは消えていった。
・
・
・
◆◆◆
翌日。
不動産業者が再び家を訪れた。
「おや?」
男の一人が首を傾げる。
「昨日より、なんだか明るい感じがしますね」
「そうですか?」
もう一人が辺りを見回した。
「うーん、言われてみれば」
確かに何かが違っていた。
重苦しかった空気が少し軽くなったような。
冷たかった家がほんの少し温かくなったような。
「まあ、いいでしょう」
そういって男たちは仕事を続けた。
「匂いもなくなっていますね。このまま使えそうです。来月頭には清掃業者を入れましょう」
「ええ、手配しておきます」
「最近はこういう瑕疵がある物件も買い手がつきますからね、しっかり手入れをしておかなければ」
「次のオーナーには幸せに暮らして貰いたいものです」
そんなことを話しつつ、仕事を終えた二人は去って行った。
(了)