俺は、何のためにこんな生活を続けているんだろう。
ふと何もせず、毛布にくるまっていたい衝動に駆られた。俺はこのままベッドに眠ったまま、何もしなくたっていいし、何かしてもいい。どのような選択をしても、誰からも文句は言われない。
いいや、ダメだ。お前はまだ、気を抜く資格はない。
借金完済、その日が来るまでは。
毛布を敷いた簡素なベッドから起き上がる。洞窟のような、ひんやりとした岩肌が剥き出しの空間。だけど、ここが俺の生活の全てだった。
鍋代わりにしているモンスターの硬い鱗へ汲みたての湧き水を注ぎ、乾燥させたキノコと物々交換で手に入れた動物性の脂を混ぜ、モンスター除けのために焚いている焚火で煮込む。味付けは岩塩のみ。ほぼ毎日、この朝食だ。
数分もたたないうちに仕上がった朝食を胃に流し込み、息をついた。
……借金を完済するためにダンジョンに住み着いて、もう10年になる。
半世紀前、世界各地に突然現れた巨大な穴。それは――ただの穴じゃなかった。
後に「異界の脈動」と名付けられる現象。その穴から、異界の力と生物がねじ込まれ、いわゆる“モンスター”が暮らす『ダンジョン』ができた。
最初は壮絶なパニックが起きたらしい。俺は今年で32歳だが、俺の両親の世代はとんでもない混乱の中を生き抜いてきたと聞く。
人類のダンジョンへの見方が変わったのは、モンスターが落とすアイテムが『原油』や『レアアース』といった限りある資源だと判明した時だった。ダンジョンは人類に新たなフロンティアをもたらしたのだ。
俺は左腕にとりつけた腕時計型のステータスデバイスを操作して、配信機能の状態を確認する。配信は、ダンジョンに潜る者、全員の義務だ。
配信義務化には人類が資源を手に入れ続けられる理由があるんだが……とにかく。
ダンジョンに入って10年……俺は義務として、ずっと配信を続けていた。
顔出しなし、手元だけの作業配信。
だからこそ、常連ばっかりの落ち着いて静かな配信は、貴重な会話の場だ。ピッケルを片手にいつもの岩壁の前に立つ様子が配信されると同時、コメントが来る。
『フズリナさん起きた!』「うん、起きた」
『今日もお疲れ様です』「マーさんこそ、おつかれさま」
『珍しい鉱石出たー?』「全然。おとといのロックウールが最後かな……」
常連が来るたびに、一言だけ返事をする。それが俺の精一杯のファンサービス。
かつん。かつん。いつも通りの音が響く空間。これが昼休憩を挟み、日没ごろまで続く。そして日没になったら採取した素材をデバイスを通じて換金し、借金を返済する。これが俺の毎日だった。
その時。岩壁に振り下ろしたピッケルが、これまで聞いたことのない軽快な電子音を鳴らした。しばらく呆然と目の前の光景を見つめてしまう。
すると、今度は、配信アプリからの通知音が来た。コメントが1つ、増えている。
『フズリナさん、通話来てません?』
常連の1人からの問いかけだ。俺はハッとする。あまりにも久しぶりで忘れていた。確かに、ツルハシの当たった岩壁から響いたのはステータスデバイス同士で掛け合う通話の着信音に似ていた。
「そうかもしれない。ありがとう」
そう言って、ステータスデバイスを音がした方へかざす。突然、配信への音声出力が、自動的に終了した。
『ダンジョンマスターより、緊急コラボレーションのご提案』
画面から立体的に浮かび上がる手紙の映像に、俺は目を見開いた。
(ダンジョンマスター? なんで?
一瞬で、警戒心が全身を駆け巡った。これは、悪質な詐欺か、それとも──。
次の瞬間、デバイスの画面が激しく点滅し始めた。その光は、俺の洞窟の壁を異常な色に染め上げる。
そして、画面中央に、見たことのないアイコンが浮かび上がった。
「なんだ、これ……」
俺の声に反応するようにアイコンが輝きを増したかと思うと、空間がわずかに歪んだ。目の前の岩壁がゼリーみたいにぐしゃぐしゃと崩れだし、空間そのものが捻じれるような、奇妙な感覚が広がる。
数秒後、その揺らめきが収まった場所に、誰かが立っていた。
白い兎の耳がぴこり、ぴこりと揺れる。金色の髪は長く、豊かな胸元が目に付いた。褐色の肌に、透き通るような緑の瞳。俺よりも背が高くて、その姿はまるで彫刻みたいに整っていた。
絶対に人間じゃない彼女はにこやかに、だけどどこか必死な表情で、俺に駆け寄ってくる。緊張のあまり声も出ないし、体も動かない。
「っしゃーっ! 初めまして! 神様、仏様、フズリナ様! あたし、この『石櫃』ダンジョンのダンジョンマスター、イレーヌよ!」
イレーヌと名乗る彼女は、興奮した様子で手を叩く。瞬間、冷たい岩肌の上にたっぷりのクッションと白い椅子、それからお菓子と紅茶が並んだテーブルが出現した。俺の背後には、身の毛がよだつような柔らかさの椅子が現れ、強制的に座らせられる。
目の前で起きる超常現象に、俺は言葉を失った。この人……本当にダンジョンマスターだっていうのか。
呆然としていると、彼女が早口でまくしたてはじめた。
「あのね、あたし、魔界で動画配信してるんだけど、ぜーんぜんダメなの! 再生数1桁、フォロワーも10人がやっとで、このままじゃダンジョンマスターとしての資格はく奪、借金まみれになっちゃうのよ!」
理解が追い付かないまま、俺は呆然と目の前の彼女を見つめる。借金まみれ、という言葉だけが、やけに耳に残った。
「でも! フズリナ様、あなたの配信を見つけたの! すごく地味なのに、常連がめっちゃついてるじゃない!?」
彼女は本当に、ダンジョンそのものを操る絶対的な権能を持つ「ダンジョンマスター」なのか。疑念がわいてくる。
何か俺を騙そうとする誰かがいるんじゃないか。そう勘繰ってしまう。
どのような選択をしても、誰からも文句は言われない。そんなことを考えていたくせに。
せめて。彼女の熱意と借金まみれという言葉の意味を確認しようと、
「……詳しい話を、聞かせてもらえますか」
と、尋ねたのだった。